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白い翼

 ボディガードが腕や胸筋に力を入れると、彼をいましめる注連縄はぶちぶちとちぎれた。


「あー、やっぱりこまめに注連縄は換えてた方がよかったのかも」


 しまった、と真海がパドルで自分の肩を叩いた。


 ボディガードはすぐに実春の縄を解き、主を支えて立たせる。


「たとえ分家に社を任せているとはいえ、私は光崎の当主ですよ。神使を封じることくらい造作もないことです」


 実春に見据えられて、時久は顔をこわばらせている。

 胸のポケットに手をやり、そこにおさめられている橘の実を布越しに触れる

 。

 もしかすると時久自身は封印されても、橘の種子だけは常世に戻してやりたいと願っているのかもしれない。


 実春は扇子を取りだすと、すっと流れるような所作で広げた。


「これは、封じの扇子。分家がいつ裏切るか知れたものではありませんからね。代々、当主にのみ伝わっているのですよ」


 ふっと扇子に息を吹きかける。

 扇面が発光したように見えた。

 次の瞬間、無数の糸が伸びていく。

 まるで蜘蛛の糸のような細さ。糸は四方八方に散り、月光を受けてきらめいた。


 糸そのものに意思があるのか、放射状に広がった糸は一点に向かって集約していく。

 時久へと。


「逃げて、時久さま」


「無駄ですよ。光崎が神使を手放すはずがないですからね」


 踵を返そうとした時久の体に、糸が巻き付いていく。


 蜘蛛の糸にがんじがらめになった虫のように、時久は道に倒れこんだ。


「お願い、もうやめて。こんなに乱暴に扱って、それでも神の使いだと祀り上げて。あなた、おかしいわ」


「おかしいのは、私だけではないですよ。涼香」


 くっくと目を極限まで細めて、実春が笑う。


「雛のくせに、十七より先のことを思う君の方が、よほどおかしい。肉をとるために飼われているひよこが、成鳥になった先のことに想いを馳せますか?」


 実春が顎をしゃくると、ボディガードは糸の束を掴み、片手で時久を担ぎ上げた。


「そこの新しい巫。いますぐに新しい注連縄を用意しなさい」


「なんであたしが」


「誰が口答えを許しましたか。巫の意見など聞いていません。ただ命じられたことをすればいいのです」


 パドルを持つ真海の手に、力がこもっている。

 手の甲に筋が立て、唇を噛みしめて。


「失敗なの? あと少しだったのに」


 涼香は悔しさに呟いた。


 誰もが幸せになれない制度を変えられると思ったのに。壊すことができると信じていたのに。


「諦めるな」


「え?」


 涼香の耳元で、霜がささやく。


「来てくれたぞ」


 かつん、かつん、と硬い音がした。


 近づいてくる人影。

 手に持ったものを茂る竹にあてながら、まっすぐに向かってくる。


「間に合いましたかしら」


 それはやつれた志津香だった。

 結った髪は乱れ、和服は着崩れている。


「姉さん、座敷牢に入れられていたのでは」


「やり残した仕事を終えるために、参りましたの」


「ちょうどいい、志津香。新しい巫と共に屋敷の結界を張りなおし、封印を強固なものにするのです」


 実春は、味方を得たと満足そうな表情を浮かべた。


「無駄ですわ、実春さま。その子はただの娘。巫の力は持ち合わせておりませんもの」


 志津香が腕を横に払うと、その手には花鋏が握られていた。


 また刃が向けられるのだろうか。


 志津香は着物の裾を乱しながら、わき目もふらずに走ってくる。

 だが、その目は涼香を見ていない。


 実春の扇子から発する無数の糸の束に向かって、志津香は腕を突きだす。


 じゃきり、と糸の集まりは切断された。


 断面がはらはらと解けて、糸は散り、大気に溶けるように消えていく。


「なっ! 何をするのです」


「あんたは、先祖代々伝わるっていう品を、雑に扱いすぎるんだよ」


 腕を組んだ霜が、えらそうに実春をにらみつける。


 そういえば霜はわざと実春を怒らせて、あの扇子で叩かせたりしていた。

 そのたびに巻かれていた糸がほどけそうになっていた。


 蜘蛛のような糸は実体を伴うものではないのだろう。

 おそらくは初代やそれに近い神官が、祈祷し具現化したもの。


 もしかすると実春には、普段は扇に巻かれていた封じの糸が見えなかったのかもしれない。

 目にすることができれば、もっと大事にしていただろう。

 それとも大事にしないから、目にすることがかなわずにいたのか。


「でも、姉さん。どうして」


「霜さんに頼まれました。私と話すために彼は座敷牢に入ったのでしょう。あなたが神使の解放を望んだから」


 志津香は帯に鋏を差すと、着物の衿を直して、髪を手早く結いなおした。


 時久を束縛していた糸は、今はもうすべて消えている。


「涼香。さぁ、あなたの手で」


 帯から鋏を取りだし、志津香は涼香に手渡した。


 鋏の持ち手は冷たくはなく、姉のぬくもりが残っている。


「もう、あなたのことを羨むのはやめましょう」


「姉さん」


 背中を押されて、涼香は家と庭を囲む塀へと向かった。


 最後の注連縄。

 これを切れば、時久は戻ることができる。


 がくりと肩を落とした実春は、小さく「やめてくれ」と呟いている。

 神使を軽んじ、彼に仕える者を軽蔑していた実春こそが、神使の威光に頼っていたのだろう。


 涼香は深呼吸すると、最後の一本を切り落とした。


 縄がゆっくりと落ちていくその時、霜に支えられていた時久の体が白い光に包まれた。



 月夜の空に、白い羽根が散る。

 時久の背に、美しい翼が広がる。

 手にはしっかりと橘の実を握りしめながら。


 体内に残る……いや、残し続けた愛しい人の目が血の穢れであるというのなら。

 代々の雛を清め続けた、ときじくの実はすべてを清浄にするのだろう。


 時久は天を仰ぐと、翼を動かした。

 踵が持ち上がり、つぎにつま先が地面から離れていく。


 重力を感じさせない軽やかさで、緩やかに上昇していく。


(白鷺だわ。なんて美しい)


 翼を一度羽ばたかせると、時久が涼香を見下ろしてきた。


「永らく、ありがとうございました」


 またね、とも違うし、おつとめご苦労さまでもないし、なんて言って見送ったらいいのか分からないけれど。

 涼香は時久に向かって大きく手をふった。


 これまでに見たことがないほど柔らかい表情で、時久は微笑んでいた。


「君たちは、本当に無茶をするよねー。でも、嬉しかったよ」


 そしてその姿は、薄れて消えていった。

 最後に時久は光崎の家をふり返った。


 その目に映るのが橘の木なのか、陸子との思い出なのかは、分からない。



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