プロローグ:突きつけられた理不尽、始まりの道
「ちょっといいかい……?」
雨が激しく降り注いでいた、あの日。
幼い僕のもとへ、二人の男がやってきた。
「えっ、お、おじさんたち……だれ?」
突然現れた二人に戸惑いながらそう尋ねると、男たちは顔を合わせ、それから僕にこう告げた。
「君のお父さんの知り合いだよ。ちょっとばかり、お金を貸していてね……」
「この間、必ず払うと約束したんだけど……いないみたいだね?」
「……もう……いないんだ」
両親は、もういない。
父は鉱山に出稼ぎに行き、地震に巻き込まれて帰らぬ人となった。病に伏していた母も……後を追うように亡くなった。
「……死んじゃったから」
「……そうか……そりゃ、辛かったな……」
「本当に、気の毒なことだ……こんな小さな子が……」
鈍感な僕は、このとき初めて——この世の理不尽を突きつけられた。
「それじゃあ、借金は——君に払ってもらおうか」
「そうだな。坊や、俺たちに着いてきてもらおうか」
「えっ……⁉︎ ちょっと待って!」
「ほら、暴れない暴れない……」
男たちは容赦なく、僕の小さな腕を引っ張っていった。
「やめてよッ! 引っ張らないでッ!」
「……暴れんなって……言ってんだろがぁぁッ‼︎」
「イタッ、痛い痛いッ‼︎」
途端に、握る手に力がこもった。もう腕がへし折れるかと思うくらい、痛かった。
「お金のことなんて知らないよッ! 離してッ‼︎」
「黙れェッ‼︎ テメェの親父の借金は、テメェが払うんだよッ‼︎ 舐めてると痛い目に遭わせるぞッ! このクソガキがぁッ‼︎」
蛇の刺青を入れた男が、激しく罵りながら鬼の形相で睨みつけてくる。その隙に、もう片方の黒い鳥の刺青の男が、家屋にあったものを差し押さえていった。
「ん? なんだこのボロボロの本……『錬金術・入門編』?」
「っ⁉ それは……返してよっ! 大切なものなんだっ!」
「このボロ臭い本が? へっ……こんな古い本、小金にすらならねェな……」
父の形見が、乱暴に床へと投げ捨てられる。その光景を目の当たりにし、僕は怒りを爆発させた。
「やめッ……やめろぉぉッ‼︎」
「だから、暴れんじゃねぇって言ってんだろうがぁ‼︎ 腕切り落とすぞぉ‼︎」
「ひいっ⁉︎」
止めたかった。
だけど、非力な僕には抵抗する術もない。
たった二人の、大切な家族との思い出が——奪われていく。
それが怖くて、苦しくて、仕方がなかった。
「クロウズ。このガキ引き連れて、例の場所に向かうぞ……」
「そうですねぇ、ランゲスの旦那ァ。早いところ売っぱらっちまいましょう」
冷たい雨粒が、小さな身体の温もりを奪っていく。心なしか、じめじめとした雨の匂いに、ほんの少しだけ血の匂いが混じっているように感じた。
僕はこれからどうなってしまうのだろう……。
「……そこのお二方……一体、何をしているのかしら?」
凛とした女性の声が、鋭くその場に響いた。亡くなった母と同じくらいの歳の、ハキハキとした声。おぼろげな視界でも、鈍い金髪なのがひと目でわかった。
「何って……仕事だよ。このガキの親父に金を貸していたから、取り立てに来た。それだけだ」
「そうですか……ところで、その子の父親の名は何と言うのです?」
「……あ? 人の事情に首突っ込んで——」
「——ちょっと黙れクロウズ」
ランゲスと呼ばれた男が、クロウズを制止する。
「……生憎だが、忘れちまった。俺たちも他の連中から取り立てなくちゃならねぇんでな。いちいち覚えてらんねぇよ」
「それはおかしいですね……借用書はあるのですか? 金額とともに、そこに署名があるはずですよ」
「持ってるには持ってるが……ほれ。そこの馬鹿せいで、びしょ濡れになっちまった」
「……」
雨で滲んだ借用書を見せながら、ランゲスはそう答えた。それに対して、彼女は鋭い視線を向ける。
「まぁ……コイツの親父が、金を借りていたってことに変わりはねぇ。本人が死んじまったってんなら、その子供に責任が移される」
「だからといって、手を上げて良い理由にはなりません。ましてや相手は幼子です」
「こっちの世界じゃ、関係ねぇよ。借りたものは必ず返してもらう。それが道理ってやつだ」
「返す能力のない子供に、債務の履行を迫るのは論外だと思いますよ? 少なくとも、私の知る取り立て人は、返済能力がない場合は保証人に債務を移しています」
「……その保証人がいねぇから、コイツには払ってもらわなくちゃならねぇんだよ。安心しな。俺たちは慈悲深いからなぁ……ざっとまけて、二百万ゼルにしてやる」
「二百万……ですって?」
鋭く目を細める彼女を一瞥し、ランゲスは嘲るように口角を上げた。
「それともなんだ? アンタが払ってくれるってのかい? 見ず知らずのガキ一匹のために身代わりになろうって? ははっ……」
してやったり———そう言わんばかりの、自信に満ちた表情だった。
機嫌良さげな、気味の悪い笑みが響く。
僕は血の気が引いた。
この問答は、完全にランゲスに軍配が上がった。
そう思った。
だけど———彼女は、予想を遥かに超える答えを返した。
「いいでしょう。私がその子の保証人になります。その二百万ゼル、私が引き受けますよ」
一瞬、時の流れが止まったかのように、その場に静寂が訪れた。
彼女以外の誰もが意表を突かれた。ランゲスも、クロウズも。
そして、当事者であるはずの僕までもが、目を見開いた。
平静を装いながらも、鋭い目つきのランゲスが口を開く。
「……その根拠は? この大金を、どうやって払ってくれるってんだ? まさか、ちまちま働いて払うとか抜かすんじゃねぇよなぁ?」
「私はかつて、聖母教会で修道女をしていました。そのときの退職金が入ってくる予定なのですよ」
「へぇ……そんなもんが……」
ランゲスの目の色は変わらない。蛇のように獲物を睨み据えている。瞳の奥には、彼女の言葉への疑念が渦を巻いていた。
「……入ってくるってのはいつなんだ?」
「五年後です」
「五年後だと? はっ……舐めてやがるな」
「そう言われるのは承知の上です。昨今は街の外が物騒ですから、現金の輸送が遅れているのだそうで」
「そりゃ大変だなぁ……それだったら、このガキを奴隷にして貢がせたほうが手っ取り早い」
「それでしたら、輸送隊の護衛依頼でも受けたらどうでしょう? 行く手を阻んでいるのは、他でもない盗賊や山賊たちなのですから。腕に自信のある“冒険者”でしたら、難しい話ではないのでは?」
彼女の痛烈な皮肉に、今度はクロウズが声を荒げた。
「さっきからベチャクチャと……屁理屈並べてんじゃねェ! ぶちこ———」
「———おいクロウズ! 余計な口挟むな!」
「ひぃっ⁉︎ す、すんません……!」
「この女は俺と話をしてんだよ……手出しせず、手早く差し押さえておけ」
ランゲスの眼中に、もはや僕やクロウズの姿はなかった。
あるのは、目の前に凛々しく立つ金髪の女性だけ。まるで、狙った獲物を執拗に追いかける蛇のような男だった。
「すまねぇな。ウチの馬鹿が……」
「そうね。白昼堂々、騒ぐ輩はこの路地には似合わないわ。さっさとお立ち去り願いたいのだけど? もちろん、あなたもね」
「……このガキはどうなってもいいと?」
「あら。やってごらんなさい。ここにいられなくなる前に、できるというならね」
遠くから、何人かの足音と鎧の擦れる音が聞こえた。先ほどの怒声を聞いて、自警団が駆けつけてきたのだ。
「……チッ」
状況を察したランゲスが、悪態を吐く。
そして、僕を一瞥すると———何か良いことでも思いついたかのように、鋭く笑みを浮かべた。
「わかったわかった……このガキを離せばいいんだろ? だったら望み通りくれてやる。ほれッ!」
「う、うわぁッ⁉︎」
いとも容易く、僕は乱暴に放り投げられた。鈍い痛みが身体中を走り、ぬかるんだ地面を転がっていく。冷たい泥水が、無情にも降りかかった。
「……ッ」
「だが……言質は取ったからな。絶対に逃さないぜ……覚悟しておけ……!」
「ま、待ってくださいよォ〜 旦那ァ〜……」
そう言って、二人は霧深い雨の奥へと姿を消していった。
突如として訪れた恐怖から、僕はようやく解放された。安心した途端、身体の力が一気に抜け、その場に崩れ落ちてしまった。
「大丈夫?」
「う、うん……平気だよ……」
そんな僕に、彼女は手を差し伸べてくれた。
その表情は、先ほどの男たちに向けていたものとはまるで違う。
温かくて、慈愛に満ちた微笑み。
まるで聖女と見紛うほど、光に溢れた女性だった。
「あなた……ルーカス君、よね?」
「うん……おばさん、だれ?」
「私はマーガレッタよ。君を迎えに来たの」
「おむ……かえ?」
「そうよ。君は今日から、新しいお家に行くの」
こうして僕は、マーガレッタさんの孤児院に引き取られることになった。
最初の頃は、慣れない環境に孤独と不安を募らせた。ときには両親のことを思い出して、泣いたこともあった。
それでも、歳の近い仲間たちと過ごすうちに、少しずつ新しい生活にも馴染んでいった。
孤児院でも、僕はよく本を読んでいた。
特に、形見の錬金術書はいつも肌身離さず持ち歩き、錬金術の勉強を怠ることはなかった。楽しいから続けられたというのもある。
けれど、それだけじゃない。僕には、もう一つ目的ができていた。
———“マーガレッタさんに恩を返したい”。
その思いこそが、僕が本格的に錬金術師を目指す、大きなきっかけだった。




