記憶屋
僕が初めて「記憶屋」を訪れたのは、三ヶ月前のことだった。
街の片隅にある、小さな店。
看板には、こう書かれていた。
「記憶、売買します」
◆◆◆
店主は、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。記憶を売りに来られましたか? それとも、買いに?」
「あの……売りたいんですが」
「かしこまりました」
店主は、椅子を勧めた。
「どのような記憶を?」
「失恋の記憶です」
僕は、正直に答えた。
「一週間前に、恋人に振られまして。その記憶が、辛くて」
「なるほど」
店主は、頷いた。
「失恋の記憶は、人気がありますよ。買い手がすぐに見つかります」
「本当ですか?」
「ええ。失恋を経験したことのない人が、買うんです。人生経験として」
僕は、驚いた。
失恋を、買う人がいるのか。
「では、査定させていただきます」
店主は、僕の頭に装置を当てた。
数秒後——
「五万円で、買い取らせていただきます」
「五万円!」
僕は、驚いた。
たった一週間の記憶が、五万円。
「はい。新鮮な記憶ほど、高値がつくんです」
店主は、微笑んだ。
「いかがなさいますか?」
僕は、少し考えた。
でも——
辛い記憶を消せて、お金ももらえる。
悪くない。
「お願いします」
◆◆◆
記憶の抽出は、一瞬で終わった。
痛みもない。
そして——
失恋の記憶が、消えた。
元恋人の顔も、別れた時の言葉も、何も思い出せない。
ただ、「恋人がいた」という事実だけが、残っている。
不思議な感覚だった。
でも——楽だった。
辛くない。
僕は、五万円を受け取って、店を出た。
◆◆◆
それから、僕は何度も記憶屋を訪れた。
嫌な上司に怒られた記憶——三万円。
試験に落ちた記憶——二万円。
恥ずかしい失敗の記憶——一万円。
どんどん、売った。
お金も貯まるし、嫌な記憶も消える。
最高だった。
◆◆◆
ある日、僕は気づいた。
最近、記憶に空白が多い。
昨日の夕食、何を食べただろう?
思い出せない。
先週、誰と会っただろう?
わからない。
でも——別に困らない。
重要なことは、覚えている。
仕事も、できている。
問題ない。
◆◆◆
僕は、記憶を買うようになった。
空白を埋めるために。
他人の楽しい旅行の記憶——十万円。
素晴らしいパーティーの記憶——八万円。
感動的な映画の記憶——五万円。
どれも、本物みたいだった。
まるで、自分が体験したかのように。
僕の人生は——
楽しい記憶で、溢れていった。
◆◆◆
でも——
空白は、増え続けた。
子供の頃の記憶。
家族の記憶。
友人の記憶。
どんどん、消えていく。
僕は、売っていたのだ。
知らないうちに。
「どうせ使わない記憶だから」と。
◆◆◆
ある朝、僕は目を覚ました。
ここは、どこだ?
自分の部屋のはずだ。
でも——見覚えがない。
鏡を見た。
自分の顔が、映っている。
でも——
誰だ、これ?
名前は?
わからない。
何歳だ?
わからない。
仕事は?
わからない。
家族は?
わからない。
僕は——誰だ?
◆◆◆
パニックになって、僕は外に出た。
街を歩く。
どこかに、手がかりがあるはずだ。
そして——
見つけた。
「記憶屋」の看板。
僕は、店に駆け込んだ。
「すみません! 僕、誰ですか!?」
店主は、困った顔をした。
「ああ……また、ですか」
「また?」
「あなたで、今月三人目です」
店主は、ため息をついた。
「記憶を売りすぎたんですよ。自分が誰だか、わからなくなるまで」
「戻せないんですか!?」
「申し訳ございません」
店主は、首を横に振った。
「売った記憶は、すでに他の方が購入されています。返品はできません」
「そんな……」
僕は、崩れ落ちた。
自分が、わからない。
誰だか、わからない。
◆◆◆
店主は、電話をかけた。
「はい、また一人です。お願いします」
数分後、白衣の人々が来た。
「記憶喪失症専門病院」と書かれた車。
「さあ、行きましょう」
白衣の人が、優しく言った。
「あなたのような方、たくさんいます。一緒に、治療しましょう」
僕は、連れて行かれた。
自分が誰だかわからないまま。
◆◆◆
病院には、同じような患者がたくさんいた。
みんな、記憶を売りすぎた人々。
自分の名前も、家族も、何もかも忘れた人々。
僕も——その一人になった。
記憶屋で、楽しい記憶を買った。
でも——それが本当に自分の記憶なのか、わからない。
他人の記憶なのか、自分の記憶なのか。
もう、区別がつかない。
僕は——誰だったんだろう?




