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でも、夏休みの終わりの日。
「あんた、川の探検は飽きたの」
お姉ちゃんが、ぼくを見下して言ってきた。
「川の探検なんてとっくにやめた」
「魚捕まえるって言ってたのに、すぐ飽きんのね。金魚だって、すぐ死なせるし」
金魚。
ぼくは口を閉ざした。お姉ちゃんはぼくが傷ついたと思ったかもしれない。でもそこで止まるお姉ちゃんじゃない。鼻で笑って言った。
「川、人魚がいたんじゃなかったの」
「そんなのいるわけないじゃないか」
ぼくは、とっさに言っていた。
人魚のことは秘密だ。
秘密だから、人魚は今日もひとりぼっちで、あの池から出られずに、蛙や鳥と遊んでいるんだろうか。誰も話し相手になんてなってくれないのに。
ぼくはお姉ちゃんをほったらかして、家から飛び出した。
もうすぐ日が沈みそうだから、きっと帰ったら真っ暗になってる。怒られるだろうけど、もう夏休みが終わってしまう。行かなきゃ。
学校が始まったらもうあんまり遊びに来られない。それを人魚に教えておかないといけない気がした。
用水路の横を走って、暗くなってきた山の木をかきわけて、ぼくは池のそばに駆け寄った。
人魚の姿が、いつもの池の縁の石のところにあった。もたれかかって、腕をぷらぷらさせている。
急に来なくなって、怒っているかなと思ったけど、人魚は泣きそうな顔で手を振った。ぼくは手を振りかえして、人魚の方へ駆け寄る。
ぼくが池にたどり着く前に、人魚は池から体を伸ばして、土に手をついた。いつも木の陰になる土は湿って、少女の白い手を汚した。
ぬれた髪が水をしたたらせる。細い肩が、背中が池を出た。ぬれて光っている。
「朱!」
ぼくはびっくりして叫ぶ。汗がふきだした。
「何やってるんだよ!」
人魚のそばにたどり着いて、膝をつく。
膝も靴もドロドロになったけど、気にならなかった。人魚は苦しそうに、ぜえぜえと息をしていた。
「あたしも、外に行きたい」
人魚は両肘をついて、這いずるように進む。腕が泥に汚れて、顔にはねる。
「全部外に出たら、脚にならないかな」
そんなこと言うなんて、信じられなかった。
自慢の、きれいな赤い尾びれなのに。それに。
「わかんないけど、たぶん。たぶん」
……ならないと思う。
言えなかった。
人魚はそんなぼくを無視した。赤い尾びれが水の上に顔を出す。人魚はまるで腕の生えた蛇みたいに、土の上を進む。
ぼくは人魚を止めたかったけど、できなかった。
腕を掴んだり、肩を押させえたりなんて、できない。
ぼくが触ったら、やけどする。たまらず叫んだ。
「やめろよ!」
「なんでよ。わたしも、外に行きたいの」
人魚は眉を寄せて、荒い息をして、険しい顔で進んでいた。けど、急に高い声を上げた。もう我慢できなくなったんだろう。
「あつい」
池の外はとても暑い。ぼくが触れなくても、外の空気は熱い。夏の空気は、ぼくにだって暑い。
「水に戻れよ」
ぼくはただただ動揺して言った。
人魚は、水がなくても息はできる。でも、水がなければ生きていけない。
「あつい」
人魚はあえいで、力を無くした。尾びれのひらひらの先を水に残したまま、地面にうずくまった。
もうやけどを心配するのなんて、頭から飛んでしまった。
ぼくは、慌てて人魚を抱え上げた。
人魚の肌は、相変わらずひんやりしている。びっくりするほど細い。白い肌の、ぼくの触ったところが、真っ赤になった。
人魚がやけどしてしまう前に、水に帰してあげないといけない。
「神さま」
ぼくは思わずつぶやいていた。
「山の神さま。朱を人魚にした山の神さま」
助けて。
本当に山の神さまがいるのなら、なんで人魚をほったらかしにして、現れないんだ。
ぼくは人魚の腕を引っ張って、ひきずるようにしながら、池の方へ向かう。
半分人間の人魚の体は重たくて、思うように進まない。ぼくはもがいていた。人魚の肌がみるみる赤くなっていく。
それでも、山の神さまは助けてくれない。
一度助けたものは、もう助けてくれないのかもしれない。
助けてあげたのに、出て行こうとするから、怒っているのかもしれない。――逃げようとしてるから。
「ごめん、ぼくが余計なこと言ったから」
ひとりぼっちだなんて、言ったから。
そのくせ、ぼくは、人魚がひとりぼっちなのを知ってたのに、ほったらかしにした。
「いつもここに遊びに来るから」
池の縁の石に足をかけて、ぼくは人魚を引っ張り上げる。
「嘘つき」
人魚は、涙をこぼした。ひとしずく、透明な水が頬を滑り落ちて、池に落ちた。
ぽちゃん、と音がした。
ふと手が軽くなる。
ぼくが池に放り投げたのは、真っ赤で優雅な尾びれをした人魚の少女じゃなかった。
あの少女みたいに、ひらひらと広がる尾びれを持った、小さな金魚だった。
少し沈んでから、ぽっかりと浮かび上がる。
そのまま水面に横たわって、動かなかった。




