第2幕『切断される支点』
先に動いたのは、ハルトだった。
——いや。
動いた、と分かった時にはもう遅い。
青黒い装甲が夜へ溶けた。
背中の薄いフィンが一瞬だけ光を引き、次の瞬間、ハルトの姿が屋上灯の影から外れる。
速い。
消えたわけじゃない。
アリスは、まだ目では追えている。でも、身体の方が間に合ってない。
あれは……焦る。
「アリス!」
声を出した時には、もう金属音が鳴っていた。
アリスのワイヤーが三本、ほとんど同時に走る。
正面を塞ぐ線。
斜め上へ逃げ道を潰す線。
足元を刈る線。
捕まえるためじゃない。
進ませないための線だ。
けど、ハルトは止まらなかった。
青黒い影が、張られた線と線のわずかな隙間へ滑り込む。
ワイヤーを避けた、というより、最初からそこしか見ていなかったみたいな動きだった。
……飛んでる。
すぐに、そう思った。
ただ跳んでいるだけじゃない。
ハルトは屋上を蹴った勢いを、空中で殺していない。
背中と脚のフィンが薄く開き、身体の角度だけを変える。
落ちる方向を、横へずらす。
地面がない場所で、もう一度進路を変えていた。
「——っ」
アリスが上体を引く。
その首元へ、青黒い刃が薄く入った。
致命傷は避けた。そこは、さすがアリスだ。
さすがだけど……完全には避けきれていない。
アリスの肩の、白い皮膚が弾けるように裂ける。
……血は出ない。
身体が屋上を滑る。ワイヤーは一本、切断されていた。
「損傷軽微。戦闘継続可能」
声は平坦だった。
でも、立ち上がる動作が一拍遅い。
あれは……軽微じゃねぇな。
ハルトはもう次の軌道へ入っていた。
地面にいない。
屋上を足場にしていない。
青黒い装甲が空中で傾き、アリスのワイヤーの外側へ回り込む。
支点のない場所から、支点を持つ相手を削りに来ている。
まずい。
かなり、まずい。
アリスのワイヤーは強い。
壁があり、床があり、引っかける場所がある場合。
そこに線を張って、相手の進路を削る。
動ける場所を減らして、逃げる先を読む。
地形があるなら、めちゃくちゃ強い。
——でも、飛ぶ相手は話が違う。
ハルトは線の上を通らない。
線の外へ逃げる。しかも、速い。
アリスが弱いんじゃない、相性が悪い。
アリスだけじゃ追いきれない。このままだと、落とされる。
俺はセブンを握り直した。
"アリスがハルトを押さえ、ゴードンを俺とエナで崩す"
その形は、もう使えない。
アリスを落とされたら終わる。
ハルトを自由にしたら、後ろまで抜ける。
「エナ!」
「はいっ!」
俺の横で、エナの装甲が低く鳴った。
まだゴードンを見ている。
気持ちは……分かる。
でも、今はそっちじゃない。
「アリスにつけ! 飛ぶやつは相性悪い。フォローに回れ!」
エナの目が、すぐにアリスへ動いた。
迷いは短かった。
「了解ですっ!」
黒い鎧がほどける。
クナイ状の装甲片が空中へ散り、ライムグリーンの線を引いてアリスの周囲へ走った。
ハルトが降ってくる。
アリスの頭上。青黒い刃。
——間に合え。
そこへ、エナの装甲片が割り込んだ。
——ギィンッ!!
火花が夜に散る。
アリスがその下を抜けた。
ワイヤーが張り直される。
エナのクナイが、その死角を埋める。
よし。
これなら、完全には抜かれない。
いや……抜かせるなよ!
ハルトの目が、わずかに細くなった。
「……盾が増えたか」
「おねーちゃんには触らせませんっ!」
エナが叫ぶ。
「訂正します。わたしは、おねーちゃんではありません」
アリスの声が、火花の中でも律儀に返る。
こんな時までそこ直すのかよ。
でも、助かる。
聞きなれた軽口に少し安堵した。
いつものアリスが、まだそこにいる。
俺はそっちへ一歩出かけた。
その瞬間。
隣の屋上が、沈んだ。ゴードンだ。
赤黒い巨体が、こっちへ向けて跳んでくる。
三メートル近い魔装殻が、屋上の縁を踏み砕いた。
胸の奥で炉みたいな光が脈を打つたび、赤黒い装甲が軋む。
その全部が、エナの方を向いていた。
「逃がすかよォ!!」
まずい。
ゴードンにまでエナを追われたら、アリスとエナが二対二で潰される。
ハルトの高速戦に、ゴードンの重装圧まで混ざる。
んなもん、守りきれるわけがねぇ。
「おい、醜男」
俺はセブンを肩へ担いだ。
ゴードンの足が、俺の横を通り過ぎようとしている。
その赤黒い背中に、声を投げた。
ゴードンの動きが止まる。
空気が、ぴしりと鳴った。
ゆっくり、赤黒い巨体がこっちを向く。
「……あ?」
低い声。
怒りが混ざった声。
……釣れた。
俺は笑った。
怖くないわけじゃない。
あの巨体に殴られたら、たぶん身体が終わる。
まともに受けたら、セブンごと持っていかれる。
想像しただけで、手の中が冷える。
でも、ここで引いたらエナが追われる。
だから……笑う。
「女に相手されねーと、尻追いかけるしかできなくて大変だな」
ゴードンの肩装甲が、ぎしりと鳴った。
赤黒い光が濃くなる。
「てめぇ……」
「こいよ」
俺はセブンを構える。
黒い刃を低く、足は逃げられる幅。
背中は絶対に見せない。
逃げ腰じゃない。
避けるための構えだ。
「どうやれば女の子にモテるか、教えてやるぜ?」
ゴードンの顔が、完全に変わった。
さっきまでの下品な笑いじゃない。
エナを見ていた時の汚い欲でもない。
もっと単純なやつ。
潰す。
殺す。
黙らせる。
そういう顔だ。
「……いいぜ」
赤黒い魔装殻の肩が、ぎしりと鳴る。
「その安い挑発、乗ってやるよ」
低い声だ。
よし、完全に釣れた。
「ガキがァァァァァッ!!」
ゴードンが吠えた。
赤黒い魔装殻が、屋上を踏み砕く。
こっちへ来る。
エナへ向いていた欲が、今は俺への怒りに変わっている。
向けられて気持ちいい感情じゃないが、方向が変われば使える。
使うしかない。
「セブン」
《待機中》
「正面からは受けない。逃げながら削るぞ!」
《評価:妥当。敵対対象ゴードン、出力上昇。直撃した場合、身体と共に意識も飛ぶと推測》
「だから、オマエの警告は怖えんだって」
分かってはいるけど、改めて言われると嫌だな、それ。
目の端で、エナとアリスがハルトへ向き直るのが見えた。
アリスのワイヤーが細く張られる。
エナのクナイが、その周囲を守るように展開する。
ハルト対、アリスとエナ。
ゴードン対、俺……とセブン。
形は、作った。
綺麗じゃない。
……というか、かなり無茶だ。
でも、今はこれが一番マシだ。
ゴードンが突っ込んでくる。
赤黒い巨体が、屋上を割りながら迫る。
俺は息を吐いた。
「来いよ、モテない重機」
黒い刃を握る。
セブンが、短く応えた。
《質量制御、待機》
次の瞬間、ゴードンの拳が屋上を砕いた。




