エピローグ
「じゃあわたしはこっちだから」
牛丼屋を後にし、帰りの道すがら、要海が口にした『レコード・アクセス』という言葉の意味の解説を冬姫が受け終わった所で、お互いの帰り道の分岐点に到着したらしかった。
「うん、じゃあね」
どこか名残惜しさを感じながら、冬姫は要海に別れの言葉を投げかける。
「ゆきちゃん、また明日!」
満面の笑顔で手を振る要海。このタイミングを逃したらきっと後がない。そんな衝動に駆られ、冬姫は今日学校にいた時から、頭の中に描いていた行動を実行に移す。
「うん、また明日……なみちゃん」
努めて冷静に、声が震えない様に、しっかりとその言葉を冬姫は口にする。
「ん? 今なんて?」
ここまではっきり言ったのだから、さすがに聞き逃す事はなかった様だ。その事実に安堵すると同時に沸き上がった緊張感と戦いながら、冬姫は説明する。
「あ、あだ名。ボクが冬姫で『ゆきちゃん』なら、要海ちゃんは、『なみちゃん』、かなって……」
要海が親しみを込めるという理由で自分にあだ名をつけてくれたなら、それならこっちからも彼女に対して同じように呼ぶべきだ。冬姫は気恥ずかしさから今の今まで言えなかったが、ようやく声に出すことの成功したのだった。
「うん、いいね! かわいいあだ名でうれしいよ!」
全て言い終わらないうちに、要海は冬姫の手を取り、目を輝かせながら、嬉しそうに声を上げた。
「そ、そう? まんま真似しただけだけど……」
唐突に手を握られ、心臓が急激に運動量を高めるのを感じる冬姫だったが、何とかそれを気取られぬようにと言葉を繋ぐ。
「それに、こういう呼ばれ方は初めてかな。ふふ、これはゆきちゃん専用のあだ名だね」
気を遣っている様子や、嘘が顔に一切滲んでいない事は、さすがの冬姫でもわかる。要海は今この瞬間、自分の付けたあだ名に対して本心から喜んでくれている。その事にまた嬉しさが込み上げてきた。
「ボ、ボクもさ」
だから、そう言わずにいられなかった。
「あだ名で呼んでくれたのって、なみちゃんが初めてなんだ。だから、なみちゃんは……、ボクの初めての人……だよ」
矢継ぎ早に浮かんでくる言葉を大して咀嚼することなく吐き出してしまい、自分でももはや意味が分からなくなっていた。
「よかった」
要海が一言、冬姫に言葉を投げかける。
「学校に入って最初の友達が、ゆきちゃんで本当によかったよ」
それこそ自分のセリフだ。冬姫は胸中で返答する。様々な感情が入り乱れ、今すぐに口を開く事が、出来なかったからだ。
「冬姫さんにしては結構濃密な一日だったわけですね」
時刻はもはや夕刻。夕食の席になり、冬姫は今日一日の出来事を在処に報告する。あの後すぐに冬姫は帰宅したが、家政婦である在処は家事の他にも冬姫の両親から数多くの仕事を任されており、ゆっくり会話ができるタイミングは平日では意外と少ない。
食事の時間は、その数少ない機会というわけだ。
「なるほど、通りで冬姫さん、学校から帰って来てから妙に嬉しそうだったんですね」
「妙って何さ」
「それにしても、いい友達が出来てよかったですよ。わたくしも一安心って所ですね。いや、発破をかけておいてなんですけど、まさか冬姫さんに初日から友達ができるなんて思ってませんでしたからねえ」
「随分な言いようだね、在処さん」
「でも冬姫さん、人と話すのが得意ではないかもしれませんけど、嫌いなわけではないじゃないですか」
「まあね」
「だから、空気が多少読めないくらいの、ぐいぐいくる子となら、相性がいいんじゃないかなっては思っていたんですね」
朝にしたやり取りで本人が口にしていた懸案事項が取り払われたとあって、この家政婦は大いに胸を撫で下ろしているらしく、少し腹立たしくなるレベルのいい笑顔を浮かべながら、魚料理を突き刺したフォークを口に運んでいる。 癪だが、在処のその考えは当たっていたといわざるを得ないだろう。
「別に在処さんがどう思おうと勝手だし」
感情の乱れを誤魔化すように、冬姫もフォークで魚料理を口に運ぶ。在処の料理の腕は確かで、あらゆるジャンルの品を完璧に仕上げてしまう。在処の料理が基準で味覚が形成されたおかげで冬姫は、大抵の料理店では味の点で感動出来なくなってしまっていた。ここまで来ると、突き抜けた奇抜さや、徹底した無難さで勝負をしているジャンクフードやファーストフードの方が、ベクトルの違うメニューとしてずっと楽しめる。彼女の外食趣味の大半はそちら方面に偏っていた。
「近いうちにウチにつれてきてくださいよ。特別におもてなししますよ?」
矢継ぎ早に、要海の趣味や運動神経、料理を振る舞うなら好きな食べ物を知りたいと質問を繰り出してくる在処。しかしながら、そこまで突っ込んだ会話をするに至っていない冬姫にとっては、答えられる質問の方が少なかった。
翌日。昨日と変わらず在処に見送られながら自宅を出て、登校の路に就く冬姫。しかし、昨日の不安や気怠さに支配されていた胸中の様子は正反対で、晴れやかそのものだった。
当然、冬姫自身にその理由はわかっている。学校に行き、教室に入れば、あの笑顔に会えるという『安心』が約束されているからだ。
「あ、ゆきちゃーん」
しかし、突然かけられたその呼び名……、まだ一人にしか呼ばれていない名前を呼ばれて振り返るとそこにいたのは――
「え? な、なみちゃん?」
「おはよー。やっぱりね。ここで待ってれば会えると思ったんだ」
周囲を見回すと、ここは昨日要海と出合い頭にぶつかってしまった場所だった。いつの間にか自分がここまで来ていたのかと思うのと同時に、疑問も沸く。
「でも、どうして?」
冬姫の記憶では、ここで要海と待ち合わせをした記憶はない。それなのに、わざわざここで待っていた理由が解らなかった。
「決まってるじゃん。一緒に学校行くためだよ」
なんでもない事とばかりに、冬姫の質問にほぼノータイムで返答する要海。
「帰るまでが遠足、と同じだよ。登校から下校までが学校。だから、学校でゆきちゃんと一緒ってことは、登下校も一緒って事だよ」
右腕を突き出し、綺麗なサムズアップを向けてくる要海。
「ごめん、ちょっと意味わかんない」
しかし、冬姫の胸中に浮かぶ感想はただ一言、それだけだった。
「もー、ここは乗っかってよー」
切り返しに満足がいかなかったのだろう、不満げに頬を膨らませる要海。怒った顔もかわいいなという呑気な感想を抱く間に、要海は話を次に進める。
「まあいいよ。別に隠す必要もないんだけど、やっぱ正面から言うのは恥ずかしかったのかもしれないね」
そう断ってから改めて冬姫に向き直り、要海が口を開く。
「わたしがゆきちゃんと一緒に登下校したいの。だって、ぜったい楽しいもん」
昨日から何度か見た、満面の笑顔でそう告げる要海。
「なみちゃん……」
要海の言葉に、全身の内側から嬉しさが込み上がって来るのを感じる冬姫。自分はすっかり、目の前にいる少女の笑顔が好きになってしまっているのだと、力強い自信を以って自覚したのだった。
「そういう事で、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、こんなボクでよければ、よろしくお願いします」
互いに頭を下げ、お願いを口にする。女子高生二人が互いにお辞儀をしている様は、傍から見るとどう映るのだろう。冬姫はふとそんな事を考えたが、すぐにどうでもよくなってしまった。変わらず湧き出る温かな感情の方が、何倍も心地よかったのだから仕方ない。
「よし、じゃあ学校生活二日目、はりきっていこーう!」
二人とも姿勢を直した所で、要海は改めてそう宣言する。
「おー!」
恥ずかしさを感じる冬姫だったが、今回は全力で要海に乗っかる形で声を出しながら拳を天に向かって突き上げる。ちょっとした挑戦だったが、上手くいったようだ。そして気分が何故か、より晴れやかになるのだった。
(悪くはない……かな)
挑戦の証である拳伝いに、冬姫は空を見上げる。まるで自分の心を映したのではないかと思ってしまう程、春の空は青かった。