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琥珀色の傘を君に ―復讐の果ての、ありふれた奇跡―  作者: 久遠 睦


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8/15

祝福の嵐、あるいは過去からの残響

1. 純白の迷宮


七月。梅雨明けを告げる強烈な陽光が、都心の街並みを白く焼き尽くしている。 私は今、銀座にあるウェディングドレスのサロンで、鏡の中に映る自分を呆然と眺めていた。


「……どうかしら、麻衣さん。すごく素敵よ」 隣で目を細めているのは、所長の野上さんだ。彼女は今日、私の「親代わり」としてフィッティングに付き添ってくれている。


鏡の中の私は、繊細なレースが施された純白のドレスに身を包んでいた。あの日、雨に濡れて泥を被っていた事務員の面影はどこにもない。一ノ瀬――蓮さんが私に贈ってくれたのは、単なる自由だけでなく、「自分を美しいと信じてもいい」という自信だった。


「ありがとうございます。……なんだか、夢を見ているみたいで」 「夢じゃないわ。あなたが自分の足で歩いて、掴み取った現実よ」 野上さんは優しく私のベールを整えてくれた。


サロンの待合スペースには、蓮さんが座っているはずだ。彼は今日、少しだけ「大事な用事がある」と言って、フィッティングの途中で席を外していた。 私はドレスを脱ぎ、私服に着替えてロビーへ向かった。そこには、数分前までいなかったはずの、見知らぬ男性と深刻な顔で話し込む蓮さんの姿があった。


その男性は、蓮さんより少し若く、いかにも「官僚」といった風情の整った顔立ちをしていた。しかし、その瞳には焦燥と、隠しきれない恐怖の色が混じっている。


「……わかった。これ以上はここで話すべきじゃない。坂田、後で連絡する」 蓮さんの声は、私がここ数ヶ月聞いたことのないような、低く鋭い「検事」時代の響きを取り戻していた。


「……蓮さん?」 私が声をかけると、二人は弾かれたようにこちらを見た。 「ああ、麻衣。終わりましたか」 蓮さんは瞬時にいつもの穏やかな表情に戻ったが、その瞳の奥にある動揺を、私は見逃さなかった。


「こちら、元同僚の坂田君だ。……坂田、私の婚約者の佐藤麻衣さんだ」 「……お初にお目にかかります。坂田です」 坂田と呼ばれた男性は、私に深く一礼した。その仕草には敬意よりも、「この女性が一ノ瀬さんの急所なのか」と推し量るような、不穏な観察眼が含まれているように感じられた。


坂田さんが足早に去った後、蓮さんは私の肩を抱き寄せた。 「……すみません、麻衣。せっかくのドレス選びだったのに」 「いいんです。……でも、何かあったんですよね? 坂田さん、すごく怯えているように見えました」


蓮さんはしばらく沈黙した後、銀座の喧騒を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。 「……死んだはずの怪物が、息を吹き返そうとしているのかもしれません」


2. 検察の幽霊


その夜、洋館の書斎で、蓮さんは重い口を開いた。 「十年前、私からすべてを奪った男のことを話しましたね」 「はい……一ノ瀬さんを陥れ、婚約者の方を死に追いやった……」


魚住うおずみ景一。当時の法務省重鎮で、今は引退して『政界のフィクサー』と呼ばれている男です。坂田からの報告によると、その魚住が、ある巨大なプロジェクトの利権を握り、再び表舞台に戻ろうとしている。そして……」 蓮さんは、一枚の写真を机に置いた。 それは、ある高級料亭から出てくる魚住の姿と、その隣で慇懃に頭を下げる男の姿だった。


「……あ」 私は思わず声を上げた。 魚住の隣にいたのは、かつて私の会社で部長を務め、不祥事で逮捕されたはずの、あの男だった。


「部長……どうして? 彼は拘置所にいるはずじゃ……」 「保釈されたんですよ。病気療養という名目でね。魚住が裏で手を回したんでしょう。部長は、九条が行っていた不正経理の『さらに深い闇』を知っていた。魚住にとって、彼は利用価値のある駒なんです」


全身に鳥肌が立った。 終わったはずの復讐。絶たれたはずの因縁。 それが、もっと巨大で邪悪なネットワークの一部として、再び私たちの足元を侵食し始めている。


「魚住は、私が生きていることを知っている。そして、私があなたの名誉を回復させ、九条を破滅させたことも。……彼にとって私は、自分の足跡を消すために掃除しなければならない『過去の遺物』なんです」


蓮さんは、私の手を握った。その手は驚くほど冷たかった。 「麻衣。……この戦いに、あなたを巻き込みたくない。私は、あなたと普通の幸せを歩むと決めた。だから……」


「……だから、私を置いてどこかへ行くつもりですか?」 私は、彼の言葉を遮った。 かつての私なら、彼の言葉に従って、守られるだけの場所で震えていただころう。 けれど、今の私は違う。


「蓮さん。私は、あなたの『傘』になりたいと言いました。雨が降るなら、二人で濡れればいい。……あなたが怪物と戦うなら、私はあなたの側で、あなたが人間であることを思い出させる灯火になります」


蓮さんは、痛みに耐えるような表情で私を見つめた。 「……麻衣。君は、自分が何を言っているのかわかっていますか。相手は九条のような小物ではない。国家を動かすような力を持った男なんだ」


「わかっています。でも、私を一人にする方が、私にとってはもっと残酷なことです。……蓮さん、私を信じて。私はもう、あの頃の弱い私じゃない」


蓮さんは、ゆっくりと私を抱きしめた。 その腕の強さが、彼の決意と、私への深い信頼を物語っていた。


3. 不穏な祝福


結婚式の準備は、厳重な警戒の中で進められた。 野上さんの事務所にも、蓮さんの手配した警備スタッフが配置され、私の日常は再び「非日常」へと変容していった。


そんなある日、事務所に一通の「祝電」が届いた。 差出人は、匿名。 中を開けると、そこには一枚の古い写真が同封されていた。


それは、蓮さんと、亡くなった彼の婚約者が、若かりし頃に笑い合っている写真だった。 そしてその裏には、血のような赤いインクで、ただ一言、こう書かれていた。


『死者は、裏切りを許さない』


「……っ」 指先が震え、写真が床に落ちた。 これは祝福ではない。呪いだ。 過去の悲劇を引き合いに出し、蓮さんの精神を揺さぶろうとする、魚住からの露骨な挑発。


「麻衣さん、どうしたの?」 駆け寄ってきた野上さんに、私は必死で笑顔を作った。 「……いえ、何でもありません。ただ、少し眩暈がしただけで」


私はその写真をバッグの奥深くに隠した。蓮さんには、これを見せてはいけない。 彼は今、坂田さんと協力して魚住の不正を暴くための、最後の証拠集めに奔走している。その手を、止めるわけにはいかない。


けれど、私の心には、拭い去れない不安が澱のように溜まっていく。 魚住という男は、人間の「良心」や「愛」を、最大の弱点として利用する。 蓮さんが私を愛すれば愛するほど、私は彼を破滅させるための「絶好のターゲット」になってしまう。


その夜、私は病院の高木さんの墓前にいた。 「……高木さん。力を貸してください。私は、彼を守りたいんです」


墓石をなでる風は、何も答えてくれない。 けれど、高木さんが遺したあの言葉が、頭の中に響いた。 『復讐とはな、麻衣さん。相手を倒すことではない。相手の存在を、自分の人生から無意味なものに昇華させることだ』


(そうだ……倒そうとするから、相手の土俵に乗ってしまうんだ)


私は、バッグの中の呪いの写真を見つめた。 魚住は、蓮さんに「過去の罪悪感」を思い出させ、彼を再び「復讐の怪物」に戻そうとしている。 ならば、私がすべきことは一つ。 蓮さんを、どこまでも「光」の中に繋ぎ止めることだ。


4. 決戦のカウントダウン


一週間後。坂田さんから、決定的な情報がもたらされた。 魚住が主導する巨大プロジェクトの裏金が、ある海外口座を経由して、逮捕された部長の親族名義の口座に流れ込んでいる。その送金指示書の原本が、ある場所に隠されているという。


「……場所は、魚住の別荘。明日、そこで大規模な政財界の会合が開かれます。警備は厳重ですが、坂田が内部に潜入する手はずを整えてくれた」 蓮さんは、戦闘服のような黒いスーツに身を包んでいた。 「私も行きます」 「麻衣、それだけは……!」 「いいえ、蓮さん。魚住は、あなたが一人で来ることを予想しています。そして、私がどこかで怯えていることを。……逆を突くんです」


私は、一ノ瀬の目を見つめた。 「私は、野上さんの事務所のスタッフとして、会合のケータリングの手伝いとして潜入します。野上さんも協力してくれると言っています。……女性のスタッフなら、警備の目も緩む」


蓮さんは反対したが、最後には私の決意に折れた。 「……わかりました。ただし、絶対に私の側を離れない。何があってもだ」


翌日。私たちは、軽井沢の山奥にある魚住の豪邸へと向かった。 そこは、権力という名の欲望が渦巻く、魔窟のような場所だった。


私はエプロンをつけ、ワゴンを押しながら、豪華な広間を移動した。 周囲には、テレビで見かけるような大物政治家や実業家たちが、グラスを片手に密談を交わしている。その中心に、あの男がいた。


魚住景一。 七十を過ぎているはずだが、その眼光は衰えるどころか、他人を屈服させることに悦びを感じる捕食者のような輝きを放っている。


「……おや、見かけない顔だね」 魚住が、私の前で足を止めた。 心臓が口から飛び出しそうになるのを、私は必死に抑えた。 「……失礼いたしました。本日、お手伝いに参りました」


魚住は私の顔をじっと覗き込み、ニヤリと笑った。 「……一ノ瀬の選んだ女か。案外、普通だね。……だが、その『普通』が、あいつをどう狂わせるのか。見ものだよ」


魚住は私の耳元で囁くと、悠然と去っていった。 (気づかれている……!) けれど、私は逃げなかった。 私の視線の先には、壁際で警備スタッフに扮した蓮さんが、鋭い視線をこちらに送っていた。


5. 真実の弾丸


深夜。会合が終わり、静まり返った邸内。 私たちは、坂田さんから聞いた隠し金庫のある書斎へと忍び込んだ。


蓮さんの手際は、鮮やかだった。 数分も経たないうちに、金庫のロックが解除され、中から大量の書類が姿を現した。 「……あった。これだ。部長への送金指示書……そして、十年前の事件で私が捏造された証拠を、彼が隠蔽したという記録も」


蓮さんの手が、微かに震えていた。 十年の歳月。失われた名誉。奪われた恋人の命。 そのすべての答えが、今、彼の手の中にあった。


「……そこまでだよ、一ノ瀬君」


背後で、冷ややかな声がした。 振り返ると、入り口に魚住と、数人の武装した警備員が立っていた。 さらに、その影から現れたのは、憎しみに満ちた顔をした、あの部長だった。


「お前ら……! よくも私の人生をめちゃくちゃにしてくれたな!」 部長は銃を構えていた。その手は震えているが、殺意は本物だった。


「魚住さん、こいつらをここで始末してください! そうすれば、私の不祥事もすべて闇に葬れる!」 部長が叫ぶ。魚住は退屈そうにそれを見ていた。 「……一ノ瀬。君はやはり、正義という幻想を捨てられない。……その女と一緒に、ここで消えてもらうよ。十年前の続きを始めようじゃないか」


魚住が合図を送ろうとした、その時。


「……それは、できないわ」 私は、バッグの中から一台のタブレットを取り出した。 「魚住さん。あなたが今、ここで何を話し、何をしようとしているか。……すべて、リアルタイムでインターネットを通じてライブ配信されています。視聴者は、すでに十万人を超えていますよ」


「何……!?」 魚住の顔が、初めて驚愕に染まった。 「坂田さんが、邸内のWi-Fiをジャックしてくれました。……そして、このタブレットのカメラは、あなたの顔をしっかりと捉えています。……今の言葉、全国の人が聞いていましたよ」


「貴様……っ!」 警備員が私に飛びかかろうとしたが、蓮さんが一瞬でそれを制圧した。


「……魚住。時代は変わったんだ」 蓮さんは、冷静に言い放った。 「あなたがどんなに権力を持っていても、個人の発信する『真実』を止めることはできない。……十年前のような隠蔽は、もう通用しない」


部長は逆上し、銃の引き金に指をかけた。 「……死ね! 二人とも死ね!」


「やめて!」 私が叫んだ瞬間、背後の窓ガラスが砕け散った。 突入してきたのは、坂田さんが事前に手配していた、警察の特別捜査班だった。


「全員動くな! 銃を捨てろ!」


部長は力なく銃を落とし、崩れ落ちた。 魚住は、なおも不敵な笑みを浮かべていたが、蓮さんの手に握られた証拠書類を見て、ようやく自分の敗北を悟ったようだった。


「……一ノ瀬。……面白い女を選んだな」


魚住はそう言い残すと、誇り高い王のような足取りで、警察官に連行されていった。


6. 夜明けの誓い


嵐は去った。 夜明けの光が、軽井沢の森を静かに照らし始めている。


邸の外に出ると、坂田さんが私たちを待っていた。 「……一ノ瀬さん。ありがとうございました。これで、ようやく先輩の無念も晴れます」 坂田さんの目には、涙が溜まっていた。


「……坂田、君のおかげだ。……ありがとう」 蓮さんは、かつての後輩の肩を強く叩いた。


私たちは、車に乗って帰路についた。 窓の外を流れる景色を見ながら、私は蓮さんの肩に頭を預けた。


「……蓮さん。今度こそ、本当に終わりましたね」 「ええ。……麻衣、あなたがいなかったら、私は今頃、魚住と一緒に闇の中に落ちていたかもしれない」


蓮さんは、私の額に優しくキスをした。 「……あなたは、私の最高のパートナーです。……愛しています、麻衣」


「私も……愛しています、蓮さん」


数日後。 都内の小さな教会で、私たちは結婚式を挙げた。 参列者は、野上さん、坂田さん、そして病院のスタッフたち数人だけ。


祭壇の前で誓いの言葉を交わした時、私の心には、何の迷いもなかった。 私たちは、お互いの弱さを知り、汚れを知り、それでも共に歩むことを選んだ。


教会の外に出ると、抜けるような青空の下、白い鳩が舞い上がった。 それは、かつての悲しみを乗り越え、新しい未来へと羽ばたく、私たちの魂のようだった。


「……行きましょう、麻衣。私たちの、本当の人生へ」


「はい。……蓮さん」


繋いだ手の温もりが、これからの人生に待ち受けるどんな困難も、二人なら乗り越えていけるという確信を与えてくれた。


雨は上がり、空には大きな虹が架かっていた。 それは、私たちが掴み取った、琥珀色の未来への架け橋だった。


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