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琥珀色の傘を君に ―復讐の果ての、ありふれた奇跡―  作者: 久遠 睦


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7/15

静かなる影、あるいは執着の残光

1. 蜜月の隙間


六月の雨は、かつての私にとって絶望の象徴だった。 アスファルトを叩く音、肌にまとわりつく湿気、視界を遮る灰色のカーテン。けれど、今の私にとっての雨は、部屋の中に満ちるコーヒーの香りをより深く、愛おしく感じさせるためのスパイスに過ぎない。


「……また、難しい顔をしていますね」 キッチンから戻ってきた一ノ瀬が、私の隣に座り、温かいカップを差し出した。 「あ、ごめんなさい。つい、窓の外を見ていたら昔のことを思い出してしまって」 「今のあなたは、もう雨に濡れるだけの小鳥ではありません。……私が、そうはさせない」


一ノ瀬の手が、私の指先にそっと重なる。その指は以前よりもずっと体温が高く、私を安心させる魔法を持っている。旅から戻った後の一ノ瀬は、時折、遠い目をして過去を慈しむような表情を見せるようになった。それは、彼が「怪物」としての仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として、そして私の恋人として生きる覚悟を決めた証だった。


「野上さんのところのプロジェクト、一段落したのでしょう? 明日は久しぶりに、少し遠出でもしましょうか」 「いいんですか? 一ノ瀬さんも、お仕事が溜まっているんじゃ……」 一ノ瀬は、かつての伝手を活かして、今は企業のコンプライアンスに関わる特殊なコンサルタントとして活動し始めている。表舞台には出ないが、その鋭い分析力と実行力は、一部の経営者たちの間で密かに頼りにされていた。


「私の仕事は、あなたが笑顔でいてくれることで完成するんです。……明日は晴れるそうですよ」


そう言って微笑む彼の横顔を見ながら、私は心から幸福を感じていた。 けれど、幸福が深まれば深まるほど、その影もまた、色濃く、長く伸びていくことに、私はまだ気づいていなかった。


2. 忍び寄る不協和音


異変は、小さな、取るに足らないことから始まった。


野上デザイン事務所での仕事帰り、ふと誰かの視線を感じることが増えた。振り返ってもそこには、家路を急ぐ通勤客の群れや、雨宿りをする人々の姿があるだけ。気のせいだ、自意識過剰だと自分に言い聞かせ、私は足を早める。


数日後、事務所の郵便受けに、宛名のない一通の封筒が届いた。 野上さんが不審そうにそれを私に渡す。 「麻衣さん、これ。切手も貼ってないし、手渡しで入れられたみたいだけど」


中には、何も書かれていない一枚の紙が入っていた。 いや、よく見ると、紙の隅に小さな、本当に小さな「×」印が刻まれていた。 かつての私なら、単なる悪戯だと捨てていただろう。けれど、一ノ瀬と共に「悪意」の深淵を見てきた私の直感は、それが明確な「宣戦布告」であることを告げていた。


さらに、私のスマートフォンの非通知設定をすり抜けるようにして、短いボイスメッセージが届き始めた。 再生すると、そこには何も録音されていない。ただ、微かな、けれど規則正しい「呼吸音」だけが、十秒間ほど続いた後、プツリと切れる。


「……一ノ瀬さん、相談があるんです」 その夜、私は洋館の書斎で、預かっていた封筒とスマートフォンの履歴を見せた。 一ノ瀬の表情が、一瞬で鋭利な刃物のような、かつての冷徹さを取り戻す。


「……九条ですね」 「えっ、でも、彼は消息不明で、多額の借金もあって……」 「追い詰められた鼠ほど、最後に何をするかわかりません。……彼は、自分を破滅させたのが私だと気づいたのでしょう。そして、その私にとっての『急所』が、あなたであることを」


一ノ瀬は、私の肩を強く抱き寄せた。 「麻衣さん、明日から一歩も一人で出歩かないでください。野上さんの事務所へも、私が送り迎えをします。……私の甘さが、あなたを危険に晒してしまった」


「一ノ瀬さんのせいじゃありません。……でも、九条さんは何を狙っているんでしょう。今更私を攻撃したところで、彼にメリットなんてないはずなのに」 「復讐を望む人間に、メリットなど関係ありません。彼が求めているのは、ただ一つ。自分と同じ地獄に、相手を引き摺り込むことだ」


一ノ瀬の瞳に宿った静かな怒りが、私にも伝わってきた。 私は怖かった。けれど、同時に、あの日とは違う勇気が湧いてくるのを感じていた。 今の私には、守るべき愛があり、共に戦ってくれるパートナーがいる。


「……逃げるのは、もうやめましょう。彼が来るなら、今度は私が、彼に最後の一撃を与えます」


私の言葉に、一ノ瀬は驚いたように目を見開いた。そして、愛おしそうに私の髪を撫でた。 「……強くなりましたね、麻衣さん。……わかりました。あなたの強さを、信じましょう」


3. 堕ちた偶像の咆哮


その機会は、三日後の雨の夜に訪れた。


一ノ瀬が急な依頼で数時間だけ席を外した、その僅かな隙。 私は、野上さんの事務所で一人、残務整理をしていた。一ノ瀬は「すぐに戻る、戸締まりを厳重に」と言い残していったが、私の中には、自分自身でこの因縁に決着をつけたいという、無意識の願いがあったのかもしれない。


ガチャリ、と一階のドアが開く音がした。 野上さんはもう帰宅している。警備会社に通報しようと受話器を取った瞬間、そのコードが鋭い刃物で切断された。


「……佐藤、麻衣」


背後から聞こえてきたのは、かつてのあの「完璧な上司」の面影など微塵もない、ひどく掠れた、呪詛のような声だった。


振り返ると、そこに立っていたのは、泥にまみれた亡霊のような男だった。 高級だったスーツはボロボロに破れ、不潔な髭が伸び、頬は病的にこけている。何より、その瞳には理性の光が一切なく、ただ真っ赤な憎悪だけが渦巻いていた。


「……九条、さん」 「……お前の、お前のせいだ! お前があの男を連れてきて、私を、私のすべてを奪ったんだ!」 九条は、震える手に握ったカッターナイフを私に突きつけた。 「私は完璧だった! 家庭も、仕事も、名誉も! それをお前のようなつまらない女が……っ!」


「完璧だったのは、あなたの作った嘘の仮面だけです」 私は、震える足を必死に抑え、彼を真っ直ぐに見据えた。 「あなたは、自分の不倫を隠すために、真面目に働いていた部下を身代わりにした。美智子さんを裏切り、莉奈さんを道具のように使い捨てた。……その結果が、今のあなたなんです」


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」 九条が叫び、私に襲いかかろうとした。 私はデスクの上の重いカタログを彼に向けて投げつけ、必死に距離を取った。 「あなたは、一度だって自分以外の誰かを愛したことがあったんですか? 誰かを守ろうと思ったことがあったんですか?」


「愛だと? 守るだと? 笑わせるな! 誰もが自分を守るために必死なんだよ! お前だって、あの男に媚びを売って、今度は贅沢な暮らしをしてるんだろう!?」


九条の言葉に、私は深い悲しみを感じた。 この男は、地獄の底に落ちてもなお、何一つ気づいていない。人間として最も大切な「絆」の温かさを、知ろうともしていない。


その時、事務所のドアが勢いよく開いた。 「……そこまでだ、九条」


一ノ瀬だった。 彼は激しい雨に濡れながら、冷徹な瞳で九条を見据えていた。 その手には、九条が以前働いていた際に横領していた、さらなる未発表の不正証拠のファイルが握られていた。


「……一ノ瀬! 来たな、死神!」 九条が狂ったように一ノ瀬に向かっていく。 けれど、一ノ瀬は避けることもせず、九条の腕を瞬時に捕らえ、床に組み伏せた。 カッターナイフが虚しく床を滑り、カランと音を立てる。


「……あなたの復讐は、ここで終わりです」 一ノ瀬は、九条の耳元で静かに囁いた。 「あなたが狙った女性は、あなたが思うほど弱くない。……そして私は、彼女を傷つける者を、二度と許さない」


九条は、床に顔を押し付けられながら、子供のように泣き叫んだ。 それは、すべてを失った男の、無様な断末魔だった。


4. 決別と再生の誓い

九条は、駆けつけた警察官によって連行されていった。 今度は余罪も重なり、執行猶予のつかない実刑になるだろう。彼が再びシャバの土を踏むのは、何年も先の、すべてが変わってしまった世界になるはずだ。


静まり返った事務所で、私は一ノ瀬に抱きしめられていた。 「……怖かったでしょう。ごめんなさい、遅くなって」 「いいえ。……私、言いたいことを言えました。彼に、本当のことを」


私は一ノ瀬の胸に顔を埋め、深いため息をついた。 九条という「過去の亡霊」と対峙したことで、私の中の最後の迷いが、雨に流されていくのを感じていた。


「一ノ瀬さん。……私、もう一度だけ、莉奈さんに会いに行ってもいいですか?」 「……彼女に? どうしてです」 「彼女もまた、九条という男に人生を歪められた一人です。……あの日、彼女にお金を渡した時、彼女は泣いていました。……彼女がもし、本当にやり直したいと思っているなら、私はそれを応援したい。それが、私の選ぶ『正義』なんです」


一ノ瀬は、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。 「……あなたは、本当に強い。……わかりました。私が同行します」


数日後。 私たちは、郊外の小さな更生支援施設で働く莉奈を訪ねた。 彼女は、以前のような派手なメイクを落とし、地味な作業服に身を包んで、黙々と庭の手入れをしていた。


「……佐藤、さん」 莉奈が私に気づき、動きを止めた。 「……九条さんが、逮捕されたわ」 「……ええ。ニュースで見ました」 莉奈は、少しだけ寂しそうな、けれど晴れやかな顔で言った。 「……私、あの時もらったお金、一円も使ってないんです。……なんだか、使うのが怖くて。……でも、これからは、自分の力で稼いだお金で、ちゃんと生きていこうと思います」


莉奈の瞳には、かつての浅はかな虚栄心ではなく、地に足をつけた人間の、静かな覚悟が宿っていた。 「……頑張ってね、莉奈さん。……あなたなら、きっと大丈夫」


「……ありがとう、佐藤さん。……本当に、ごめんなさいでした」


莉奈は、深く、長く、私に頭を下げた。 その姿を見て、私はようやく、自分を傷つけたすべての人々を、本当の意味で許せたような気がした。


許すことは、忘れることではない。 相手を、自分の人生の主役から降ろし、ただの「通りすがりの人」に変えること。 そして、自分自身の人生のハンドルを、再び自分の手に取り戻すことだ。


5. 永遠へのプロローグ


帰り道、私たちは海沿いの公園を歩いていた。 梅雨の合間の、奇跡のような夕焼けが、空をオレンジ色に染め上げている。


「……終わりましたね、すべて」 私が呟くと、一ノ瀬が足を止め、私の正面に立った。 「いいえ。……これから始まるんです。麻衣さん」


一ノ瀬は、ポケットから小さな、けれど眩い光を放つリングを取り出した。 「……かつての私は、愛する人を守れなかった。けれど、今の私は、あなたと共に歩み、あなたと共に老いていきたい。……佐藤麻衣さん。私と結婚してください」


押し寄せる波の音、オレンジ色の光。 視界が涙で滲んでいく。 あの日、公園のベンチで差し出された「黒い傘」は、今、私たちの未来を祝福する「光の輪」に変わった。


「……はい。喜んで。……私を、あなたの隣に居させてください」


一ノ瀬が、私の指にリングを通す。 その冷たい金属の感触が、私たちの新しい契約……「幸せになる」という、この上なく尊い契約の重みを教えてくれた。


私たちは、長く、深い口づけを交わした。 もう、雨を恐れる必要はない。 どんな嵐が来ても、二人で一本の傘を差し、時には雨に打たれることさえ楽しみながら、私たちは歩いていける。


「……一ノ瀬さん。明日は、高木さんに報告に行かなきゃ」 「そうですね。きっと、あの方なら『遅すぎる』と笑うでしょうが」


二人の笑い声が、初夏の風に乗って、夕焼けの空へと溶けていく。 地獄を歩き、泥沼を這い、ようやく辿り着いた、この光溢れる場所。 そこには、かつての私には想像もできなかった、豊かで、優しくて、凛とした未来が広がっていた。


「……大好きです、麻衣」 「……私も。愛しています、蓮さん」


繋いだ手の温もりを確かめながら、私たちは明日へと向かって、力強く歩き出した。 復讐の物語は幕を閉じ、ここからは、二人で綴る、終わりのない愛の物語が始まっていく。


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