6話 東屋浩次
早朝に散歩してしまったのがどうやら良くなかったらしい。
陽の光を浴びてセロトニンが活性化した僕はどうやら、二度寝ができない程度に覚醒してしまったようだった。散歩を終えて、ひとしきり大の字になって眠ろうと試みるが全く意識に揺らぎはない。
観念した僕はグリーンの登山ウェアを羽織ることにした。散歩というよりも、人が起床していないこの時間帯なら気兼ねなく別荘村の散策ができると思ったのである。
床に幾何学的に並べた持ち物から、ボイスレコーダーとペン型のボイスレコーダーを手に取る。登山ウェアに縫い付けられたファスナーを開けて、生地の裏側に指を入れ込む。新しく縫い付けられた筒状の隠しポケットがそこにあるのだ。サイズを確認しつつ、二種のボイスレコーダーを嵌め込む。既製品にはない簡易的なポケットだが、僕の普段着には似たような隠しポケットが他にもある。
胸の膨らみを意識させないジャケットにボイスレコーダーを忍ばせてターゲットと会話するのは常套手段になっていた。あからさまにカメラを持ち歩いたり、ボイスレコーダーを置いて取材をすれば警戒心を呼び起こされてしまうのではないか。そう思ってから始めたことだ。
無論、今井さんと会ってから今に至るまでの会話も全て録音済みである。
外に出た僕はひとまず、周辺の施設を探してみることにした。電気、水道、ガスは一通り揃っている。ならば、どこかに発電所や浄水場があるはずだ。
別荘村は3壇構成であり、概ね等間隔に配置されたコテージが5軒ずつ並んでいる。等間隔と云っても互いの家の騒音が全く耳に入らない程度には遠く、10メートルほどの間隔はあった。管理者を自称する宝田真里のコテージのみが一段目にして、やや離れた位置取りで湖畔沿いに建っており、見上げると村全体が見えるようになっている。
故にぐるっと一周回ろうというのは中々骨の折れる行程だった。ハイキングに比べればなんてことはないが、散歩にしては歯応えがありすぎる。
僕が灯りの点いている家を見かけたのは階段を昇って、3壇目に足をかけようとした瞬間だった。見下ろす形でなければ気付けない角度で二階の窓がうっすらと光っていたのだ。その場でなんとなく立ち尽くしていると、一階の灯りがついた。どうやら家主は起床していて、移動しているらしい。
あそこに住んでいるのは何者だろう、と当初の目的を忘れて気付けばドアの前まで足を運んでいた。
扉にはお決まりの彫像があった。
深海魚のように張り出した異形の頭部。宝田さん曰くソロモンオウムと呼ばれる品種。
記憶が確かならば、ここの家主の名前は確か……。
「どうも、こんにちは」
「お……おはようございます。東屋浩次さん」
ドアノブが開いた瞬間、息を呑んだ。
「逆に見られとるとは思わんかったんか。不審者くん」
「いやあ、すみません。灯りがついていたもので」
眉をひそめて不快な表情を隠しもしない東屋さんだったが、ドアを閉めようとした瞬間、何かを思いついたように僕を見た。
「丁度煮詰まってたとこでな。熱気冷ましに付き合ってくれんか」
そういって僕を部屋に招くと、リビングの隅の黒いワインセラーからボトルを一つ渡してきた。
小さなグラスを2つ置いて顎をしゃくってくる。訳も分からず立ち尽くしていたが、注げと云われていることに気付くと僕は黙ってコルクを開けて使用人よろしくグラスに注ぎ始めた。
気の動転が収まってきたので、相手に注目してみる。男を端的に表すならカリフォルニア州シリコンバレーにでも住んでいそうな新人類的青年だろうか。生真面目な白いタートルネックに柔らかいグレーのスウェットズボンを履いたいかにも部屋着の細面高身長の男だった。眼鏡をかけているせいか、フランクな口調に反して威圧感のある容貌をしていた。
酒で出来上がっているように見えるが顔が赤くないので、殊更怖い。
「それにしても、もう日暮れか……仕事をしていると一日はあっという間やな」
「あの……それ朝日ですよ」
「なんだとお……そうだったのか。訳の分からん時間に寝たからボケとるな」
東屋は笑って一気にワインを飲み干すと、今度は自分でボトルを取って注ぐ。僕は既に気分が悪くなっていた。いや、酩酊していたのかもしれない。東屋の体臭か部屋にこびりついた匂いかは定かではないが酒の匂いが酷かった。それも、ありとあらゆる酒が調合されたような臭気で吐瀉物にも似た香りを放っていたのだ。顔を渋らせないように我慢するので精一杯だった。
「失礼ですが、東屋浩次さんですよね?有名な建築デザイナーの」
「おお、よう知っとるやん」
「ニュースで話題になっていましたからね……いや、失礼」
「ええでぇ別に。クライアントの要望通りに俺は作っただけやからな。分かっとるやつは分かっとる。だから仕事まだ貰っとるわけでな」
「今朝もずっと?」
「おお、そうや。ここはええでぇ……多少肌寒いのに目を瞑れば作業にはうってつけの土地や。浴びるほど酒飲んでも文句言われんしなぁ」
上機嫌に笑うと、今度は冷蔵庫から生ビールを取り出して剛毅に飲み始めた。
僕はつられてワインに口をつけないことにした。この男のペースに合わせていたら気を失う。
思わぬ僥倖に恵まれたが、何を切り出したものか、気難しい人間には見えないが素面と酔っ払った状態の差は考慮に入れなければならないだろう。
「君もここに引っ越しか?」
「いえ……ちょっとしたその……探検といいますか」
「ほおお。ミステリー好きか、君」
「まぁそんなもんです。ほら、色々都市伝説あるでしょう?別荘村って」
「あるなぁ……どこどこの富豪が住んでたとか、殺人鬼が住んでたとか……」
「も、もちろん都市伝説だと思ってますよ。本当にちょっとした好奇心で」
「ほんまに物好きやな。ここ歩きで結構かかるやろ?」
僕は事のあらましを東屋さんに軽く説明した。道の駅で随分迷走したこと、今井さんについ一昨日拾われたこと。歩き過ぎて階段を降りても昇っても膝が筋肉痛で痛むことをだ。
「僕も来た頃はしんどかったなぁ……今井ちゃんには感謝しとるわ」
「今井さんがいつも食料を運んできてくれるんですよね?」
「食料というか、なんもかもやな。僕はいつも酒頼んどるけど。あと、納品物やな」
東屋はひらひらを紙を扇ぐようなジェスチャーをしてビール缶を飲み干した。
ようやく打ち切りかと思いきや、今度はウォッカとライムジュースを机に置いて、キッチンの棚からシェイカーを手にとって上機嫌に笑っている。
「今井さんは仕事の納品もやってるんですか」
「そやで。ここ、電波通じんから下界まで行ってデータ送ってもらわんとあかんでな」
僕は猫背になりながら何度も頷いて東屋さんの話を聞いた。
時折視線が僕の手元に移るので、慌ててグラスを呷りながら、
「それにしても酒にお強いんですね。まるで水みたいに飲んで」
「別にブルジュワ気取っとるわけやないで。仕事に詰まったときはこうせんと頭がリセットできないんや」
「え、酔ってるようには見えないですが……」
「めちゃくちゃ酔っとるて。僕上手く眠れないんや。だからこうして酒で脳みそ溶かして寝起きスッキリの状態にするんや」
カラカラと氷をグラスに当てて笑うと、また一息にグラスを飲み干す。
「そういやさっきの話な。都市伝説がどうこういう」
「ええ」
グラスを揺らす手を止めると、覗き込むように眼鏡の奥の眼光が光る。
「実は現在進行形の都市伝説もあるで?めっちゃドマイナーというか俺の中だけやけどな」
東屋は立ち上がって窓のカーテンを開けた。青褪めていた景色は煌々と山吹色を帯びて、太陽の光に晒されていた。彼は眼下のコテージを振り払うように手を上げると、
「ここ15軒あるやろ。ちょっと前まで部屋が埋まってたの知ってるか?」
「……え?5人だけじゃないんですか」
「違う。15人ピッタリ。みんな住んでたんや」
僕は息を呑んだ。
怯える僕の一挙手一投足が面白いのか、東屋はけらけらと喉を鳴らして笑う。
「行方不明者がいるということですか?」
「いんや。死んどる。ガッツリ死体見たで。みんな後頭部をボカッとやられとってなぁ……多分それが死因やと思うわ。でも俺らは何故か見逃されてまだ生きとる。な?都市伝説やろ」
そう云って、口端を吊り上げて彼は満足そうに笑った。