その木の向こう
ここは、主吉田松陰が遺した松下村塾の庭。
カンナは高く括った金の髪をなびかせ、桂の鋭い視線を浴びながら真剣を構える。
「まいったな。君の目はそんなに強かったか。 なるほど、おなごだとは気づかれないわけだ。」
桂は一度刀を揺らしたが、余裕のある笑みを浮かべる。
「この目は父さん似。そんな父さんも父さん似。そういう家系なの。」
土方家は。
「ふーん、おなごの向かない家だな。もうちと柔らかい方が好みだ。」
「あたしも、男はもうちと背の高い方が好みだね。」
カンナはしてやったりという顔で、一歩踏み出す。
刀がぶつかり合い高い音が鳴ると、どこからともなく塾生たちが集まり、二人の視線からつま先の動きまでを食い入るように見つめる。 カンナはその視線に自分が昂るのを感じた。
蘇ったのは玄瑞との打ち合い。修羅場をくぐり抜けてきた男の剣の重みと鋭さが心を刺激する。
桂の剣は今までの誰の剣よりも重かった。刀が死者の念を吸っているのだ。斬った者だけでなく、仲間の無念も。
これまで旅を共にしてきて、桂についてカンナは分かったことがある。
桂は事を成す時を待ち、その時のために敵に背を向けることもいとわない生き方をしてきた。そうして捨てたくないものまでを捨ててきた桂がこれまで潰れずにいられるのは、仲間や斬った者の死に際の目が桂を生に辛うじて留めているからだ。
カンナは圧倒された。 死者はこれほどまでに桂を強くする。そして死者が桂に自分の思いを託すのは、桂にはそれほどの賢さと強さ、そして大器があるからなのだ。
カンナはいとも簡単に刀を捨てた。 虎徹が地に伏した。
「やーめた。」
「は...?」
「やめたって言ったの。お茶飲みたくなっちゃった。」
カンナは刀を拾って鞘に納めた。 塾生たちや桂も口が半分あいている。それもそうだ。
彼らには、桂とカンナの腕は互角で、実に熱い闘いであったのだから。
「ちゃ、茶だと? け、剣の相手をしろと言ったのは お前ではないか。」
「もう十分。おふみさんにお茶もらってこよ。」
カンナは口のあいた彼らを残しふらっと姿を消した。
実際には短い打ち合いであった。しかしカンナにとっては何人もの顔が浮かんでは消え、責めを受けているかのようで、とても耐えられるものではなかった。 特に、玄瑞が遺した想いは忘れたくないことではあるが、カンナには重かった。 それは、玄瑞もまた大勢の想いを背負った大器の持ち主だったからに違いない。
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カンナは、小さく暗い部屋の真ん中に座る小さくか弱い背を見つける。
「おふみさん?」
「っああ、桂さんのお連れさまでしたか。」
怯えている目。絶望している目。 一目でわかった。このひとも、あの玄瑞を忘れられていないのだと。
「ええ。先ほどとは違って男のなりをしているので驚かれたかもしれませんね。申し訳ありません。」
「いえ。いまお茶でも」「お構いなく。彼に会いに来たのです。」
部屋の隅には仏壇があった。線香の煙がすっと立ち上っている。
「え?」
「久坂さんにはお世話になりまして。こちらに奥さんがいるというので桂さんについてきたのです。」
カンナは懐を握りしめた。 手放す時がやってきたのだ。 喉が詰まる。
声に出せば形見はカンナの手を離れていく。
「うちの夫が、...あなたを?」
「... ...っ最期を見届けたのは、俺です。」
見捨てたのも。
「...彼から、これを 預かりました。」
カンナの震える手が懐からあの詩集を取り出す。 詩集は戦場で埃に血にまみれ、玄瑞とカンナの涙で濡れてぼろぼろである。 カンナはそれから目をそらす。
ふみは口を手でおさえ、今にも嗚咽が漏れそうである。 受け取らないで欲しいとカンナは願った。
「玄瑞さんは、大切な...兄でした。」
そう言った途端、カンナの頬を涙が伝った。
確かに兄であった。しかし、それだけではないものが少なからず、カンナの心にもあった。
カンナは、玄瑞の弟としてふみの前に立つことにした。そうでもしなければ、この妻の前では立ってもいられなかっただろう。
「そう...でしたか。」
「強く生きよ、笑って生きよ、と。 笑って堂々と生きてください。彼の、久坂玄瑞のように。」
カンナは、ふみに詩集を持たせ、冷静であるかのように静かに歩き去った。
仏壇に手を合わせることは敢えてしなかった。今すれば、カンナはそこから立ち上がれなくなるだろう。
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桂は、塾生の輪の真ん中で京での話をきかせていた。
ふと視界の隅にカンナの姿をとらえるが、塾生に呼ばれ、また話を再開した。
カンナは庭で一本の細い木を見上げる。
細くて弱そうなのに、背だけは高い木だ。 この木は、どこまで周りを見通しているのか。
この木のてっぺんに登ったら、京の街が見えるだろうか。
カンナは伝う涙を放ってただただ てっぺんを見上げる。
「ずいぶんと、懐かしい光景だ。」
太い男の声がして、カンナは焦って涙を拭いた。
でかい手がカンナの頭をかき回す。
ようやくカンナが男を見ると、中年のがっしりとした男が人の良さそうな笑みを浮かべる。
「ここらでは見ない奴だなあ。」
カンナはそっちこそと言いたかったが、そんな気力もなかった。
「まあいい。 この木は、俺の爺さんが植えたんだ。太くどっしり構えた大木に育つと思いきや、こんな細っこい情けねえ木になっちまって。 親父はこの木が気に入らなくて切ろうと言って聞かなかったが、俺の弟はえらくこの木が気に入ってな。 良くあんたみてえに真下から見上げてたよ。てっぺんに登りゃあ、日の本が見渡せるんだって。 ”僕はこの木になるんだ”なんてよく言ってたぜ。」
「...彼はなれましたか?この木みたいに。」
「あいつは、日の本どころか海の向こうだって見てた。この木よりもでっけえ奴だった。
しかも、でけえくせに足元の連中まで面倒みやがる。その足元で育った連中があいつらさ。」
桂を中心に議論を交わす塾生たちが見える。 木の根元には、確かに新しい木が育っている。
その新しい木に養分を分け与えているからこんなにも細いのだ。この木は。
「彼は、誰かを好きになったことはあるのでしょうか。」
「どうだかなあ。いい年だったし、もしかしたら密かに想ったひとはいたかもしれんが、やっぱり国の行く末第一だ。恋愛や婚姻に割く時間なんてない忙しい奴だったよ。 恋愛といやあ、久坂のやつはもてたもんだ。知ってるか? 真面目な奴で、もてるのに浮気ひとつしねえ。 できた義弟さ。」
男の顔も曇り始めた。
「久坂さんには、世話になりました。こんな俺を弟みたいに思ってくれて。」
この男、ふみの兄は、カンナが女であると最初から気づいていた。
話を聞いているうち男の正体に気づいたカンナは、ふみに言ったのと同じことを繰り返すしかなかった。
「そう...か。ありがとな。」
カンナは、そのありがとうの意味を感じ取って唇を噛み、木の根元に縮こまった。
ふみの兄が立ち去るのを感じると、カンナは途端に呼吸を乱し、木にもたれるように倒れた。
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カンナは暖かい布団の上で目を覚ました。
部屋は月明かりで照らされ、枕もとの虎徹の鞘がそれを反射していた。
「トシ...。」
カンナは虎徹を腕に抱いた。
玄瑞とかつを失った喪失感を和らげてくれたのは新選組の面々だった。
そういや前に、あたしがトシに恋してるなんて総司に言われたっけ。
その時に恋なんてわからないって思ったけど、やっとわかったよ。 相手はトシじゃなかったけど。
今思えば、玄瑞が好きだって気づかなくて良かったのかもしれない。玄瑞に辛い思いをさせたかもしれないけど、今日おふみさんを見て、玄瑞と何もなくて良かったって思った。
もし玄瑞と恋人同士になっていたら、たぶん自分は弟だなんて言えなくて、相思相愛だったんだとか言ってしまいそうだ。 でもそれを言ってしまったら、無駄におふみさんを苦しめる。
「死者の想いが、生きている人を苦しめるなんて、していいはずない。」
ましてや、そう仕向けるなんて。