冷徹な天才陰陽師様に撫でられたらケモミミが生えて詰みました。
磨き抜かれた廊下の先に、その静寂は鎮座していた。
和紙を通した柔らかな午後の陽光が、畳の目を一つ一つ残酷なまでに鮮明に照らし出している。
マコは己の呼吸の音がこれほどまでに騒がしく感じたことはなかった。
上質な正絹の振袖が擦れるわずかな音さえ、この静かな座敷においては不作法な騒音のように思えてしまう。
視線を上げれば、そこにはこの世のものとは思えぬほどに研ぎ澄まされた「虚無」があった。
冷泉晴明
陰陽寮の若き俊英として名を馳せるその男は、美貌という言葉で括るにはあまりに温度が低すぎた。
整った鼻梁、薄い唇、そして長い睫毛の奥に湛えられた瞳は、まるで冬の月夜にさらされた刃の輝きだ。
彼は一度もマコを見ようとはしなかった。
ただ、そこにある空気の一部として彼女を黙殺し、手元の茶碗から立ち昇る薄い湯気だけを見つめている。
マコは内心で、己の運命にそっと手を合わせた。
冷泉家といえば、古くから不浄を撥ね除ける厳格な家柄だ。
一方のマコは、ただの裕福な商家に育った(と本人は信じている)娘に過ぎない。
家柄の釣り合いなど最初から取れてはいないのだ。
きっと彼は、この見合いを時間の無駄だと断じているに違いない。
そうでなければ、これほどまでに徹底した無関心を向けられるはずがなかった。
「……」
沈黙が、皮膚にまとわりつく湿気のように重い。
襖の向こう、別室では父の蔵之介と晴明の父である正明が、何やら景気の良い声を上げている。
かつては反目し合っていた時期もあったと聞くが、今では隠居同士、酒を酌み交わす仲だという。
その親愛の証として設定されたこの場が、マコにとってはこれ以上ない針のむしろであった。
やがて、晴明が音もなく茶碗を置いた。
その指先は白磁のように白く、節くれだったところ一つない。
「……こんな親が決めた茶番に、お前を付き合わせて悪かったな」
低い、けれど不思議と耳朶に残る透明な声だった。
それは謝罪というよりも、ただ事実を淡々と告げる宣告に近い。
晴明は流れるような所作で立ち上がり、一度も振り返ることなく出口へと歩みを進めた。
マコは膝の上で固く結んでいた指の力を、ようやく抜くことができた。
終わった。
拒絶された悲しみよりも、この息の詰まる緊張から解放される歓喜が勝った。
「失礼する」
彼がマコの傍らを通り過ぎようとした、その刹那だった。
ふわりと、頭頂部に柔らかな重みが乗った。
マコは驚きで瞬きを忘れた。
晴明の大きな、けれど羽根のように軽い掌が、マコの頭を優しく包み込んでいた。
それは立ち去り際の、ほんの気まぐれな慈悲だったのかもしれない。
あるいは、緊張で震えていた小娘への、彼なりの不器用な慰めだったのか。
けれど、その接触が引き金となった。
晴明の指先から流れ込んできたのは、冷徹な外面からは想像もつかないほど、根源的で熱烈な「熱」だ。
その熱がマコの頭蓋を透過し、意識の奥底に眠っていた「何か」に直撃する。
幼い頃から両親が欠かさずかけてくれていた、平穏を守るためのおまじない。
幾重にも重ねられた術の殻が、晴明の熱に触れた瞬間に内側から粉々に爆ぜた。
パチン、という硝子が割れるような涼やかな音が、マコの脳内で響く。
同時に、頭頂部に奇妙なむず痒さが走った。
きっちりと結い上げられていたはずの髪が、内側からの圧力に耐えかねて解けていく。
──ピョコン
それは、あまりに場違いで、あまりに愛らしい音だった。
マコの漆黒の髪を押し退けて、頭頂部から二つの黄金色の三角形が勢いよく立ち上がった。
日の光を吸い込んで、それ自体が発光しているかのような、美しい獣の耳。
人間という化けの皮が剥がれ、真実の姿が白日の下にさらされた瞬間だった。
「……え?」
マコは呆然として、自分の頭に手を伸ばした。
指先に触れたのは、かつて経験したことのないほどに濃密な、シルクを何枚も重ねたような極上の毛並みの感触だ。
己が人間ではないという事実への恐怖よりも先に、その官能的なまでの手触りに意識が飛びそうになる。
そして、マコが悲鳴を上げるよりも早く、室内の空気が一変した。
出口に向かっていたはずの晴明が、そこにはいなかった。
次の瞬間、彼はマコの目の前、肌が触れ合うほどの至近距離に跪いていた。
先ほどまでの虚無を湛えた瞳はどこへ消えたのか。
今の彼の瞳は、獲物を追い詰めた獣のようにぎらつき、底知れぬ欲望の炎がゆらゆらと揺れている。
「……何という、ことだ」
晴明の声は、歓喜に震えていた。
彼は畏怖すら感じさせるほど丁寧な手つきで、マコの黄金色の耳を両手で挟み込んだ。
「この毛並み、この密度。光を透過させぬほどの重厚な下毛。そして指を吸い寄せるような上毛の滑らかさ……。これほどまでに完璧な個体が、この世に存在したとは」
「せ、晴明様、あの、お離しください……!」
「黙れ。動くな。今の私の指は、この奇跡を記憶することだけに全神経を注いでいる」
晴明はマコの耳に顔を寄せ、花の香りを慈しむ詩人のように深く、深くその匂いを吸い込んだ。
冷泉家の当主として、幾多の怪異を調伏してきたその指が、今はただ一匹の妖狐の耳を揉みしだくためだけに動いている。
耳の付け根、神経が集中する場所を的確に、かつ執拗に愛撫され、マコの思考は急速に白濁していく。
「あ……ひゃ、やめて、変な感じが……っ」
「やめられるはずがないだろう。……マコ、前言を撤回する。これは茶番などではない。私の全人生は、この瞬間のためにあったのだ」
晴明は、とろけるような笑みを浮かべた。
それは氷細工が内側から燃え上がったような、狂気すら孕んだ美しさだった。
「結婚しよう、今すぐにだ。お前のその耳から尻尾の先まで、一毛たりとも他者に触れさせるつもりはない。生涯をかけて、私が完璧に管理してやる」
「……はい?」
マコの困惑をよそに、晴明の指はさらに深く、黄金の毛並みの中へと沈み込んでいく。
こうして、一人の少女の平穏な日常は、無口な陰陽師の「重すぎる愛」という名の執着によって、永遠に終わりを告げたのである。
晴明の指先が耳の付け根を執拗に、かつ繊細に撫で上げるたびに、マコの背筋には今まで経験したことのない奇妙な震えが走っていた。
視界がちかちかと点滅し、思考は泥のように溶けていく。
助けて、と叫ぼうとした喉は熱い吐息に塞がれ、ただ小さく震えるのが精一杯だった。
その時、緊迫した空気と陶酔の時間を切り裂くように、隣室の襖が勢いよく左右に跳ね飛ばされた。
「カカカ! 見たか正明、この吸い付くような術の解け方! やはり我が娘の素質に狂いはなかったな!」
「まったくだ、蔵之介。晴明の奴、あれほど女には興味がないと突っぱねておきながら、一目見るなりこの食いつきぶりだ。冷泉の血筋に刻まれた『もふもふへの渇望』には逆らえんということだな」
現れたのは、マコの父である蔵之介と、晴明の父である正明だった。
二人はまるで長年の戦友のように肩を組み、酒器を片手に上機嫌でこちらを眺めている。
晴明はといえば、父親たちが現れてもマコの耳を離すどころか、さらに深く指を沈めながら、冬の朝露のような冷徹さを僅かに取り戻した瞳で父を睨みつけた。
「……父上、無作法ですよ。今は鑑定の最中です。邪魔をしないでいただきたい」
「鑑定、だなんて。晴明様、一体何を仰っているのですか……っ。それより、このお耳を離してくださいませ」
マコが涙目で懇願するが、晴明はその声を心地よい囀り程度にしか受け取っていないようだった。
蔵之介は豪快に笑い飛ばしながら、娘の隣にどっかりと腰を下ろした。
「マコ、驚くことはない。お前がいつかこうなることは、三十年も前から決まっていたことなんだからな。お前を人間だと思い込ませて箱入りで育てたのも、余計な妖力を使わせて極上の毛並みが傷まないようにするためだ!」
「三十年前、ですか? お父様、一体何を仰っているのですか。私にはさっぱり分かりません」
蔵之介は遠い目をして、まるで英雄譚を語るかのように語り始めた。
かつて、北の霊峰にて、大妖狐と最強の陰陽師が激突した時のことを。
当時、冷泉家の当主であった正明は、人里を脅かすと噂されていた蔵之介を討つべく、家伝の宝剣を携えて山に登った。
三日三晩続いた術と妖力の応酬。
山は削れ、空は裂け、まさに世界の終焉を予感させる死闘だったという。
しかし、正明の放った一撃が、蔵之介の姿を保つ化けの皮を切り裂いた瞬間、世界は一変した。
「……あの時の衝撃は、今でも忘れんよ、蔵之介。剥き出しになったお前の尻尾。夕日を浴びて黄金に輝くその毛並みを見た瞬間、私の指先は術を編むことを拒否したのだ。この美しさを傷つけるのは、神に対する冒涜だと直感した」
正明がうっとりと目を細めて追想する。
対する蔵之介も、どこか誇らしげに頷いた。
「俺も驚いたぜ。敵だと思っていた男がいきなり剣を放り出し、『すまない、その尻尾の中に顔を埋めさせてくれ』と泣きながら土下座してきたんだからな。あの日から俺たちは、陰陽師と妖狐という垣根を超え、究極の毛並みを追求する同志になったのさ」
マコは眩暈を感じた。
つまり、自分の父親も、目の前の未来の夫も、その父親までもが、揃いも揃って同類なのだ。
冷泉家とマコの家が仲睦まじかったのは、平和のためではなく、ただ「最高の毛並みを独占し、愛でる」という欲望のために結ばれた同盟だった。
「さあ、晴明。約束のものを持ってきたぞ。冷泉家に代々伝わり、当主が運命の伴侶を得た時にのみ開封を許される、伝説の神器だ」
正明が厳かに差し出したのは、紫の袱紗に包まれた小さな木箱だった。
晴明は初めてマコの耳から手を離すと、恭しくその箱を受け取り、蓋を開けた。
中に入っていたのは、鈍く黄金色に光る、見事な彫刻が施された櫛だった。
「これは……まさか、三途の川の向こう側にあると言われる霊木から削り出された、『神撫での櫛』ですか」
「そうだ。一撫でするだけで、毛並みの奥に潜む僅かな濁りさえも浄化し、永遠の輝きを与えるという。さあ、それを使ってマコ殿を思う存分に手入れするがいい」
晴明の瞳に、再び怪しい光が宿った。
彼は震える手で櫛を取り出すと、獲物を追い詰めるような笑みをマコに向けた。
「マコ、案ずるな。お前を人間の世界に馴染ませるためにかけられていた、あんな安っぽい隠蔽の術式などもう必要ない。これからは私が、お前の真実の美しさを引き出し続けてやろう。まずは……そうだな。その耳の裏の、少し毛が絡まりやすい部分から徹底的に解いてやる」
「晴明様、お待ちください、近いです……そんな、櫛まで持ち出さないでくださいませ……っ!」
逃げようとするマコの腰を、晴明の腕が鉄の枷のように固定した。
蔵之介と正明は、仲良く酒を酌み交わしながら「いい毛並みだ」「いい手つきだ」と野次を飛ばしている。
自分が最愛の娘ではなく、極上の毛皮を持つ献上品として育てられていた事実に打ちひしがれながら、マコは冷泉邸へと連行される運命を受け入れるしかなかった。
こうして、伝説の陰陽師と大妖狐が仕組んだ、世紀の政略結婚という名のもふもふ捕獲劇が幕を上げたのである。
◇ ◇ ◇
冷泉家の屋敷は、その門構えからして人を拒絶するような威厳に満ちていた。
重厚な黒塗りの門を潜れば、掃き清められた白砂が目に眩しく、整然と並ぶ松の枝ぶり一つにも、この家が守り続けてきた冷徹なまでの秩序が宿っている。
マコは、晴明の影に隠れるようにしてその回廊を歩いていた。
連れてこられたのは、奥まった場所にある離れだった。
そこは他の部屋とは明らかに空気が異なり、床には最高級の敷物が幾重にも重ねられ、室内にはほのかに沈香の香りが漂っている。
「……晴明様、ここはいったい?」
「……」
「ここは、今日からお前の城だ。そして、私の聖域でもある」
晴明はそう短く告げると、マコを上座に座らせた。
彼は一切の迷いのない動作で、懐から例の「神撫での櫛」を取り出す。
窓から差し込む斜光を浴びて、霊木から削り出された櫛は、まるで生き物のように鈍い光を放っていた。
晴明の指先が、その櫛の歯を一本一本確かめるように撫でる。
その時の彼の横顔は、怨霊を調伏する時の冷徹な陰陽師そのものだったが、その情熱の矛先は、マコの頭頂部で不安げに震える黄金色の耳へと向けられていた。
「晴明様、あ、あの……ご自分でおやりになるのですか? 下女の方にお任せすればよろしいのでは……」
「……」
「馬鹿を言うな。この世の誰に、この奇跡を触れさせるというのだ。……動くな。毛筋一本の乱れも、私には許容できん」
晴明がにじり寄る。
その瞳には、もはやマコという一人の少女の存在は映っていない。
そこにあるのは、完璧な毛並みを完成させるという、求道者にも似た狂気的な執着だけだ。
晴明の手が、そっとマコの耳の付け根に触れた。
「ひゃっ……!」
マコは思わず肩を竦めた。
彼の指は、氷のように冷たかったはずなのに、触れられた場所からじわりと熱が広がっていく。
晴明は、祈りを捧げるかのような神聖な手つきで、まずは指の腹を使って毛並みを整え始めた。
耳の裏の、もっとも繊細で、もっとも敏感な場所に、彼の長い指が潜り込む。
「……ふむ。やはり毛の深層に、隠蔽の術式の残り香があるな。これが手触りの滑らかさを、僅か一分ほど損なわせている」
晴明の独り言は、もはや呪文のようだった。
彼は「神撫での櫛」を構えると、マコの髪をかき分け、耳の付け根から先端に向けて、極めてゆっくりと、そして確実に櫛を通した。
ゾクッ、と。
マコの脳髄を、未知の衝撃が突き抜けた。
ただの櫛ではない。
霊木の力が毛の一本一本に宿る不純物を焼き払い、根元から活力を与えていく。
それ以上に、晴明の「気」が、櫛を通じて直接マコの神経に流し込まれているような感覚。
それは痛みではなく、かといって単なる快感でもない。
全身の力が抜けて、畳の上に溶け出してしまいそうな、抗いがたい支配の感覚だった。
「……あ、は……晴明、さま……っ」
「……」
「いいぞ、マコ。声を出せ。お前の歓喜が毛並みに伝わり、輝きがさらに増していく。……ああ、素晴らしい。この弾力。私の指を押し返す、この野生の生命力こそが、私が夢にまで見た理想の狐だ」
晴明の手つきは、次第に熱を帯びていった。
耳の縁をなぞり、耳孔の周りの産毛を優しく愛で、時折、甘噛みをするかのような強さで指先を立てる。
マコは必死に唇を噛んで耐えようとしたが、身体は裏腹に、より深い愛撫を求めて、無意識のうちに晴明の方へと擦り寄っていた。
「くぅ、ん……」
喉の奥から、自分でも信じられないような情けない鳴き声が漏れた。
その瞬間、マコは羞恥で顔を火のように赤くした。
自分は人間だと思っていたのに。
こんな、一振りの櫛と一組の手によって、これほどまでに容易く屈服させられてしまうなんて。
「……お前の本能が目覚め始めたようだな。喜ばしいことだ」
晴明は、恍惚とした表情でマコの耳を揉みしだきながら、その美貌をさらに近づけた。
彼の吐息が、敏感になった耳に直接かかり、マコは快感のあまり爪先まで痺れてしまう。
「晴明様、もう、それ以上は……。私、おかしくなってしまいます……っ!」
「……」
「おかしくなればいい。お前の理性など、私のブラッシングには不要だ。……さあ、次は耳の裏だ。ここにはまだ、私の愛が行き渡っていない場所がある」
晴明の言葉は、逃げ場のない檻のようにマコを縛り付けた。
彼が櫛を置く気配はない。
むしろ、これからが本番だと言わんばかりに、晴明の瞳の奥に宿る「もふもふへの情欲」は、さらに深く、静かに燃え上がっていた。
窓の外では、夕闇が迫り、屋敷全体が影に沈んでいく。
けれど、その離れの一室だけは、黄金の耳が放つ淡い光と、若き陰陽師の狂おしいまでの執着に満たされていた。
マコは、己が人間ではなかったことへの絶望よりも、この男の指先から逃れられなくなることへの、甘い恐怖に震えていた。
それは、これから一生続くことになる、官能的で滑稽な日常の、ほんの序章に過ぎなかったのである。
◇ ◇ ◇
冷泉家の離れを包んでいた平穏は、あまりに唐突に、そして暴力的に引き裂かれた。
夕闇が濃くなり始めた庭園の結界が、乾いた音を立てて弾け飛ぶ。
大気を震わせる不吉な鳴動と共に、数枚の呪符が、鴉の羽のように黒い軌跡を描いて室内に滑り込んできた。
「……鼠が紛れ込んだようだな」
晴明が低く呟いた。
その手は、マコの耳をブラッシングしていた時と同じ静けさを保っていたが、指先に宿る気の密度が一瞬で跳ね上がる。
彼はマコを自身の背後に庇うようにして、立ち上がった。
襖を蹴破り現れたのは、黒装束に身を包んだ男たちと、その中心に立つ、蛇のように細い目をした若者だった。
男は冷泉家と古くから対立する陰陽師の一族、芦屋の末弟である。
「冷泉晴明。貴様が秘蔵している『至宝』の噂は、既に我らの耳にも届いている。大妖狐の血を引く娘……その身に宿る莫大な霊力、我が一族のために役立ててやろう」
「……」
晴明は答えない。
ただ、その瞳の奥には、感情を削ぎ落とした静謐な殺意が揺らめいている。
「ふん、無言か。ならば力ずくで奪うまでだ。……行け!」
男が印を結ぶと、背後の式神たちが一斉に飛び出した。
炎を纏った狗の姿をした式神が、猛然とマコへと牙を剥く。
マコは恐怖に身を竦ませた。
人間として育てられた彼女には、戦う術など何一つない。
ただ、目の前の晴明の背中を信じるしかなかった。
「晴明様……っ!」
「案ずるな、マコ。……私の領域で、許しもなく不浄を撒き散らす愚か者に、相応の報いを与えるだけだ」
晴明の手から放たれた透明な波動が、迫り来る炎の式神を次々と霧散させていく。
しかし、敵もまた手練れであった。
男が放った追撃の呪符が、晴明の防御の隙間を縫うようにして、マコの足元で爆ぜた。
「きゃあぁっ!」
衝撃に吹き飛ばされそうになったマコを、晴明が強引に抱き寄せる。
幸いにして怪我はなかった。
だが、爆風と共に舞った火の粉が、ほんの一瞬、マコの黄金色の耳を掠めたのだ。
「……あ」
マコが小さく声を漏らした。
焼けるような熱気。
指を伸ばせば、そこには先ほどまでの絹のような手触りではなく、僅かにチリリと焦げ、縮れてしまった毛の感触があった。
神の奇跡とまで称えられた黄金の毛並みが、一筋だけ、醜い黒に染まったのである。
その瞬間。
冷泉邸の空気が、完全に凍結した。
「温度が低い」といった生易しい表現では足りない。
まるでこの空間だけが、世界の理から切り離された絶対的な静止画に変わったかのようだった。
「……今、何をした」
晴明の声が響いた。
それは怒声ですらなく、ただ深く、暗い奈落の底から這い上がってきたような響きだった。
「お前たちが、私の許可なくその汚らわしい火を放ち……私が生涯をかけて、命を削って整えると誓った、この至宝を傷つけたのか」
晴明の背後で、数え切れないほどの呪符が狂ったように舞い上がった。
彼が纏う気は、もはや人間のそれではない。
神気と狂気が混ざり合った、圧倒的な圧力が室内を支配する。
「冷泉、貴様、何を……っ!? たかが狐の毛が焦げた程度で……!」
「黙れ、三流が」
晴明の指が、目にも留まらぬ速さで印を編み上げる。
「貴様らの一族すべてを、この一瞬で灰に変えても、この耳の一毛の損失すら補うことはできん。……消えろ。この世の塵すら残さずな」
晴明が放ったのは、冷泉家の禁術、五行を逆転させて存在そのものを分解する「虚無の顎」であった。
呪文を唱えるまでもない。
ただ、彼が指を示した瞬間、男たちが立っていた空間そのものが、墨を流したような闇に飲み込まれた。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
そこにいたはずの陰陽師も、式神も、そして彼らが纏っていた殺意さえも、一瞬にしてこの世から消滅した。
残されたのは、静まり返った離れと、肩を震わせる晴明だけだった。
「晴明様……? もう、敵はいませんわ。大丈夫ですから……」
マコが恐る恐る、彼の袖を引く。
晴明は、ゆっくりと、折れそうなほど脆い動作で振り返った。
その瞳には先ほどの狂気はなく、代わりに深い、深い絶望の色が浮かんでいる。
「……ああ、マコ。私の不徳だ。私の、万死に値する失態だ」
彼は震える手で、マコの焦げた耳の先をそっと、壊れ物を扱うように包み込んだ。
「あれほどまでに完璧だった毛並みが……私の不甲斐なさゆえに、傷ついてしまった。……済まない、済まない。こんな姿にしてしまって……っ」
晴明は膝をつき、マコの耳を自分の額に押し当てて、まるで大切な家族を失ったかのように本気で、涙を流し始めたのである。
マコは、呆然とした。
自分の命が狙われたことよりも、私の耳の毛が数ミリ焦げたことに対して、この男はこれほどの悲しみと怒りを見せているのだ。
「晴明様……泣かないでください。これくらい、また伸びますわ……」
「馬鹿なことを言うな! 失われた一瞬の輝きは、二度と同じ形では戻らないのだ! ……すぐに、最高級の霊薬と、私の気のすべてを注ぎ込んで、この傷を癒してみせる」
晴明の瞳に、再び強い、けれど今度は慈愛に満ちた決意が宿った。
彼はマコを抱き上げると、そのまま自身の寝所へと歩き出した。
マコは、彼の腕の中で小さくなっていた。
自分を襲った敵を一瞬で塵にした最強の陰陽師が、今は私の耳の毛一筋のために必死になっている。
その歪んだ、けれどあまりに真っ直ぐな執着に、マコの心臓は、恐怖とは別の理由で、激しく鐘を打ち鳴らしていたのである。
不浄の輩が消え去った後の静寂は、重く、どこか物悲しく離れを支配していた。
晴明はマコを寝所の柔らかな寝台に横たえると、すぐさま家宝の蔵から、歴代の当主さえも触れることを許されなかった伝説の霊薬「白蓮の雫」を取り出してきた。
それは、古の神代において傷ついた神獣の毛並みを癒したと伝えられる、奇跡の滴である。
晴明の瞳は、いまだに濡れていた。
その震える指先が、マコの焦げた耳筋をなぞる。
「……私の慢心だ。これほどの至宝を預かる身でありながら、わずか数寸の毛先を守りきれなかった。万死に値する、許し難い失態だ」
「晴明様、もう、自分を責めないでくださいませ。私は無事なのですから……」
マコが言葉をかけるが、晴明の耳には届いていないようだった。
彼は神聖な儀式を執り行う司祭のような手つきで、霊薬を「神撫での櫛」に一滴だけ落とした。
その瞬間、室内には天界の楽園を思わせる、清冽な花の香りが満ち溢れる。
晴明はゆっくりと、マコの焦げた部分に櫛を当てた。
単に毛を整えるのではない。
彼は己の莫大な霊力を、霊薬の力を媒介にしてマコの耳の毛の一本一本へと流し込んでいた。
本来であれば数ヶ月を要する毛の再生を、自らの寿命を削るほどの莫大な気と霊薬の力で数秒に圧縮していく。
それは、凄まじい集中力を要する作業だった。
彼の額には大粒の汗が浮かび、白磁のような肌は微かに紅潮している。
マコは、その横顔をただ見つめることしかできなかった。
月明かりに照らされた晴明の姿は、狂気的でありながら、あまりに美しく、ひたむきだった。
これほどまでに必死に、ただ一つの目的のために己を削る男を、マコは他に知らない。
「……消えていく。穢れが、消えていくぞ」
晴明が歓喜に震える声を漏らした。
霊薬の輝きが焦げた毛先を包み込み、炭化していた部分が霧散するように消えていく。
代わりに、以前にも増して艶やかな、黄金色の新たな毛が芽吹くように再生していった。
再生の衝撃が、甘やかな刺激となってマコの脳を揺さぶる。
晴明の指が、再生したばかりの産毛を、宝物を慈しむように何度も、何度も愛撫した。
「ああ……。戻った。いや、以前よりも密度が増し、光の屈折さえも完璧なものに昇華されている。マコ、お前の耳は、もはやこの世の理を超えた」
晴明は安堵のあまり、そのままマコの膝元に崩れ落ちた。
最強の陰陽師と呼ばれた男が、ただ一握の毛並みが元通りになったというだけで、まるで幼子のように安堵の吐息を漏らしている。
その姿を見た時、マコの胸の奥で、何かが熱く、激しく波打った。
最初は他人には無関心の、冷酷な男だと思っていた。
そしてただの「もふもふ変態」だと思っていた。
けれど、彼はこれほどまでに私(の耳)を大切に想い、命を懸けて守ってくれた。
たとえその愛の形が、人とは少し、いや、決定的にズレていたとしても。
「晴明、さま……」
マコは、意識せずとも手を伸ばしていた。
晴明の、汗に濡れた前髪をそっとかき上げる。
至近距離で見つめ合う二人。
晴明の瞳に宿る、深い、底なしの執着と、それ以上に純粋な献身。
それらに触れた瞬間、マコの心臓は、これまでにないほど強く、熱い鼓動を刻んだ。
「私……私、晴明様のことが……」
言葉にしようとした瞬間だった。
マコの尾てい骨のあたりで、内側から突き上げてくるような、強烈な開放感と熱量が発生した。
耳の時とは比べ物にならないほど、莫大で、芳醇な妖力の奔流。
それは、彼に対する愛しさと、守られたことへの感謝が、封印の最後の一片を完全に焼き切った証だった。
──ボフッ
静かな室内に、耳よりもずっと大きな、重厚な音が響き渡る。
マコの着物の裾を豪快に撥ね除けて、そこから一本の、巨大な「光の塊」が飛び出した。
それは耳と同じく、黄金色に輝く、圧倒的な存在感を放つ妖狐の尻尾。
絹を万枚も重ね合わせたような密度、太陽の欠片を編み込んだような輝き、そして、一本一本の毛が独立して意志を持っているかのように美しく波打つ、究極の尾だった。
「……あ」
マコは、あまりの気恥ずかしさに顔を真っ赤にして固まった。
心が高ぶると、尻尾までが勝手に出てきてしまうなんて。
「……っ!」
晴明の反応は、劇的だった。
彼は膝をついた姿勢のまま、雷に打たれたかのように硬直した。
その瞳は、眼前に現れた「黄金の噴水」とも呼ぶべき美しさに、完全に奪われていた。
「これ、は……。何という、ことだ。私は、私は夢を見ているのか」
晴明の指が、震えながら尻尾の先端へと伸びる。
マコは逃げようとしたが、身体が熱くて力が入らない。
晴明の指先が尻尾の毛に触れた瞬間、彼は感極まったように、その場に平伏した。
「耳だけでも奇跡だと思っていたのに、これほど、これほどまでの質量を持った美が隠されていたとは。……ああ、神よ。冷泉家の数千年の祈りは、今日、この瞬間のために捧げられてきたのだな」
「晴明様、あの、あんまり見ないでくださいまし! 恥ずかしい、です……」
「恥じることなど何もない! マコ、お前は今、この世界で最も崇高な存在になった。……さあ、その尻尾を私の手に。この夜が明けるまで、いや、永遠が尽きるまで、私が一毛の乱れもなく、極上の輝きへと磨き上げ続けてやろう」
晴明は、もはや一寸の迷いもない動作でマコの腰を引き寄せた。
そして、現れたばかりの巨大な尻尾を抱きしめるようにして、狂おしいほどの情熱を込めたブラッシングを再開した。
「は、ひゃあ……っ、晴明様、そこは……ああっ!」
マコの甘い悲鳴が、月夜の離れに響き渡る。
その声は、かつて感じていた恐怖の色を失い、代わりに逃れられない愛着と、とろけるような幸福感に満ちていた。
最強の陰陽師と、至高の毛並みを持つ妖狐。
二人の新生活は、まだ始まったばかりだ。
晴明の「ブラッシングという名の愛」は、これからも日々、その重さと熱量を増していくことになるだろう。
マコは、彼の指先から逃れられないことを悟りながら、その官能的な安らぎの中で、ゆっくりと瞳を閉じた。
黄金の尻尾が、満足げにゆらりと揺れた。
(完)










