第13話:テルノミクス(1) 反撃の号砲 ― 白鯨の浮上
令化三十四年(二〇五二年)、四月。
テルノミクスが始動してから、三年という月日が流れていた。
東京湾岸、晴海埠頭。春の嵐が吹き荒れる中、急遽セットされた特設野外会見場は、殺気立った空気に包まれていた。集まったのは、国内外のメディア、野党議員、そして環境団体の代表者たち数百名。彼らの視線の先には、演台に立つ一人の男がいる。
財務大臣、大和テル。三十四歳となった彼は、三年前の就任時よりもさらに鋭さを増した眼光で、しかし微動だにせず、嵐のような罵声を浴びていた。
「説明責任を果たせ! 『捕食クジラ』は失敗だったと認めるか!」
「三兆円もの血税をドブに捨てて、得られたのは黒煙と騒音だけか!」
「円安でガソリンはまだ高い! 国民を殺す気か!」
怒号が飛び交う。カメラのフラッシュが雷光のように瞬く。与党内からも「テルノミクスの失敗」「大臣更迭論」が公然と囁かれる中、テルは政治的な断頭台に立たされていた。
だが、テルの表情に焦りはなかった。彼は、会場のボルテージが最高潮に達するのを、指揮者がタクトを振り下ろす瞬間を待つように、静かに見極めていた。
「……静粛に」
テルがマイクに向かって呟いた。その声は決して大きくなかったが、会場の空気を一瞬で凍りつかせる冷徹な響きを持っていた。
「批判は、甘んじて受け入れます。皆様の怒りも、不安も、痛いほど理解しているつもりです」
彼はゆっくりと会場を見渡した。
「ですが、その前に。皆様にどうしても見ていただきたいものがあります」
テルが、背後の東京湾を指差した。
「あれを」
記者たちが一斉に振り返る。カメラの砲列が海へと向けられる。そこには、何もなかった。ただ、鉛色の波が岸壁に打ち寄せているだけだ。
「何もいないじゃないか! はぐらかすつもりか!」
野次が飛ぶ。しかし、次の瞬間。
海面が、音もなく盛り上がった。
ザアァァァ……。
水が割れる音だけが響く。以前の『捕食クジラ』のような、耳をつんざくエンジンの轟音も、海水を巻き上げる激しい振動もない。まるで巨大な海洋生物が呼吸をするために浮上するかのように、あまりにも静かに、あまりにも滑らかに、その巨体は姿を現した。
純白の船体。
全長二百メートルを超える巨躯は、人工物とは思えない有機的な曲線で構成され、継ぎ目一つない滑らかな装甲に覆われている。煙突が、一本もない。黒煙も、排気ガスも、一切出ていない。
会場が、水を打ったように静まり返った。波の音と、カモメの鳴き声だけが聞こえる。
「……なんだ、あれは?」
「音が、しない……?」
呆然とする人々の前で、テルは宣言した。
「ご紹介しましょう。国家エネルギー戦略の、正当なる後継者」
背後の巨大スクリーンの文字が切り替わる。
移動式発電船『心臓クジラ(ハート・ホエール)』
「開発責任者は、東京大学准教授、大和サク。……私の弟です」
その時、船体の一部がスライドし、極太の送電ケーブルがアームのように伸びてきた。岸壁に設置された変電施設へと、カチリと接続される。会場に設置された巨大な電力需給モニター、接続の瞬間、供給量のグラフが垂直に跳ね上がった。
『送電開始。出力、安定。100万キロワットに到達』
原子力発電所一基分に相当する膨大な電力が、たった今、目の前の船から供給された。しかも、完全な無音で。
スクリーンに、船内からの中継映像が映し出された。クリスタルのように清潔なコントロールルーム。そこには、白衣を着て、干しブドウを指でつまんで齧る青年がいた。大和サク。二十九歳。
「……燃やしてないよ」
サクは不満げに眉をひそめた。
「燃やす(燃焼)なんて、野蛮で非効率なことはしない。化学反応で直接、電気を取り出す。排気ガスも振動も出ない。エネルギー変換効率は従来の火力の二倍以上だ」
サクは誇らしげに胸を張った。
「この心臓は、二十四時間三百六十五日、人類が必要な時に必要なだけ、静かに動き続ける。出るのは、熱と、電気だけ。……美しいでしょう?」
会場のモニターに表示されたリアルタイム電気料金単価が、パラパラと音を立てて下がっていく。35円……30円……25円……20円。震災前の水準をも下回り、さらに下がり続ける。
「……嘘だろ」
最前列でテルを野次っていた野党議員が、力なく椅子に座り込んだ。テルは、静かに語りかけた。
「【資源の鎖】は、太く、重い。まだ完全には切れません。自給率は道半ばです。ですが、この船は証明しました。我々はもはや、資源を持たざる哀れな国ではない。他国の機嫌を伺い、高いエネルギーを買わされる弱者ではない。自らの知恵と技術で、クリーンなエネルギーを生み出せるのだと!」
反論はなかった。圧倒的な「事実」——静寂、クリーン、そして激安の電気——の前に、全ての批判は意味を失った。罵声は消え、代わりに会場を包んだのは、畏怖と、そして長い間忘れていた「希望」の熱気だった。
逆転の狼煙は上がった。
長らくお待たせいたしました。
本当に世に求められている物語なのか自問しておりましたが、きっと求めてくださる方がいると信じて続けます。




