#0 約束でしょう?
十二月二十四日。今にも雪が降りだしそうな、クリスマス・イブの夜――
「やっと、見つけたよ」
ケーキを買った帰り道。スクランブル交差点の中央付近にて、九十九歩亜郎は奇妙な仮面を着けた少女に声を掛けられた。突然の出来事であった。
歩亜郎には雑踏の中、わざわざ話しかけてくれるような友人がほとんどいないし、人望もない。だから彼は返事をせず、少女の横を素通りした。そもそもこのような趣のある仮面を着けた少女と、歩亜郎は知り合いではないのだ。
再び横断歩道を渡り始める歩亜郎。少女は何者であったのか。クリスマスに便乗した怪しい宗教の勧誘者か何かであったのだろうか――考えながら、歩亜郎はケーキの箱を抱えて足早に去ろうとした。クリスマスの夜に仮面の少女――少々、不気味であったからだろう。
「サンタクロース、捜そうよ。約束でしょう?」
そのような歩亜郎に対して、少女が後方から声を掛けてくる。まだ会話を終えるつもりが無いようだ。本当は帰りたい歩亜郎であったが、約束という言葉に反応して、立ち止まった。
約束、ねぇ――その言葉を反芻する歩亜郎。頭の中で約束の二字が踊りだす。
【約束】、サンタクロースの捜索。歩亜郎には――全く覚えが無いことであった。歩亜郎は同居する妹のためにケーキを買っただけであり、ケーキ屋からの帰り道として偶然このスクランブル交差点を選び、これまた偶然仮面の少女に遭遇した。いくつかの偶然が重なっただけなのだ。
それなのに、世界中の子どもから実在性を疑われることも多々ある、あのサンタクロースを捜索する。そのような約束を果たさねばならないなんて――馬鹿馬鹿しい。実に無意味であると歩亜郎は一蹴し、やはりこの場から立ち去ることにした。
クリスマスプレゼントを保護者からもらうことになっていた歩亜郎は、サンタクロースの存在を信じていなかった。否、存在自体は信じていたが、歩亜郎自身にとってのサンタクロースは紛れもなく保護者の九十九振子であり、赤い帽子や白い髭の人物は歩亜郎の所には来ない、歩亜郎はそう思っていた。
今夜は雪の予報が出ているし、これから寒くなるだろう。自宅へ帰って、家族とクリスマス・イブを――ケーキを食べながら過ごしたい。そう思った歩亜郎が歩もうとした時だ。仮面の少女が少し怒ったような口調で語気を強めた。
「ねえ、聞いているの? ポワロくん」
「ポワロ、くん? だと?」
仮面の少女からの一際強い呼び掛けに、歩亜郎は違和感を覚えた。彼女は今、歩亜郎を何と呼んだのだろう。ポワロくん、そう呼んだのか。
それは――おかしな話だ。
「僕は――ポワロくんではないのだ。親しみを込めて、ポアロくんとお呼びなさい」
「いいえ、君は――ポワロくんだよ。ポワロくんではないのなら、私が困るもの」
自らの呼び名を訂正するよう求めた歩亜郎の発言、それを掻き消すように仮面の少女は呟いた。次の瞬間。歩亜郎たちの周囲を歩いていた通行人、その動きが静止していた。
通行人だけではない。遠くから聞こえていたはずのクリスマス・ソングも歩行者信号のメロディも、何もかも止まってしまっていた。止まっている。その表現に疑問を抱く程度に、周囲の全てが静止していたのである。
時間という概念そのものが無くなった――否、亡くなってしまったような感覚を歩亜郎は味わった。文字通り、時間が殺されてしまったのだ。歩亜郎は、そう解釈した。
「想像せよ、城郭の創造を――我は神をも、殺す者なり」
ここで、ようやく歩亜郎が仮面の少女の方へ振り向く。どうやら歩亜郎だけは殺された時間の中を動けるようだ。何故、歩亜郎の時間だけは殺されずに済んでいるのか。そのような分析をしている余裕は今の歩亜郎には無い。もう、何もかも遅いのだ。
仮面の少女は高らかに宣言した。城郭の創造を宣言した。世界が上書きされる。景色が一変する。周囲にあったはずのビル群やら店やら先程まで歩亜郎が渡っていた横断歩道までも、少女が思い描く城郭に変貌する。そして景色の中心に玉座が出現した。
その玉座に、仮面の少女はいつの間にか座していた。玉座の前方には、一見すると華やかな舞踏会の会場が具現化しているようではあるが、その場で踊っている者たちは皆、骸骨であった。生命というモノが、この場には感じられない。華やかな景色とはかけ離れている、何か矛盾したような強い感情がこの場に渦巻き始めている。
これは、殺意と愛情だ。
「【世都内界】か――厄介なことになったのだ」
歩亜郎は、この現象を知っていた。だから驚きはしない。
驚きはしないが、それ故に非常に不味い状況であると即座に判断した。彼女の想造力は暴走しているのだ。下手をすれば周囲にいる人々の心の世界である世都内界の崩壊に繋がる可能性がある。そのようなことになった場合、この街の被害は甚大だろう。
「ポワロくん、君は私が殺す」
玉座から立ち上がった少女は、舞踏会には決して似合うことがない物騒な刀を握り締め、ゆっくりと距離を詰めながら、歩亜郎へ向かって歩みを進めていく。
「だから――僕はポワロくんではないのだ」
仮にも探偵を名乗る者として、この状況を解決しなければならない。そう結論付けた歩亜郎は、自身に眠る想造力を発動させようとするが、突如そのアルゴリズムは崩壊を告げた。思考回路が破壊され、心の中を彼女に支配される。
「ポワロくん、では――」
不愉快で、不愉快で、愛おしい感情が歩亜郎の中に流れ込んでくる。
次の瞬間、歩亜郎は自身の左掌を刀で突き刺されていた。刀は手の甲まで貫通している。
ああ、駄目だ。もう、理解が追い付かない。歩亜郎は酷く混乱した。
何故、何故、何故、歩亜郎は見ず知らずの少女からの襲撃を受けなければならなかったのだろう。わからない、その一言に尽きる。
わからないという一言が全身を駆け巡り始めた直後、歩亜郎の左掌からおびただしい量の血液が噴き出る。公園にある噴水のように、止まることなく噴き出ている。
結果、歩亜郎はこの場に倒れることしかできなかった。
「ケーキは――どうなったのだ?」
先ほどまで左手で掴んでいたケーキの箱が歩亜郎の視界に入ってくる。地面に落ちたケーキは落下の衝撃で原型を留めていない。このようなことになるなら、ケーキ用の保冷剤をもっと入れてもらえばよかったと、歩亜郎は見当違いの後悔をした。
「あれ? 人違いか――そっか、そっか。君は、ポワロくんではないね?」
薄れる意識の中、少女の呟きが歩亜郎の耳へ入ってくる。今、何と言ったのだろう。人違い、そう言ったのだろうか。彼女は歩亜郎を誰かと間違えたのだ。
「君は、ポワロくんではないけれど――へえ、どういうことなのかな?」
ふざけるな、と歩亜郎は思った。この世でふざけて良いのは自分だけである。それが彼のポリシーであり、故に彼女の行動を許すことができなかった。だがもう許す、許さないを決める段階ではない。意識を保つための糸が少しまた少しと緩んでいるのだから。
「左手、が――何が、どうなって」
歩亜郎の左掌、そこにできた傷口が文字通り咀嚼のような動きを始め、突き刺さっている刀を喰い始めた。刀はすぐに粒子状の何かに変換されて、傷口の中に飲み込まれる。
「これは、魂のインストールが――既に起こっていたということなのかな?」
次の瞬間。歩亜郎の傷口は綺麗に閉じられ、塞がっていた。
「殺意が強すぎたね。やっぱり私に人殺しはできないかも」
呟きながら仮面の少女は雑踏の向こう側へ消え去っていった。
「とんでもない通り魔だったのだ――がっ!」
それは遅れてやってきた。意識を刈り取られるような感覚が、遅れてやってきた。歩亜郎は苦しそうに左手を抑えながら、地面の上を転げ回る。左手の中に、誰かいるような感覚が歩亜郎を襲っているのだ。その誰かの顔に、歩亜郎は見覚えがあった。
「お前は、オレなのか?」
それだけ呟くと、歩亜郎は意識を失った。
静止していた世界が徐々に、また徐々に動き出す。歩行者信号のメロディが聞こえ始めると同時に、まず世界を染め上げたのは悲鳴だ。周囲にいた通行人の悲鳴。血まみれの歩亜郎を見て、女性が悲鳴を上げたのだ。その悲鳴は、華やかな聖夜を一瞬にして亡き者へ変える。
ああ、クリスマスは殺された。雪が降り始めた、クリスマス・イブの出来事であった。
†
「サンタさん、いないね」
「うん」
「どこにいるのかな」
「さあ」
「そっちはどう?」
「いないよ」
「そっか」
「そろそろ帰ろうよ。怒られちゃうよ」
「うん……」
「ねえ、今年は無理だったけど」
「そうだね、今年は無理だったけど」
「いつか、また」
「うん」
「また一緒に、サンタさんを探そう」
†
これは、誰の記憶かな。誰の思い出なのかな。わからないけど、知っている。
何を感じていたのかな。何を思っていたのかな。わからないけど、知っている。
わからないけど、知っている。これは総てに答える物語。