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第69話 未知の戦記

 深夜。

 聖都アルシエルの静寂を切り裂くように、低い、けれど大地を震わせるような軍靴の音が響き始めた。

 マリエールは、本陣の指揮高台に立ち、冷たく澄んだ夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 その瞳には、かつて前世で見た「火刑の絶望」の面影はどこにもない。


「……作戦開始よ。敵は三十万、対する我らは十七万。数では劣っていても、私たちは負けるわけにはいかない。……皆、生きて再会しましょう」


 女王の凛とした号令が、伝令兵の手を経て、波紋のように全軍へと波及していく。

 それは決して、血を沸かせ勇気を鼓舞するような勇猛な咆哮ではない。

 だというのに、なぜこれほどまでに兵たちの魂を震わせるのか。

 女王の静かな檄を耳にした将兵たちは、己が神話に名を刻む戦士に選ばれたかのような錯覚に陥り、胸の奥から溢れ出す熱い忠誠心に、思わず涙を零す者さえいた。


 ここから先は、前世の記憶という既知のレールを外れた未知の領域。

 信じ合う者たちが、互いの背中を預け合い、歴史の白紙に刻み込む新しい戦記の幕開けであった。


 月光が険しい山肌を銀色に縁取る、山岳地帯の隘路。

 第一将軍シグルド・フォン・ライゼは、崖の上から黒い濁流のように押し寄せるハルガルド帝国の先遣隊を、冷徹な双眸で見下ろしていた。


「……焦るな。まだだ。十分に、喉元まで引き込め」


 シグルドの指揮は、緻密にして苛烈だった。

 彼はあえて防御陣を薄く見せ、敵が「勝機あり」と踏んで攻勢を強めるたびに、小規模な反撃と巧妙な後退を繰り返す。

 それは、飢えた獣を檻の奥へと誘う餌のようであった。


「ちっ、今日も逃げてばかりか! 聖女の軍とやらは、腰抜けの集まりだな!」


 谷底から響く敵兵の嘲笑に、シグルドの副官が屈辱に拳を握りしめる。

 だが、シグルド自身は岩のように微動だにしない。


「吠えさせておけ。奴らが自らの足で死地へ踏み入っていることに気づく頃には、この山全体が奴らの巨大な棺桶になっている。……我らが陛下に、あのような命を削る『神剣』を振るわせるわけにはいかぬのだ」


 シグルドの脳裏には、軍議で必死に「自分が囮になる」と訴えたマリエールの痛々しい姿があった。


(見ていてください、陛下。貴女の描いたこの残酷で美しい絵図、このシグルドが必ずや現実のものとしてみせましょう)


 一方、月明かりさえ届かぬ深い森の奥。

 漆黒の軽鎧に身を包んだカイル・サヴァランと、精鋭部隊「灰色の狼」たちは、草木を揺らす音さえ立てず、影そのものとなって移動していた。


「……サヴァラン様。風向き、北北西に変わりました」


 部下の囁きに、カイルは端正な顔に死神のような薄い笑みを浮かべた。

 

 視線の先には、戴冠式の喧騒の裏でカイルたちが焼き払った食糧……その穴を埋めるべく、ハルガルド軍が各地から強引にかき集めたばかりの、新たな兵糧集積地が無防備に並んでいる。

「光の連中が表舞台で派手に踊っている間に、俺たちは舞台裏の支柱を叩き折る。……『闇』の仕事は奴らの腹を空かせ、戦う気力を根こそぎ奪うことだ」


 カイルは懐から火種を取り出し、その小さな焔を見つめた。


「忘れるな。俺もお前らも、家族ごと泥沼の地獄から引きずり上げてもらったのは、マリエール様のお陰だ。ならば、あの方の代わりに世の泥を啜り、返り血を浴びるのは俺たちの役目。陛下の歩む道に、一粒の塵も残すな。……始めろ」


 刹那。

 夜の帳を切り裂くように、敵陣の数カ所から真っ赤な火柱が噴き上がった。

 それはハルガルド軍にとっては絶望の狼煙であり、アルシエル軍にとっては「罠の発動」を告げる、完璧な開戦の合図であった。


 戦火の喧騒から数キロ離れたアルシエル本陣。

 そこには、総司令官として地図を凝視するマリエールの背中と……その背後で、軍幕の隙間からチラチラと娘を覗き見る「父」アルベールの姿があった。


「ああ……エミリ、見てくれ。マリエールのあの凛々しい佇まいを! なんと誇らしい……。それに、お前たちが夜を徹して書き上げたこの軍略図、一分の隙もないではないか!」


 アルベールは軍略図を囲み、かつての厳格な王の面影をどこへやら、デレデレとした締まりのない笑顔を隠そうともしない。


「お父様、今は戦闘の真っ最中ですよ。将軍たちが命懸けで戦っているのですから、少しは威厳を持ってくださいませ」


 エミリが呆れたように苦笑しながら窘めるが、老王の興奮は収まらない。


「分かっているとも! だがな、こうして娘たちと机を並べて軍を動かせるなど、長生きはするものだ。レオンハルトも幸せ者だな。こんなに賢く美しい『二人の妻』を一度に得られて! どちらが産む孫も、この儂が責任を持って可愛がってやるからな!」


「お、お父様……ッ!!」


 マリエールは、背後で繰り広げられるあまりに明け透けな溺愛発言に、顔を真っ赤に染めて振り返った。


「お父様、その軍幕の奥にエミリが居ることは極秘なんです。ちゃんと閉めておいてください! エミリ、閉めちゃって!」

「はいはい、分かりましたわ。お父様、失礼しますね」


 エミリは満面の笑みを浮かべ、アルベールの騒がしい声を遮るように軍幕の入り口をしっかりと閉めた。

 しかし、閉ざされた幕の向こう側、アルベールの瞳には、ふとした瞬間に熱く、重い決意が宿った。


(マリエール、エミリ。お前たちが安心して策を練り、笑い合える日常を、儂がすべてを賭けて守り抜いてやろう。そのためならば、老い先短いこの命など、いつでもくれてやる……)


 マリエールは小さく咳払いをして、熱くなった頬を両手で押さえると、再び盤面に集中した。


「……火が上がったわ。シグルドに伝令。今すぐ中央を分断して。――さあ、始めましょう。誰一人逃がさない、私たちの『優しい包囲網』を完成させるのよ」


 夜空に舞う火の粉が、マリエールの瞳を黄金色に染め上げた。

 愛する者たちに守られ、支えられた聖女は、今、自らの知略という名の剣を振るい、巨大な帝国を飲み込もうとしていた。

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