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第68話 不要な神剣

 作戦会議室の空気は、張り詰めた弦のように鋭く、冷えていた。

 マリエールにとって、ここから先は前世の記憶が存在しない、完全なる未知の領域だ。

 運命の分岐点を越えた今、何が起きるか分からないという不安が、彼女を極限の合理性へと駆り立てていた。


(確実に、最短で、一兵も無駄にせず勝つ。そのためには……)


 彼女は銀の小手で、ウリエルの剣を顕現させる自らの右手を無意識にさすった。

 かつて強固な砦を一撃で両断した、神のわざ

 それを使えば、不確実な未来を力ずくでねじ伏せることができる。そう信じていた。


 大陸地図の上には、絶望的な数の駒が並べられている。

 帝国軍は上陸を完了し、その兵力は実に三十万。

 皮肉なことに、マリエールの「聖女としての慈悲」によって解放された元捕虜たちが、再び剣を手に集結した結果であった。

 だが、それこそが彼女の描いた巨大な罠だ。

 マリエールはあえて国内最後の帝国占領地を空白地帯とし、敵を南へ、南へと誘い込んだ。獲物が十分に山岳地帯の奥深くへ首を突っ込むのを、彼女は冷徹に待っていたのだ。


「……最終的な詰めを行います」


 純銀の鎧を纏ったマリエールが、居並ぶ八人の将軍、レオンハルト、そして父アルベールの前で、淡々と口を開いた。


「敵をこの山岳地帯の深部へ完全に引き込むために、この地点に来たら『ウリエルの剣』を携え、自ら囮となって最前線に立ちます。この目立つ銀の鎧を見せ、再び神剣を顕現させれば、元捕虜たちの間に『あの時の恐怖』が野火のように広がる。恐慌に陥った三十万は、自らの重みで瓦解するわ」


 それは、心理戦と神威を組み合わせた、完璧な勝利への最短ルートだった。


 だが、その瞬間。


 会議室の空気が、将軍たちの噴き出した凄まじい怒気によって物理的に凍りついた。


「……陛下ッ!! 断じて、断じて認められませぬ!!」


 沈黙を破ったのは、第一将軍シグルドの地鳴りのような怒声だった。

 彼は愛用の机が軋むほど拳を叩きつけ、普段の冷静さをかなぐり捨てて女王に詰め寄った。


「我ら将軍が、何のためにこの場に膝を突いているとお思いか! 陛下にあのような……命を削る奇跡を二度と使わせぬと、我ら全員、魂に誓ったのです!」


「そうです!」


 第五将軍アンリ・フルールも、その美しい顔を激しい憤怒に歪めて叫んだ。


「陛下が泥にまみれ、死を覚悟して敵を釣るなど、我ら騎士の面目は丸潰れです。陛下を危険に晒して得た勝利など、我らには塵ほどの価値もございません! そんなものは勝利とは呼ばないのです!」


「ええい、もう我慢ならん!」


 巨漢ガストンにいたっては、鼻息を荒くして斧槍の柄を床に叩きつけた。石畳に火花が散る。


「陛下、あまりに無茶を仰るなら、このガストン、陛下をこの場で担ぎ上げて地下牢にでも閉じ込めておきますぞ! お父上、レオンハルト公! 何とか言ってやってください、この分からず屋の陛下に!」


 マリエールは驚き、言葉を失った。

 彼女の脳内にあったのは、被害を最小限に抑えるための「計算」だけだった。

 しかし、目の前の男たちが求めているのは効率ではなく、主君の安寧だったのだ。


 先王アルベールは、胸を締め付けられるような想いで、愛娘の震える肩に大きな手を置いた。


「……マリエール。お前を助けたいと願う民や兵の心は、お前一人の奇跡によって買い取ったものではない。お前の背中を守りたいと願う、彼ら自身の『誇り』なのだ。父として、そして一人の聖女を敬愛する者として頼む。……もう、自分を駒のように扱うのはやめなさい。お前が傷つくことは、我ら全員の敗北なのだから」


 レオンハルトもまた、マリエールの右手を、壊れ物を扱うように強く、しかし優しく包み込んだ。


「お前の右手には、確かに神剣がある。だが、俺たちの胸にはお前への忠義がある。……神剣は、最後の最後、俺たちが無様に力及ばなかった時のために、どうかしまっておいてくれ。頼む、マリエール。俺に、夫としての仕事をさせてくれ」


 影の中から軍議を見守っていたエミリも、今日ばかりは厳しい表情で、マリエールと目が合うとじっと見つめ、小さく首を振った。

 「貴女は一人で背負いすぎだ」と、その瞳が語っていた。


 軍議の中、二人の男が音もなく跪いた。

 聖女騎士団第一隊長リュカと、灰色の狼カイル。


「……陛下」


 リュカが白銀の髪を揺らし、いつも以上に毅然とした、しかし熱を帯びた口調で告げた。


「陛下が囮にならずとも、このベルナールが死力を尽くして敵を誘い込みましょう。陛下は……どうか、その鎧を汚すことなく、丘の上で勝利を待っていてください。それが、我ら聖女騎士団全員の、唯一にして絶対の願いなのです」


 続いて、リュカに似た銀髪の毛先を揺らし、カイルが地を這うような低い声で囁く。


「……私も、同じです。灰色の狼たちは、陛下が奇跡で命を削るような真似はさせない。私がハルガルドの喉元を食い破り、奴らの目をすべて潰してきます。陛下は、ただ生きて、笑っていればいい」


 元盗賊のカイル。

 彼は洗練された騎士のような言葉は持たない。 

 だが、その無骨な言葉は、彼が抱く峻烈な、純粋すぎるほどの忠誠心の結晶だった。


 マリエールの胸の奥が、熱いもので満たされていく。

 前世の孤独。

 誰にも頼れず、ただ独りで神の力と言いながら、泥臭い戦術を繰り返してボロボロになって倒れていた自分。

 『放蕩と贅沢に溺れた偽聖女』に自発的な援軍などなかった。

 あの時の絶望を、目の前の「煩わしいほどに温かく、強固な絆」が次々と塗り替えていく。


(……ああ。私は、一人で戦わなくていいのね)


 マリエールは、少しだけ視界を潤ませ、小さく、しかし確かな意志を込めて頭を下げた。


「……分かりました。みんな、ごめんなさい。……そして、ありがとう。私は、なんて幸せな女王なのでしょう」


 マリエールが顔を上げると、将軍たちは一転して、子供のように照れ臭そうに笑い、あるいは安堵の溜息をついて顔を見合わせた。


「……さあ、始めましょう。私の剣を使わせる暇もないほどに、あなたたちの強さを見せてちょうだい」


「「「はっ!!」」」


 夜明けの光が、窓から差し込む。

 それは、女王の銀の鎧と、彼女を取り囲む忠誠の騎士たちを等しく照らし、不敗の軍勢としての影を長く、力強く石畳に落とした。

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