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第64話 王が空気を読む必要などない

 マリエールが提示した国家構想と軍事戦略、そして信仰と経済を統合する壮大な構想。

 それは、この場にいる国の重鎮の誰もが、その慧眼に驚愕し、平伏するに値するものであった。

 しかし、それらは決して、天から一方的に与えられた啓示などという、都合の良い贈り物ではない。

 かつてマリエールが、前世の終焉において火刑に処される直前――度重なる非道な暴行と凄惨な拷問に耐え、底知れぬ後悔の泥濘に沈みながら、

「もし、やり直せるのなら」と、極寒の独房で自らの血と命を削って紡ぎ出した、絶望の結晶であった。


 その圧倒的な覇道を前に、居並ぶ重鎮たちが魂を震わせて平伏した後、会議は現実的な新時代への手続きへと移っていった。

 

 そんな中、アルベール先王は深く頷くと、重々しい所作で一枚の古びた羊皮紙を円卓の上に広げた。


「決まりだ。一週間後、この聖都アルシエルの大聖堂にて、マリエールの戴冠式を執り行う。ハルガルド帝国の残照を払い、真の『アルシエル王国』の誕生を全世界に告げるのだ」


 先王の宣言は重く、室内の空気を引き締めた。 

 彼は慈愛に満ちた、しかし逃げ場を許さぬ鋭い眼光を、改めてマリエールへと向けた。


「女王よ。お前はこれから、たった一人で国という名の巨人を背負うことになる。……だが、王座とはあまりに孤独な場所だ。お前を公私ともに支え、その重圧を分かち合う『伴侶』の必要性については、どう考えている?」


 その問いが投げかけられた瞬間、会議室に奇妙な、それでいて耐えがたいほどの緊張が走った。

 第一将軍レオンハルトは、無意識のうちに胸元の『ウリエルのお守り』を握りしめ、視線を不自然なほど地図に固定した。

 豪傑ガストンは息を止め、祈るような心地でマリエールの唇を見つめる。

 文官たちでさえ、ペンを走らせる手を止めて固唾を呑んだ。


 それまで完璧な統治者として、一分の隙もなく振る舞っていたマリエールの表情が劇的に崩れた。

 白磁のようだった頬が、見る間に熟した林檎のような朱に染まっていく。

 彼女は戸惑ったように視線を泳がせ、組んだ指先をぎゅっと握りしめて震わせた。


「そ、それは……その……つまり、私は……」


 十五歳の、年相応な少女としての反応。

 あまりの羞恥に、マリエールは俯き、消え入りそうな声で呟いた。


「……無理をすることはない。結婚せずとも、しかるべき補助者としてレオンハルトをつけるから安心しろ」


 ここで、恐ろしいほどに「空気を読まない」アルベール先王が追い打ちをかけた。

 彼はマリエールの乙女心などお構いなしに、淡々と実務的な解決策を提示し続ける。


「……様を、お慕い申し上げています……私と……ずっと……」


 マリエールの絞り出した名前の部分は、あまりに微かで、窓から吹き込んだ風に溶けるように消えてしまった。

 しかし、老練なアルベールはそれを見逃さない。彼は身を乗り出し、獲物を追い詰める鷹のように問い詰めた。


「マリエール、今、なんと申した? 聞こえんな。これから王となる者が、己の願いを曖昧にしてどうする。国を導く言葉に迷いがあってはならんぞ。……まあ、別に無理をして今決めずとも、レオンハルトに女王補佐官を命じ、終生お前の実務を支えさせるつもりだ。それで万事解決だろう」


 先王に空気を読む気など、微塵もなかった。

 だが、その一言がマリエールに火をつけた。

 このままではレオンハルトは永久に「女王補佐官」という事務的な職責に縛られ、公私混同を許さぬ彼の性格上、男女の仲など二度と進展しなくなる――。

 そう悟ったマリエールの本能が、羞恥心を一気に飛び越えた。


 彼女は弾かれたように顔を上げた。

 顔面を真っ赤に沸騰させたまま、会議室の石壁を震わせるほどの叫びを放った。


「レオンハルト様です! レオンハルト様を、お慕い申し上げておりますッ!!」


 一瞬、世界の時間が止まった。


 広大な会議室の空気が完全に凍りつき、名前を呼ばれたレオンハルトは、椅子に座ったまま彫像のように硬直した。

 彼の顔は、瞬時にマリエールに負けないほどの猛烈な赤色に染まり、首筋まで血管が浮き出ている。


「お、おい……今の……」

 ガストンや他の将軍たちは、驚愕のあまり椅子から転げ落ちそうになり、口を金魚のように開閉させた。


 マリエールは叫び終えるなり、頭から湯気が出そうなほど顔を火照らせて、バッと背中を向けた。


「……っ、もう、知りません! 陛下が無理に仰らせたんですからね! あぁん!もう!」


 そう言い捨てると、マリエールは隣で驚きつつも微笑んでいたエミリの手を強く引き、ドレスの裾を激しく翻して、逃げるように会議室を後にした。

 

 パタン、と重厚な扉が閉まる直前。

 エミリだけがくるりと振り返った。彼女は呆然と立ち尽くすレオンハルトと、先王に向かって、いたずらっぽく手を振った。

 そして、慈愛に満ちた鮮やかなウィンクを残して消えていった。


 静まり返った会議室で、数分もの沈黙の後、ようやくガストンが隣のレオンハルトの肩を、肉がちぎれんばかりの勢いで激しく叩いた。


「おい、レオン! 聞いたか!? マリエール様が、いや我が国の女王陛下が、今、ハッキリとお前の名前を、しかもあんな大声で……! この野郎……!」


「……黙れ。今、考えをまとめている……」


 レオンハルトは震える両手で顔を覆い隠したが、その指の間から覗く耳の先までが、隠しようもなく真っ赤に染まっていた。

 この国家において、武勇最強の男のみが戴くことを許される「第一将軍」という峻厳な地位。

 その地位に君臨し、鉄壁の意志を誇るはずの男が、今やただ一人の少女の言葉によって、初々しい熱を孕んだ青年にまで解体されていた。

 

 王宮の窓から見える聖都の空が、ゆっくりと白み始めた。

 それはかつての「絶望の火」ではなく、愛と希望、そして「幸せの光」が支配するはずの、新しいアルシエル王国の夜明けであった。

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