刺客
ワルフォガルに入ったレーネットはナルファスト公オフギースの死を公表し、仮葬儀を執り行った。葬儀の喪主を務めることで内外に公位継承者として認知させることにも成功した。
だがレーネットの心は暗く重く沈んでいる。
ワルフォガルに入るとネルドリエンに迎えられ、スハロートが退去したと告げられた。それに続くネルドリエンの報告は、レーネットを打ちのめした。
「サインフェック副伯はロンセーク伯とフォルゴッソがナルファスト公の死に関与していると最後まで信じておりました。それどころかロンセーク伯の公位継承権を否定し、自ら公位を継承する体制を整えるためにワルフォガルから逃亡したのです」
ネルドリエンの話を聞いたプテロイルは当然ながら激高した。
「やはりサインフェック副伯は公位を狙っていたのか。サインフェック副伯を討伐すべきである」
ネルドリエンはプテロイルの主張に大きく同調し、さらに煽った。レーネット派は反スハロート一色に染まりつつあった。
レーネットにも、レーネット派の反スハロート感情を抑えるのが困難になっていた。レーネット自身、スハロートに裏切られたという思いがあり、腹の底にどす黒いものがうごめいていた。なぜ対話を避けて逃げ出したのか、そんなに私のことが信じられないのかという無念さを拭い去れなかった。
机の上にうず高く積まれた報告書を前に、レーネットは深く重いため息をついた。日没はとうに過ぎ、深夜と言える時間帯である。
「サインフェック副伯に逆心あり。公位を簒奪せんとする逆賊を討て」――ネルドリエンらが公国各地に送った檄文の控えだ。
これに対抗するように、スハロート領のプルヴェントからもレーネットを「父殺し」と糾弾する檄文がまき散らされた。
当初、この問題はすぐに沈静化するとレーネットは考えていた。スハロートが領地に立てこもっても、オフギースの長子たるレーネットの勢力が圧倒してスハロートは降伏を余儀なくされるだろう。多少の行き違いはあったとはいえ血を分けた兄弟だ。改めて絆を確認し合って元通りになる。
そうなるはずだ。
レーネットにはまだ怒りの感情が残っていたが、スハロートと直接話せば水に流せると思った。
そうなるはずだった。
レーネットがワルフォガルに帰還し、スハロートがワルフォガルから退去して一カ月以上が経過した。
スハロートは想像以上に勢力を確立して、レーネットと拮抗するまでになっている。短期間に無血で降伏させるという目論見は外れ、ナルファスト公国は二つに割れてしまった。期待していた領主が何人もスハロートについた。
この体たらくで公国を治められるのか。こうして忸怩たる思いに鬱々として有効な手を打つこともできない自分は何とふがいないことか。
父であれば覇気に満ちた檄文を送って公国全土に号令し、全領主と領民の忠誠を確かなものにすることだろう。
父には学びたいことがまだまだあった。もっと学べると思っていた。そしていつかあの広い背中に追い付き、「父を超えて見せましたぞ」と父に宣言するつもりだった。きっと父は破顔して、一言「でかした」と言ってくれただろう。父の右腕となって統治の実を挙げてきたつもりだったが、しょせんは父が背後にいることによって「働けていた」だけだったと思い知らされる。
スハロートは今何を思っているのか。なぜ背いたのか。そんなに公位が欲しかったのか。今となっては、弟と争ってまで手に入れる価値が公位にあるのか疑問だった。スハロートが望むなら譲っても構わないと思い始めた。
だが、自分を支持してくれている者たちの処遇が気に掛かる。彼らの未来を安堵せずに自分だけこの問題から降りるわけにはいかない。
スハロート派の重鎮であったフォルゴッソを仲介役に立てて何度も使者を送っているが、スハロートからの返書は一切ない。本当にスハロートの手に届いているのか。だがこの疑問を確かめるすべはない。
レーネットは拳を机にたたきつけた。
レーネットは、スハロートが生まれたときのことを思い出した。弟ができたことが嬉しくてたまらなかった。小さくてぐにゃぐにゃしていて、とても愛らしかった。一日中眺めていても飽きなかった。「あにうえ、あにうえ」と言いながらヨチヨチと近づいてくるスハロートの、何と愛おしかったことか。
ウリセファやリルフェットが生まれたときにはレーネットも大きくなり、世話も少し上手にできるようになった。どんどん口が達者になり、生意気になるウリセファ。いまでもおっとりしていて天使のようなリルフェット。みんなで城内を探検したり、野原を駆け回ったり、川遊びをしたりした。
実の母の記憶がほとんどないレーネットにとって、母ができたことも喜びだった。父の再婚を知ったとき、周りの大人たちに「もうすぐははうえができるのだ。いいだろう」と言って回っていたらしい。幼い頃のことなのでそんなことをした記憶はないのだが、嬉しかったことははっきり覚えている。
新しい母であるリンブルン公女アトストフェイエは、とても美しかった。初めて会ったときは、恥ずかしくて挨拶もろくにできなかった。
アトストフェイエは、先妻の子であるレーネットを実に大切にしてくれた。スハロートたちが生まれた後も実の子のように慈しみ、時に厳しく叱った。母としての愛情を十分過ぎるほど与えてくれたと感謝している。
アトストフェイエの輿入れから弟や妹の誕生まで全て、思い出すだけで胸の奥がぎゅっと苦しくなるような大切な宝物だった。何と素晴らしい時間を与えてもらったことか。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。手のひらに爪が食い込むほど拳を握り締めた。
「まだお休みにならないのですか、レーネット様」
その静かな声によって、レーネットは現実に引き戻された。幼い頃から共にあったプテロイルであった。
「自分のふがいなさを思うとなかなか寝付けぬ。こういうところも私の弱さだ、アルサース」
レーネットは苦笑しながら振り向いた。レーネットが弱音を漏らすことはまずない。漏らすとすればこの世でただ二人。遠く離れてしまったスハロートと、今ここで心配そうにレーネットを見ている同年のプテロイルだ。
「サインフェック副伯のことをお考えでしたか」
「幼い頃のことを思い出していた。アルサースとも遊んだな」
「釣りに連れて行っていただいたりしました」
「スハロートが大物を釣り上げたな。ウリセファは気味悪がって泣いていたが」
「レーネット様は一匹も釣れなくて不機嫌におなりになって」
「そうだったかな」
アルサースはつまらないことを覚えている。苦笑いするしかない。
そのとき、扉を遠慮がちにたたく音がした。
「フォルゴッソでございます。もうお休みでしたら明朝に出直してまいります」
「いや構わない。入ってくれ」
フォルゴッソがやや緊張した面持ちでレーネットの私室に入ってきた。フォルゴッソは、プテロイルがいることに気付いてわずかに眉をひそめた。
まだ深夜というほどではないが、フォルゴッソがこんな時間に面会を求めてくるのは珍しい。プテロイルは、「不調法者め」という顔でフォルゴッソをにらむ。
「火急の用事か?」
「それほどではないのですが、テプロイ卿から書状が届きましたのでお持ちしました」
「分かった。今すぐ読む」
レーネットはフォルゴッソから書状を受け取ると、蝋燭を引き寄せて目を通し始めた。
そのとき、音もなく侵入してきた黒い影がレーネットに迫った。虚を突かれて三人とも一瞬動きが固まった。その隙に影はレーネットとの距離をさらに詰める。
きらりと鋭い光がよぎった。影は短剣を持っている。だが、レーネットもプテロイルもフォルゴッソも武装していない。
出遅れた。
それでも体は反射的に動いた。
レーネットは体をよじって態勢を整えた。
鋭く突き出された短剣を最小限の動きで回避し、逆に距離を詰めて相手の腕につかみかかる。
侵入者は半歩下がってレーネットの反撃をかわし、短剣をわずかに振りかぶった。狭い室内での接近戦に慣れている。大振りして逆に隙を作る愚を犯さない。
戦場の武勇ではない。これは、暗殺者の動きだ。
侵入者の腕を取り損なったレーネットは逆に体勢が崩れる。侵入者はその隙を的確に捉えたが、横から飛び出してきたプテロイルの肩に阻まれて短剣はレーネットに届かなかった。
二撃目も不発に終わったことを悟った侵入者は、後ろに大きく飛び退き、体をレーネットたちに向けたままさらに後退して扉から出て行った。引き際を心得ている。
「アルサース、大丈夫か!」
「深手ではありません。お気遣いはご無用」
レーネットをかばった際に左肩を負傷したようだ。出血はしているが、プテロイルが言う通り傷はそれほど深くなさそうだ。
「スハロートめ、刺客まで放ってくるとは。そんなに俺が憎いか。そこまでするのか!」
自分を殺そうと思った者がいる、という事実にレーネットは愕然とした。恐怖はないが、ただ悲しかった。背かれた今でもスハロートを憎いと思ったことはなかったし、殺したいとも思わなかった。だがスハロートはそうではなかった。
完全に硬直していたフォルゴッソが、ようやく口を動かした。
「お、お待ちください。まだサインフェック副伯の刺客と決まったわけではございませぬ」
「サインフェック副伯以外の誰がレーネット様のお命を狙うというのか!」
「サインフェック副伯におもねる領主の軽挙妄動という線もございます」
「レーネット様に万一のことがあってからでは遅いのだ。私は貴公のようにレーネット様が襲われる様を何もせずに眺めているわけにはいかないのでな」
「もういい。スハロートか否かは些事に過ぎぬ。とにかく俺に死んでほしいと願う者がいるということだ」
レーネットの目が絶望に満ちていた。プテロイルが何か言おうとしたが声になる前にレーネットに遮られた。
「今夜はもう疲れた。二人とも下がってくれ」
「恐れながら最後に一つだけ」と、フォルゴッソは沈痛な面持ちで口を開いた。
「刺客はどうやってここまで侵入できたのでございましょうか」
フォルゴッソはそう言い残し、静かに一礼すると意味ありげな視線をプテロイルに向けてから、音もなく退室した。その背中をプテロイルが凄まじい形相で睨み付けていることに、絶望に沈むレーネットは気付かなかった。




