溝
オルドナ方面軍はファッテン伯領を目指した。ヌヴァロークノ軍と戦い続けたために兵力の損耗が甚だしく、セルケー平原で足止めされて食料も尽きかけている。
そのような状態で、「前方から一万数千の軍勢がこちらに向かっている」という報告が斥候から上がってきた。
「やや! それは弱ったな」
ウィンはわははと笑った。自軍はとても戦える状態ではない。
「接近中の軍勢は、カーリルン公軍!」
「カーリルン公軍だって!?」
ウィンが仰天してレンテレテスを見ると、彼も困惑して首をかしげていた。
「まさかリフィが出てきたんじゃないだろうね」
ウィンのつぶやきにレンテレテスはぎょっとした。
「まさか……そのようなことは……」
とは言ったものの、レンテレテスはだんだん不安になってきた。あの公爵ならやりかねない。
ウィンとレンテレテスは顔を見合わせて唾を飲み込んだ。
やがて両軍は、互いの顔が視認できる距離まで接近した。
ニレロティスとラゲルスが馬を並べて近づいてくる。
そして合流した――。
ベルウェンは、苦笑しながらラゲルスの頭を殴った。
「遅せえじゃねぇか」
「あの地吹雪の中を進めってか? さすがにそれは勘弁だぜ」
ウィンとレンテレテスはニレロティスと向き合った。
「ニレロティス卿、これは一体……」
「カーリルン公のご命令だ。戦況芳しからず。ラフェルス伯に合流せよ、と。途中でラゲルスと偶然出会った。目的地は同じだから同道してまいった」
こうして、カーリルン公軍騎兵一〇〇〇と歩兵一万、ラゲルスが新たに集めてきた傭兵四〇〇〇がウィンの指揮下に入った。
この喜ばしい展開を、複雑な思いで見つめる男がいた。
フォロブロンである。
ウィンはこれで騎兵一八〇〇、歩兵一万九〇〇〇の兵力を持つに至った。一方のフォロブロンは、騎兵一〇〇〇、歩兵四〇〇〇。オルドナ方面軍の中で相対的に勢力が弱まった。
副伯に過ぎない身では、兵力を増強するのは限界がある。一方のウィンは伯爵と公爵の連合体であり、動員力ははるかに高い。改めて格の違いを見せつけられた。
別に、領地が欲しいわけでもより高い爵位が欲しいわけでもない。だが、同格だと思っていた相手が格上なのだと思い知らされたことに衝撃を受けた。
問題は、しかし、そこではない。
フォロブロンは、やり場のない感情が胸に沸き起こっていることに気付いた。
この感情は何か。
初めて抱く感情の正体を理解したとき、自分の心の醜さに耐えられなくなった。
だが、一度生まれてしまったどす黒い汚物は、確かに胸の中にあった。どんなに否定しても、消えはしない。
「副伯、いかがなさいましたか」
家臣のウレスペイルがフォロブロンを心配そうに見つめている。かなり長い間ぼんやりしていたらしい。
「ウレスペイル、何か」
「いえ……何やら怖いお顔をなさっておいでだったので」
「ん、ああ……いや、今後の方針について考えていただけだ」
「左様で」
ウレスペイルはフォロブロンから少し離れると、そっと嘆息した。
――昔から、副伯は人に弱みを見せるのが苦手であらせられた。良き君主たらんとする姿勢はお見事だが、理想が高ければ高いほど、現実との乖離に苦しむことになる。
副伯はごまかせたとお思いのようだが、副伯を幼少期から見ている私はごまかせない。
副伯が顔に浮かべていたのは「憎悪」だった。恐らく、副伯は生まれて初めて他者に嫉妬し、怒り、憎むという感情を覚えたのだ。ほとんどの人間は既に知っていて、向き合い方を学んでいる感情に、初めて直面したのだ。
「大変よろしくない状態だ」
フォロブロンの父であるマテルボルン伯の家臣、ヴァル・カッドエイル・ソルターニエの口癖が漏れた。
カッドエイルならこんなとき、きっと同じことを言うだろう。




