流転
皇帝宮殿の一角で、一人の貴族が興奮した様子で語っていた。
「あれはティルメイン副伯だった。間違いない!」
ズトレーニアは帝都詰めのナルファスト公国貴族で、ナルファスト継承戦争前はリルフェットに近侍していた。今となっては数少ない、リルフェットの顔をよく知る人物の一人である。彼は、ナルファストを巡る一連の混乱の中で主を守り切れなかったことを悔やみ続けていた。
彼は、娼館街でティルメイン副伯が走り抜けるのを見たと主張した。
彼の力説を聞かされていたもう一人のナルファスト公国貴族ケレストレセスはというと、ズトレーニアが悔やみ続けていたことを知るだけに、他人の空似だと思った。
ナルファストで消息を絶ったティルメイン副伯が、帝都の娼館街で娼婦を拉致していた? どこでどうなったらそうなるのか。
自分に絡むだけならよいが、こんな与太話がナルファスト公の耳に入ったら大変である。とにかく、他人に聞かれないうちにズトレーニアの興奮を収めなければならない。
ケレストレセスはひたすらストレーニアをなだめた。
その会話が、ある宮内伯の家臣の聴覚を刺激した。宮殿内でささやかれる噂話の収集も任務のうちである。誰かが話しているとみるや、忍び寄って盗み聞きする習性がある。
その内容は驚くべきものだった。彼の主人に関係することだったからである。
彼は、盗み聞きした話を主人に急いで注進した。
「馬鹿な。予備は始末したではないか」
「しかし、目撃者はティルメイン副伯の近侍だった男。真偽はともかく騒がれると面倒かと」
「二人を内密にお招きして、例のものでもてなせ」
この後、帝都詰めの二人の貴族が失踪したことがナルファスト公国で問題になったが、手掛かりもなく、やがて忘れ去られた。
「差し当たって目撃者は処理致しました」
「もうその話は捨て置けばよいのではないか」
「しかし、本当に生きていたとすると災いの種になる」
「ナルファストの小僧一人、生きていたところで何もできまい」
「いや、一連の真相をあの下賎の者が知っていることが問題ではないか」
「おお……」
「小僧が生きていたら、何よりの証拠になってしまう」
「この際、あの男もろとも完全に始末すべきであろうな」
◆
ダゼゾボは、違和感を覚えて目を覚ました。
人が興奮したときに発する匂いがする。戦いの前の匂いだ。
金属がぶつかり合う音がする。甲冑の音だ。
彼はフェットを起こした。
フェットには、この匂いが分からない。
「何だ」
「囲まれた。七、八人は居る。敵だ」
「何?」
「勝ち目がねぇ。逃げるぞ」
「十人くらい、どってことねぇだろ」
「奇襲できればな。兵士相手に真っ向勝負は無理だ。勝てねぇよ」
裏の方には気配がない。
だが罠かもしれない。
しかし、表からは絶対逃げられない。
裏から逃げるしかない。
フェットが窓に取り付いたのと同時に、表の扉が蹴破られた。貧民街の掘っ立て小屋の扉だ。防御力などないに等しい。
完全武装の騎士たちが一気に攻め込んできた。
「さっさと出やがれ」
ダゼゾボはフェットを窓の外に蹴り出して、自分も後に続いた。案の定、裏にも二人の騎士が回っていた。路地の左右から迫ってくる。
ダゼゾボは右の騎士に向かって走った。
一瞬で距離を詰める。
騎士の懐に入り、脇の下に短剣を突き入れた。
ここは甲冑が覆っていない場所の一つだ。
これで腕を一本潰した。
騎士が悲鳴を上げた。
騎士がかがんだ隙に、首にも短剣を突き刺す。
「フェット! こっちだ」
二人は、騎士の死体をまたいで逃げた。その後をもう一人の騎士が追う。
「てめえ、何か目立つことしたのか」
「いや……」
娼館を襲撃したことを思い出したが、言いそびれた。
「何で騎士に襲われるんだよ」
「お前を始末しに来たんだろうよ」
「なぜ!?」
「お前はナルファスト公の子だからだ」
ダゼゾボの言葉に、フェットは言葉を失った。
「本当なら、お前がナルファスト公になるはずだった」
「……」
「だが、セレイスという監察使が余計なことをしたせいでお前は殺されることになった」
「ならなぜ俺は生きてる」
「さあな」
会話はそこまでだった。
目の前に二人の騎士が現れた。
「俺が殺ってやる!」
フェットが騎士に突っ込む。
いつものように、距離を詰めて自分の間合いに入ろうとした。
騎士が持つ剣では小回りが利かない。
だが、騎士は足を前に突き出してフェットの顔面を靴底で蹴った。
後ろにはじき飛ばされたフェットを、もう一人の騎士が斬り付ける。
ダゼゾボが短剣で受けた。
だが、上段から振り下ろされた剣を短剣で、しかも左手一本で受け止めることはできなかった。
短剣ははじき飛ばされ、耳障りな音を立てて路地にたたきつけられる。
騎士が剣の柄をダゼゾボの顔面にたたき込む。
ダゼゾボは吹き飛んだ。
フェットは混乱していた。
殺そうと思えば誰でも殺せると思っていた。
だが、全く歯が立たない。
右腕が使えないとはいえ、ダゼゾボまでやられた。
立ち上がりながら、「暗殺者なんてこんなもんよ」とダゼゾボは言った。
「相手の隙を衝けなければ終わりよ。完全に戦闘体制に入っている騎士には敵わねぇ」
それでも、ダゼゾボは傭兵として自分と同格あるいはそれ以上の敵とも正面から戦った経験がある。
だがフェットは違う。
ダゼゾボと暗殺仕事をしたことはあるが、騎士や兵士と正面切って戦ったことはない。
貧民街では無敵だったようだが、しょせんは素人相手のお山の大将に過ぎない。
ダゼゾボには分かっている。
奇襲で動揺させる。
剣を自由に振るえない室内。
こういった条件下でのみ、互角以上の戦いができる。
真っ向勝負では勝てないのだ。
ダゼゾボが暗殺者としてこれまで生き延びてきたのは、自分が有利な状況の中で仕掛けたからだ。
だが、貧民街でならば多少の抵抗はできる。
負傷してうずくまったふりをして、落ちていた糞を拾って騎士に投げ付けた。
糞は騎士の面に当たって、面の中に悪臭をぶちまけた。目にも入ったかもしれない。
その隙に横に飛び、取り落とした短剣を拾った。
もう一人の騎士は、ダゼゾボの隙のない構えを見て慎重に間合いを詰めてくる。
「フェット、逃げろ」
「だが」
「生き延びろ。こいつらはお前が生きている限り安心できねぇ。生きてるだけで嫌がらせになる」
「……」
「早く行け!」
同時に、騎士がダゼゾボに斬りかかった。フェットに話しかけていたために隙ができた。
避けられない。
短剣で受ける。
剣の勢いを殺すことはできなかった。
左手は折れ曲がり、剣が頭に当たった。
頭蓋骨が割られ、切っ先が顔面を切り裂いた。
「俺は……何やってるんだ」
ダゼゾボは、自分が「らしくない」ことをやっていることにいまさら気付いた。
フェットを囮にすれば、自分だけは逃げられたはずだ。なぜフェットを逃がしているのか。自分の行動が信じられなかった。
ふと、先ほど胸がムズムズした感触を思い出した。
あれは……。
身長が伸びたフェットを見て、「大きくなったな」と思ったのだ。
フェットの成長が嬉しかったのだ。
「なるほど」
それがダゼゾボの最後の思考だった。
◆
フェットは逃げた。
何が何だか分からない。
圧倒的な力を見せつけられた絶望と恐怖。
分からないという怒り。
ダゼゾボを含む大人たちの勝手な理屈。
自分が今、何を感じているのか全く分からない。
だが。
「セレイスという監察使が」
このやり場のない感情の行き先だ。
とにかく力だ。あの騎士どもと戦える力がなければならない。
そして、
「セレイスを殺す」




