傀儡
ウリセファとの出会いの五日後、エルエンゾは娼館街に向かった。「あの夜」の支払いをしなければならない。皇帝を救うことができたことへの礼も言わねば。それに――要は、あの娼婦の肢体が忘れられなかったのだ。
娼館街に来たものの、目的の店を見つけることができない。あの日は動揺していたし、帰りは頭が奇妙な感覚に包まれていて夢見心地だった。考えてみれば店の名前すら覚えていない。
途方に暮れていると、あのときの痩せた小男が突然現れた。
「若様、おなりをお待ちしとりやした。さ、こちらで」
なぜ来ることを知っていたのか全く見当も付かないが、彼の案内で目的の店にたどり着けた。
「旦那様、またお会いできてうれしゅうございます」
ウリセファが、妖艶な笑みを浮かべて近づいてきた。
「その旦那様というのはやめてくれ。エルエンゾだ」
「ではエルエンゾ様、こちらへ」
ウリセファに手を取られ、エルエンゾは寝台の縁に座らされた。部屋は既に形容し難い香りに満たされている。何やら頭がぼんやりして、気持ちが安らいだ。ウリセファに勧められたぶどう酒は、不思議な味がするが、飲むごとに気分が高揚してくる。
ウリセファはエルエンゾの隣に座ると、彼の体に舌を這わせた……。
◆
ウリセファの汗ばんだ裸身を抱き寄せると、エルエンゾはぼんやりとした頭で語り出した。まだ少し息が上がっている。
「陛下は確かに、私に感謝してくださった。だが、まだ先帝を弑し奉ったことを悔やみ、苦しんでいらっしゃる。もっと心を軽くして差し上げたいのだ」
エルエンゾの心と体は、ウリセファに依存し始めている。だが彼はそのことを自覚していない。
「先帝を弑したことはもはや取り返しのつかぬこと。であれば、それを上回る功績で上塗りするしかありませぬ」
「功績?」
「例えば今、帝国に問題は発生しておりませぬか? それを解決し、自分にしかなしえぬことだと思えれば御心も満たされましょう」
「そう、帝国は侵略を受けている。ナインバッフ公にお任せしているが、簡単には片付きそうもない」
またも、帝国の秘事を娼婦に無自覚に垂れ流していた。
無論、ウリセファは他の客からヌヴァロークノの侵略の件を聞き出している。知っていて、あえてエルエンゾにしゃべらせたのだ。
「ナインバッフ公と共に侵略を撃退する。皇帝にしかできぬ壮挙ではありませぬか」
「なるほど。しかし軍事面はアレス副伯の管轄であるしな……」
アレス副伯? 聞き覚えのある爵位だが、どこで聞いたのだったか。ウリセファは思い出すことができなかった。
「では、アレス副伯を出陣させてはいかがでしょう。軍事を統括なさっているなら、不自然ではありますまい。皇帝軍による解決という目的も達せましょう」
「うむ」
「そして、アレス副伯が居なくなれば皇帝はエルエンゾ様が独り占め……」
ウリセファの助言には幾つか穴があるのだが、酒と薬物にまみれ、美女の肢体に溺れて思考力が低下したエルエンゾには、この上ない名案に思えた。
エルエンゾは気付かなかったが、ウリセファはこのときわずかに身構えた。彼女にとってはここからが本題なのである。彼女は裸身をエルエンゾに擦り付けるように密着させた。
「そういえば、先帝には庶子がいらっしゃるとか」
「そんなこと、よく知っているな」
「このお店には他の宮内伯様もいらっしゃいますので」
ウリセファは、他の客の存在をあえてちらつかせた。エルエンゾがこれにどう反応するかは賭けだ。
エルエンゾは顔全体が熱くなるのを感じた。そう、ここは娼館。他にも客が来る。エルエンゾが居ないときは、この美しい肢体を他の宮内伯が……。
想像するだけで、これまでに味わったことのない怒りと嫌悪感を覚えた。
それだけではない。大したことも知らぬ宮内伯どもが、訳知り顔で彼女に語っていると思うと片腹痛い。
皇帝の側近たる侍従には遠く及ばない、「下っ端」の分際で!
「ふん、『下級の』宮内伯に何を吹き込まれたのか知らぬが、やつらが知っていることなどたかが知れている」
ウリセファは甘えるようにエルエンゾの胸に顔を埋めて顔を隠し、笑い出さないように必死に堪えた。
賭けに勝った。
この世間知らずの小僧は、ウリセファの意のままに誘導されている。怒らせた後は、その空虚な自尊心をくすぐるだけだ。
「皇帝と秘密を共有するエルエンゾ様なら、詳しくご存じなのでしょう?」
「当然だ」
「その庶子も出陣させるのがよろしいかと」
「何?」
「皇帝の誉れを高めるには、ティーレントゥム家も戦に出陣すべきでしょう。しかし親征はやり過ぎというもの」
「負けたらどうする」
「よろしいではありませんか。たかが庶子、ティーレントゥム家にとって痛くも痒くもありませぬ。聞けば庶子は皇帝よりも歳上とか。潜在的な競争相手を排除する口実にもなりましょう」
「恐ろしい女だな。だが一理ある。しかし、勝ってしまったら不都合ではないか」
「勝ったら、お褒めになればよろしいのです。ティーレントゥム家による勝利なのですから」
「それで庶子が増長するかもしれぬ」
「そのときは、処分すればよいだけのこと。口実などいかようにもできましょう?」
「なるほど、勝って負けても好都合か」と言って、エルエンゾは笑った。
「好都合なのはお前の足りない頭よ」と、ウリセファは心の中で嘲笑った。
◆
心身共に満足したエルエンゾが帰路に就く姿を娼館の窓から見下ろしながら、ウリセファも満足感にひたっていた。
監察使に復讐する手段を求めて帝都に来たものの、それ以降については無計画だった。
貴族向けの娼館ではあったが、やって来るのは取るに足らない下級貴族や宮内伯のみ。本当に権力を持つ貴族は、より格の高い娼館から娼婦を呼び寄せる。娼館街にやって来たりはしないということに、ウリセファは後になってから気付いた。
焦る気持ちを抑え、「今はまだ情報収集の時」と思い直して遠回しに監察使について探りを入れると、それなりに話は集まった。
それは、ウリセファの心をいたく傷つけることになった。
ナルファストについては、スハロートが死に、レーネットがナルファスト公を継承したという。リルフェットは死んだと見なされているらしい。アルテヴァーク王国が侵攻してきた際、あの監察使はナルファスト防衛に寄与したという。
だがそんなことはもはやどうでもいいことだ。
この、もはや取り返しが付かないほどに汚れてしまった自分はどうなる。
死んだあの人はどうなる。
どうにもならない。
どうしようもない。
何もかも取り戻せない。
あの監察使はその後、何とカーリルン公と結婚し、伯爵になり、子供まで儲けたというではないか。
なぜあの男だけ幸せになっているのか。
なぜ私にないものを全て手に入れているのか。
愛する人を殺され、身体と心を汚された自分があまりにも惨めではないか。
新たな憎悪が沸き起こり、毎晩泣いて過ごした。
とうの昔に涙は枯れたと思っていたが、あの監察使の栄華を知って再び涙が湧き出るようになっていた。
憎むべき敵の栄達を聞かされながら、汚らわしい男たちに犯される日々にひたすら耐えた。
復讐の機会をひたすら待った。
下賎な男にも身体を与え、手下にして、娼館街の外にも網を広げて使える駒を集めた。
そして、ついに機会が巡ってきた。
絶好の手駒を手に入れた。
まだだ。
あの世間知らずの宮内伯をじっくり育てて、皇帝をもっと操れるようにしなければならない。
皇帝と宮内伯に成功体験を積ませるのだ。
実際には自分たちの努力に基づく功績なのだが、それを私の助言に従ったからだと錯覚させるのだ。
私の助言など何の役にも立っていないということを、悟られてはいけない。
当たり前だ。
自分は政治も軍事も分からない。
娼館に閉じ込められ、世の中のことも知らない。
公女時代に知った単語と表現を使ってそれらしいことを口走っているだけなのだ。
気品だけはあるから、それらしく聞こえるだけなのだ。
エルエンゾは、私の助言に基づいて皇帝に進言するだろう。だが、その過程でエルエンゾは説得力を高めるために自分の意見も織り交ぜる。知らず知らずに私の助言を正しい知識で補強するのだ。それを聞いた皇帝は、自分の見識に基づいて補強しつつ解釈する。こうして、私の助言は正しい知識に基づいた計画に昇華する。
監察使を出陣させるという計画は、勝っても負けても皇帝にとって得になるように条件設定されている。
つまり、どう転んでも成功するのだ。
私の助言に従えば、成功するのだ。
その段階を経てからが本番だ。
まずは、あの監察使の妻から壊してやる。
夫と子を得て幸せに暮らしている女に、私と同じ屈辱を、女として考えられる限りの地獄を、生きたままじっくり味わわせてやる。
私と同じように、汚してやる。
とことん汚してやる。
そして、その姿をあの監察使に見せつけるのだ――。




