淫蕩の女神
屋敷を飛び出したエルエンゾは、夜の帝都を走り続けた。目的地などない。ただ、父の無様な死体から遠ざかりたかった。
疲れ果てたエルエンゾは、辻に設けられた噴水で水を飲んだ。喉がカラカラだった。
水面に自分顔が映っていた。暗いが、月明かりで思いのほかはっきり見える。
顔に返り血が付いていた。「ひっ」と小さく悲鳴を上げると、顔を洗った。よく見ると、手も血だらけだった。恐慌を来して手を洗った。擦り続けた。父の汚らしい血が気持ち悪かった。
こんな姿を人に見とがめられたら騒ぎになってしまう。
「旦那、何かお困りで?」
突然声をかけられて、エルエンゾは再び悲鳴を上げた。びしょ濡れでおびえ続けるエルエンゾは、誰がどう見ても尋常ではない。
声をかけてきたのは、一五〇セルほどの身長の痩せた男だった。身なりは平民に見える。下卑た笑みを顔に貼り付けて、男はエルエンゾに近づいてきた。
「く、来るな!」
「まあ、そうおっしゃらず。悪いようにはしませんぜ」
男は、そう言いながらエルエンゾに近づき、両手を開いて顔の左右に掲げる。
さらに近づきながら、エルエンゾを観察した。
――身なりは上等。若くて世間ずれしていない。これは、「あの方」に上納する価値がありそうだ。
「旦那、いや若様。そのままじゃ風邪引きますぜ。行くあてがないなら、いいところをご紹介致しやす」
男は危害を加えるつもりはないらしい。エルエンゾは少し落ち着いて、自分の身なりを確認した。月明かりしかないから目立たないが、顔も服も濡れているし、返り血が残っているかもしれない。この状態で貴族の邸宅街には戻れない。
そもそもここがどこかも分からなかった。
「どこに行くというのか」
「例えるなら地上の楽園ですな。安全は保証しますぜ」
男について行くと、少し賑やかな街区に着いた。
「ここは……」
「いわゆる娼館街ってやつです」
男は賑やかな表通りを避けて裏道に入ると、裏口を開けた。「さ、若様こちらから」と言って、エルエンゾを誘う。
男はどこかに行ってしまった。
続いて少女が現れ、「ご案内します」と言ってエルエンゾの手を取った。
少女は、豪華な装飾が施された部屋にエルエンゾを案内すると、すっと姿を消した。
「旦那様、いらっしゃいませ」
奥から若い女の声がした。声のする方へと歩を進めると、ぞっとするほど美しい女が立っていた。皇帝宮殿でも、これほど美しい女性は見たことがない。
「あなたは……」
「ウリセファと申します。かわいがってくださいまし、旦那様」
女は、妖艶に笑った。
◆
ウリセファは、客を舐めるような目で観察した。男はこういう目つきで見られると喜ぶことを彼女は知っていた。
客の服は、汚れているが上質だ。胸に宮内伯の徽章を付けている。単なる貴族のお坊ちゃまではなく、任官された宮内伯なのだ。彼らは気位が高く、この徽章を見せびらかす者が多い。元公女の彼女から見れば、皇帝の使用人に過ぎないのだが。
客の顔や手、服の所々に血が付いている。髪の毛や服が濡れているのは、どこかで血を落とそうとしたのだろう。刃傷沙汰でも起こしたのか。ひどくおびえた目をしていることも、それを裏付けている。
金にものを言わせて女を買いに来たようには見えない。
「店の者に洗濯させましょう。まずはお召し物をお脱ぎになって」
彼女は、客の服を脱がせた。脱がせながら、客の首筋に息を吹きかける。客は、びくっと体を震わせると彼女から逃れるように後ろに下がった。
「どうかなさいまして?」
「わ、私はこのようなことをしに来たのでは……」
「では、お話を致しましょう」
ウリセファは、客を敷物に座らせてぶどう酒を勧めた。
エルエンゾは、勧められるがままに腰を下ろし、杯を受け取った。蝋燭の火に照らされたぶどう酒は何やらどろりとしており、血の色に見えた。
父の胸に突き刺さった短剣、両手にべっとりと付いた父の血を思い出して、エルエンゾは嘔吐した。
父殺しの恐怖がよみがえってきた。今頃屋敷は大騒ぎになっているはずだ。自分は父殺しの下手人として裁かれるだろう。エルエンゾは絶望した。
ウリセファは、ぶるぶると震える客の背中を優しくさすり続けた。だが、彼女の目は獲物を値踏みする猛禽類のように鋭かった。
「わ、私は……」
「ご安心ください。ここにいるのは私だけ……。私だけは、旦那様のお味方でございます」
「み、味方?」
「はい。私だけは」
「そなただけ……」
エルエンゾは泣き出した。恐怖と安堵で何も考えられない。彼女に誘導されていることにも気付かず、目の前に居る女だけが自分の味方であると思い込み始めていた。
ウリセファはエルエンゾを抱き締めて、耳元でささやいた。
「女は……初めて?」
エルエンゾはぶるぶると震えながら頷いた。
「では私に全てお任せを。天国にお連れ致します……」




