夜襲
監察使のデルドリオン駐留はナルファスト公国の状況を一変させた。
ウィンらはデルドリオンの脇に宿営地を構築しただけで、まだ何もしていない。だがナルファスト公国の領主たちはひどく動揺した。
監察使はどちらの陣営に付くのか。それとも中立を貫くのか。監察使の意志がはっきりするまで、旗色を鮮明にするのは得策ではない。レーネット派やスハロート派に参陣していた領主たちからも離反者が出始めた。残った領主たちも様子を窺い合っている。真っ先に逃げ出すのもはばかられるが、逃げ遅れて貧乏くじを引くのも困る。領地に帰って情勢を見極めたいというのが彼らの本音なのだ。
レーネット派に付いている領主の総動員力は5000に低下した。スハロート派も3000程度に減少したとみられる。監察使の兵力は相対的に大きくなり、存在感を増すことになった。
宿営地を一回りしてきたフォロブロンが本陣の天幕に戻ってくると、ムトグラフが書類と格闘していた。この男の事務処理能力には感心させられる。何より、書類を処理する意欲の高さには敬意を禁じ得ない。フォロブロンも数字を理解できないわけではないが、領地の税収やら家臣への支払いなどは家宰に任せっきりだ。
「精が出るな、ムトグラフ卿」
「アレス副伯こそ、見回りご苦労様です。何か変わったことはありましたか?」
「いや、今日も平穏そのものだ。傭兵など戦うよりももめ事を起こす方が得意な連中だと思っていたが。ベルウェンが集めてくる傭兵は質が高い」
「ベルウェン殿の軍令の厳しさはそのスジでは有名だそうですね」
「十人隊長や百人隊長と話してみたが、傭兵どもは軍令違反で罰せられることを恐れているというより『ベルウェンの顔に泥を塗る』ことを恐れているのだそうだ」
まだ付き合いは浅いが、フォロブロンはベルウェンにもムトグラフにも一目置くようになっている。2人とも身分は低いが仕事は確かだ。信頼できる同僚である。
「ベルウェンは……どうせ傭兵どもと飲んでいるんだろう。セレイス卿はどうした」
「セレイス卿は、そこに」
ムトグラフの指さす方を見ると、天幕の隅で寝ている。昼間も昼寝していたのによく眠れると感心させられる。起きている時間よりも寝ている時間の方が長いのではないか。赤ん坊か。
「先ほど、娼婦の……アディージャだったかな? が来ましたが、セレイス卿はまた寝ていたので怒って帰ってしまいました」
「また妹分が会いたがっていたのか」
「そう言ってましたが、妹分のためにそこまでしますかね」
「ああ、なるほど。口実という訳か」
ムトグラフは意外に心の機微にも聡いようだ。フォロブロンは何ごとも言葉通りに受け取る傾向があるので、アディージャの心理にまで考えが及ばなかった。
「特に急ぎの仕事もあるまい。ムトグラフ卿、われわれも休むとしよう」
フォロブロンとムトグラフは酒を軽く酌み交わすと、それぞれの寝台に入った。そこでフォロブロンは、ウィンが床に転がっていたことを思い出した。寝台で寝ればいいのに。まあ、どうでもいいか……。
異変に最初に気付いたのは、不寝番ではなく酒を食らって寝ていたベルウェンだった。地面から伝わってくるかすかな振動で目を覚ました。まだベルウェン以外に気付いている者はいない。皆、熟睡している。
ベルウェンはこの振動を体で覚えている。複数の馬が疾走しているのだ。
「敵襲!」
ベルウェンは叫びながら跳ね起き、宿営地の要所を回って防御態勢を取らせた。だがさすがに間に合わない。そうこうしている間に宿営地の出入り口を突破された。
宿営地の周囲には簡易的な堀と土塁を巡らせてあるが、出入り口は簡素な門扉があるだけだ。ここを的確に狙われた。明るいうちに出入り口の場所を確認しておいたのだろう。
門扉が多少は時間を稼ぐと予想して他所への指示を優先したのだが、門扉に直行すべきだった。ベルウェンは自分の読みの甘さに舌打ちしつつ、とにかく周囲にいる傭兵を集めて即席の防衛線を編成する。騎兵にはまずは長槍だ。ベルウェンの背後にはウィンらがいる本陣の天幕がある。ここを突破されなければ最悪の事態は防げる。
「テメエら、ビビッて下がるんじゃねぇぞ。踏ん張れば馬が勝手に死んでくれる」
「そういうのは素人に言ってくれよ」
「ビビるほど高級な頭はとっくになくしてらぁな」
適当に集めた槍ぶすまだが、みな何度も戦場を往来して生き残ってきた者ばかりだった。ただ、20人程度では厚みと幅が足りないのが心もとない。
「さて、後は騎兵との度胸比べだ」
そうこうするうちに騎兵の一団が迫ってきた。馬は5、6頭。
ベルウェンらは長槍の石突きを地面の凹凸に引っかけて右足で踏みつけて固定し、穂先を前に突き出す。
騎兵突撃の最大の脅威は馬体の大きさから生じる恐怖心だ。怖じ気づくと槍ぶすまが崩れて突破されてしまう。だが恐怖に耐えれば槍の餌食になるのは馬の方だ。ただし槍に貫かれたとしても馬はすぐには止まらない。そのまま踏み潰されるかもしれない。馬の巨体に押しつぶされるかもしれない。損害は覚悟しなければならない。
騎兵の一団はしかし、ベルウェンらが騎兵突撃にひるまないことを見て取ると直前で方向転換して槍ぶすまへの突撃を回避した。あの勢いで突っ込んできて、直前に方向を転換するとは……。ベルウェンは騎兵の練度に感心した。
他の場所でも小競り合いが発生したようだが、長居は無用とばかりに騎兵の一団は疾風のように撤退した。ベルウェンは、近くにいた百人隊長に被害の調査と敵の死体あるいは生き残りを探せと命じた。
ベルウェンが本陣の天幕に戻ると、最低限の武装をしたフォロブロンが天幕の前で一息ついていた。貴族様といっても武門の出だけあって、こうした事態に際しての動き方は心得ているらしい。
「防戦で精いっぱいだったよ」
「初撃で戦果が挙がらないとみるやさったと引いてきやがった。ありゃそこらの野盗じゃねぇ」
「やはりナルファストの兵か」
「誰のかはわりませんがね。普段アルテヴァークとやり合ってるだけのことはある」
アルテヴァークとは、ナルファスト公国南東部と国境を接する騎馬民族国家アルテヴァーク王国のことである。ナルファスト公国はほぼ単独でアルテヴァーク王国から帝国を防衛している。大規模な戦争こそしばらく発生していないが、小競り合いは常体化している。毎年戦闘があるだけに、ナルファスト公国の兵は実戦経験が多くて練度が高い。
「終わりましたか?」とムトグラフが天幕から出てきた。こちらは武装もしていないが、ベルウェンは彼を役立たずだとは思わない。文官のムトグラフが慣れない武器を持ちだして振り回しても仕方がない。本人もそれを自覚しており、邪魔にならないように引っ込んでいたのだろう。賢明な判断だ。
人には向き不向きと役割というものがある。戦えないからといって侮蔑する必要はない。ベルウェンにはムトグラフのような事務作業は務まらない。ベルウェンは農民のように作物を育てるすべも知らない。敵の首をはねるよりも果実をもぐ方が、人間としてよほど上等というものだ。フォロブロンと同じく、ベルウェンもムトグラフを「使える男だ」と思っている。だから無事だったのは幸いだったと心から思った。しかしそれを口にする男ではなかった。
「で、ウチの大将はどうした。首を持ってかれちまったのか」
「首ならまだ付いてるよ」と言いながらウィンも出てきた。まだ眠そうだ。
「やあ、終わったみたいだね」
辺りを見回している。一応、被害状況が気になるようだ。
「で、彼らの目的は何だと思う? 専門家の意見を聞きたいな」
ウィンはフォロブロンとベルウェンに問い掛けた。ベルウェンがフォロブロンに、「どうぞ」と目で合図するので、フォロブロンが答えた。ベルウェンが分を弁えて先に発言するのを避けたのだ。
「脅迫……といったところでしょう。いつでも攻め込めるぞ、と」
あの引き際の良さ。何らかの戦果を挙げることが目的とは思えない。攻め込むという行為自体が目的だったとしか考えられない。
「威力偵察ということは考えられませんか?」と、アデンが現れて疑問を呈した。
「多分、そりゃないな。こっちの防御態勢と警戒を強化させるだけで、何の意味もない」
アデンに対してはベルウェンが答えた。
もっとも、威力偵察という可能性が全くないわけではない。こちらが態勢を整えても、それをものともしない兵力が敵にある場合だ。ロンセーク伯にもサインフェック副伯にも、その兵力はある。だが監察使を攻める政治的、戦略的な意味はない。そんなことをすればそれこそ皇帝軍やグライス軍の派兵を誘発する。そう、現時点で監察使に進んで敵対することはあり得ないのだ。フォロブロンも同じ結論に達しているのだろう。
ウィンは顎に手を添えて少し考えてから、ベルウェンに指示した。
「襲撃者がどこに向かったのか探れるかい? 足跡をたどれる範囲だけで構わない」
「承知」
傭兵たちに指示を出すため、ベルウェンはその場を離れた。残った一同は何をするでもなく押し黙ったが、アデンが再び口を開いた。
「ロンセーク伯でもサインフェック副伯でもない第三勢力ということはないでしょうか」
アデンが提示したのは、意見というよりも思考実験のようなものだろう。それを察したムトグラフが、可能性を上げた。
「レーネット派、スハロート派に組さない可能性があるのは公妃、ナジステオ家の傍系などでしょうか。帝都の宮内伯、周辺の諸侯の介入もあり得ます。今のところ表立った動きはありませんが」
「今回の襲撃の実行能力という点では、どこかの領主単独でも可能だ」と、フォロブロンは純軍事的な見地から可能性を示す。
「厄介な方をお忘れではありませんか。ワルヴァソン公です」
アデンが挙げた名に、一同はぎょっとした。
宮内伯がティーレントゥム家の縁者であるアトストフェイエの子を推すのと同じく、カーンロンド家の傍系出身のタイドネイエが生んだレーネットの公位継承にワルヴァソン公が無関心なはずがない。
ワルヴァソン公の恐ろしさは生きながらにして伝説化しており、「怒りの一喝で城門を破壊した」「ひと睨みで敵将が死んだ」などといった与太話が流布されている。
ウィンは、「ワルヴァソン公か。私なら睨まれただけで死んでしまう自信があるね」と言って胸を張った。なぜか非常に自慢げである。
「そんなに恐ろしい方なのですか?」とムトグラフが不安げな声を出した。騎士階級にとって、ワルヴァソン公は雲の上の存在である。信じがたい伝説ばかりで実感が湧かないのだろう。といっても、爵位持ちのフォロブロンでも遠目で見たことがある程度だ。枢機侯と関わる機会など、副伯ごときではそうそうあるものではない。
「ワルヴァソン公は何ごとも抜かりのない方だと聞く。主立った諸侯の領地には間者が入っているとも噂されているし、当然ナルファストにもワルヴァソン公の息が掛かった者がいると考えるべきだろう。目立たないのは、宮内伯たちよりも『弁えている』からだ。それだけに恐ろしいとも言える」
「ワルヴァソン公が直接口出ししてくる、ってのが最悪の事態だろうね。こちらも正式に対応しなきゃならなくなる」と言ってウィンはわははと笑った。何が面白いのか全く分からない。
そこにベルウェンが戻ってきた。何か布切れのようなものを持っている。
「何人か負傷者は出たが、皆軽傷だ。襲撃者にも損害なし。死体も捕虜も残っていない。だがこんなものが落ちていた、らしい」
ベルウェンが持っていたのは騎兵が背後に掲げる旗の切れ端だ。小競り合いの際にちぎれたのだろう。切れ端には紋章が染め抜かれていた。ムトグラフだけがその紋章の意味を理解した。
「これはサインフェック副伯の紋章ですね」
「これはまた……」とベルウェンが苦笑する。フォロブロンはあきれたと言わんばかりの顔でウィンを見やる。その視線を受けてウィンも困ったように笑った。




