決意
「デズロント卿を呼びなさい。今すぐ!」
「デズロント卿は外出中です。いつお戻りになるのかは分かりかねます」
こんなやりとりを何度したことだろうか。ナルファスト公女のウリセファは怒りを通り越して徒労感を覚えた。
プルヴェントに退去してから約2カ月後、スハロートはレーネットと交渉すると言ってプルヴェントを出ていき、そのまま戻ってこなかった。
ワルフォガルからの退去時、スハロートは憔悴し切っていてウリセファはほとんど会話らしい会話ができなかった。プルヴェントに来てからも、スハロートは何やら思い詰めた様子だったこともあって事態と事情を直接聴くのが憚られた。
アトストフェイエが体調を崩したこともあり、それどころではなくなったという面もある。
ワルフォガルからの退去時は流されるままで考える暇もなかったが、プルヴェントに退去して落ち着くと、改めてオフギースの死という現実を直視せざるを得なかった。だが遺体を見たわけでもなく、気持ちの整理がつかなかった。アトストフェイエは特にその想いが強かったのだろう。一時は食事も取らず、ウリセファはアトストフェイエとリルフェットの世話にかかりっきりになってしまった。でもそれは口実だ。ナルファスト全体の問題を考えるより、アトストフェイエとリルフェットのことを考える方が楽だったのだ。ナルファストの問題はスハロート1人に押し付けてきた。
そう、事態から目を背けたのは自分自身だ。だから今でも自分たちが置かれた状況を完全には理解できていない。だが、アトストフェイエが回復したこともあり、ウリセファは父の死から始まった一連の事態と向き合う覚悟がようやくできた。遅過ぎたことが悔やまれる。
ウリセファが荒れていると、ルティアセスがやって来た。
「姫様、相変わらずお美しい。少しお痩せになりましたかな」
「私のことなどどうでもいい、ルティアセス卿。それよりも状況を説明してください。何がどうなっているの?」
いつもは軽くいなされていたが、今回はウリセファの様子がただならぬことを察したのか、ルティアセスはやや逡巡しつつも事情を説明する気になった。
「公妃様から口止めされておりましたが、実は先日、公妃様がロンセーク伯の刺客に襲われました」
ウリセファは血の気が引くのを感じた。白磁のような白い肌が一層白くなる。
「何と」
「ご存じの通り、公妃様に大事はありません。駆け付けたサインフェック副伯によって刺客は撃退されましたゆえ。サインフェック副伯は、ロンセーク伯に会いに行くとおっしゃってプルヴェントを出られ、それきりでございます」
「そのようなこと、初めて聞いた」
大人は皆、「子供に聞かせる話ではない」と言って大事なことは教えてくれない。だが、ウリセファにとっては家族のことなのだ。自分には聞く権利がある、とウリセファは思う。
「姫様はサインフェック副伯を信じてお待ちなされませ」
「兄は、サインフェック副伯は今どこにいるの?」
「私も存じかねます。居場所が分かり次第、姫様にもお知らせ致します」
内容のない会話だ。スハロート派などと言いつつスハロートの居場所も把握できないとは無能の極み……と口に出しそうになったのを辛うじてこらえた。
「デズロント卿は何をしているの?」
「ロンセーク伯たちの罠にはまった痴れ者のことなど姫様が気にする必要はございません。そもそもあやつはロンセーク伯の陣営の者。罪を着せられたというのは擬態で、我が陣営に逃げ込んだ振りをして内偵をしているという者もおります」
「ロンセーク伯側の間者だというの?」
「その通りです。ですから姫様はあの者をお近づけになってはなりません」
何と言うことだ。何もかも嘘で塗り固められている。誰を信じたらいいのか分からない。であるならば、ルティアセスも嘘を言っているのではないか? ウリセファは信じることができる基準点を見失った。
ウリセファの宝石のような濃緑色の瞳に見つめられ、急に落ち着きをなくしたルティアセスは用事があると言ってそそくさと去っていった。
ルティアセスは何か隠している。ウリセファは確信した。誰も信じないという前提に立って、それを基準に行動しなければならない。まず優先すべきは、母と弟の安全だ。スハロートとウリセファの考え方は、偶然にも一致した。
母と弟を安全な場所に移す。プルヴェントは嘘つきだらけで安心できない。ではどこに行くか。リルフェットの領地は、誰でも思い付く。ウリセファの領地にしよう。兄や弟ほどではないが、ウリセファにも化粧料として小さな村と邸宅が与えられていた。あの辺鄙な場所なら誰も気に留めないだろう。そもそもウリセファの領地についてはほとんど知られていない。「ウリセファの領地かもしれない」という発想自体が生じにくいのだ。
ウリセファがアトストフェイエの居室を訪ねると、アトストフェイエは快く迎え入れた。
「母上、襲われたというのはまことですか」
「あら、もうばれてしまったの? 人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものですね」
アトストフェイエはぬけぬけと答えた。
「そのような重大なこと、なぜ教えてくださらなかったのですか」
「だって、あなた心配するでしょう? 親が子に心配をかけるなど、あってはならないことですよ」
母はいつもこうだ。ふわふわとして、ウリセファの感情を包み込んでしまう。スハロートに会えない不安、周囲の者を信用できない苛立ち。襲撃事件が隠されていた事への不満。これらがない交ぜになった形容し難い感情は、うやむやにかき消えていた。そして来訪の本来の目的を思い出した。
「母上、プルヴェントから脱出します」
「分かりました」
「え」
「分かりましたと言ったのです」
「理由をお尋ねにならないのですか?」
「ウリセファが理由もなく『脱出』などと言うわけがありません。ならば必要なことなのでしょう。理由を説明する余裕がないのであれば、問いただすのは時間の無駄。余裕があるのであれば、ウリセファの方から説明してくれるでしょうからこちらから尋ねるまでもありません」
母は、ワルフォガルから退去するときもスハロートに何も聞かなかった。スハロートに出立を求められると、何も言わずに着の身着のままで付いていこうとして逆に「身の回りの品くらいは持っていきましょう」とスハロートに制止される始末だ。スハロートの表情から事態の切迫性を読み取り、余計な荷物を増やして出発を遅延させたり行動が制約されたりするのを避けるべきだと判断したのだ。
アトストフェイエはおっとりしているようで肝が据わっている。人の表情や話し方から情報を読み取ることに長け、判断も速い。何より、子供たちに全幅の信頼を寄せている。自分の子供たちが間違ったことをするはずがないと信じているのだ。
ウリセファがみるところ、アトストフェイエにも現状に対して思うところはあるはずだった。そもそも夫の死について納得などしていない。遺体にも会えぬまま、ワルフォガルから退去せねばならなかったことも無念だったはずだ。だが、そうしたことは一切口にしなかった。兄弟が対立する事態についても、公妃という立場から、レーネット派に対してもスハロート派に対しても口出しはしないことに決めているのではないか。
公妃として仲裁を主導すべきであるという考え方もある。実際、アトストフェイエが無為無策であることをそしる者もいる。だがアトストフェイエは積極的に介入しないという方法を選択した。介入したとしてもしなかったとしても禍根を残す。であるならば、子供たち自身でつかみ取った未来に子供たち自身で責任を取らせるべきだ、とアトストフェイエは考えている。アトストフェイエが介入した結果の未来に価値はない。オフギース亡き後、自分は既に過去の人間なのだ。たとえどんな結末を迎えたとしても、子供たちが苦悩の末に出した答えを受け入れる。継承問題に干渉しなかったことに対する批判や侮蔑は甘受すると決めていた。
今もこうして、アトストフェイエはウリセファの決断を信頼して黙って従おうとしている。そんな母に半ばあきれつつ、ウリセファは理由を説明した。
「プルヴェントにいる者たちを完全には信用できません。私たちは彼らの人質にされる恐れもあります。そうなれば兄たちの判断を捻じ曲げる足枷になってしまいます。デズロント卿やルティアセス卿の手駒にされることは避けなければなりません」
「分かりました。行きましょう」
「行き先はお尋ねにならないのですか?」
「あてがあるから脱出するのでしょう。今回は、荷物をもっと減らした方がよさそうね」
母にはかなわない。かつて、「父のようにはなれない」とこぼしたスハロートに「兄上は覇気が足りない」と言ったことがあるが、自分もまた母のようになれる気がしない。この強さは、一体どこから出てくるのか。ウリセファはそれなりに自己評価が高かったが、平時には知り得なかった母の度量を感じるに従って自信がしぼみ続けていた。
「手はずはこれから整えます。母上は、リルフェットを連れていく準備をしていてください」と会話を切り上げ、アトストフェイエの居室を後にした。
脱出すると決めたものの、自分一人では母と弟を連れて行くことなどできない。残念だが、自分にはその能力が欠けている。不可能なことをやって失敗するのは愚か者だ。懸け金が自分の命だけならそういう生き方もある。してもいい。だが、母と弟の安全を懸けるなら安全策でなければならない。
好ましい方法ではないが、今の自分にできる最大限の方法を使うことにした。
適当な相手を探すために屋敷の中を歩いていると、顔見知りの騎士を見つけた。名前くらいしか知らない。だが、彼が自分を眩しそうに見つめていることにウリセファは気付いていた。その視線の意味も理解していた。その気持ちを受け入れるつもりはないが、利用することにした。それがどれほど卑劣なことであるかも分かっている。そんな自分を嫌悪したが、母と弟のためにはやるしかない。
「ファイセス卿、少しよろしいかしら」
ウリセファに声をかけられ、ソド・ファイセス・ソーンドームは仰天した。騎士身分に過ぎない自分が公女にお声をかけられ、しかも家名まで覚えてもらえているとは!
「こ、公女様、私に何か?」
「単刀直入に言います。あなたにお願いしたいことがあるのです。私と母と弟を、ブロンテリルという村に送り届けていただきたいの。内密に」
ウリセファは、思わせぶりな態度は極力しないように努めた。好意があるかのような態度で誤解させるのは矜持が許さなかったし、何よりもファイセスに対する侮辱になると思ったからだ。あくまでも仕事の依頼の体を取った。もちろん、好意を持っている相手に名指しで依頼されるということがどのような効果を生むかは理解している。好意につけ込む行為だ。言い訳はできない。このような手段を使う女を、ウリセファは最も嫌悪していたというのに。
ファイセスは混乱しかけたが、自分を選んでくれたことに特別な意味はないと理解した。会話を交わしたこともない公女が、何の変哲もない騎士身分ごときに特別な感情を抱くはずがない。だが、自分を頼ってくれたことは素直に喜ぼう。喜んで利用されよう。自分に利用価値があることを喜ぼう。その喜びは、命を懸けるに値した。
「しかと承りました。早速準備致しますが、ご一家の安全を確保するには私一人では力不足です。信頼に足るものを集める許可を頂けますか」
ウリセファは直観した。恐らく、自分の汚らしい心は見抜かれた。それでもこの男は理由も聞かずに応えようとしてくれている。
「ファイセス卿を信じます。故にファイセス卿が信頼する方も信じます。最善と思う方法を使ってください」
ファイセスの行動は素早かった。午後のお茶会の準備で城内の往来が増えた頃合いを見計らって仲間を集めて馬車や食料を手配し、準備が整ったとウリセファに告げに来たのは日没前だった。
「すぐに出発できます。村には私を含めて5人がお供致します。万一に備え、時間稼ぎを担当する者も3人残します」
とはいえ、ファイセスは少し心苦しそうだ。ファイセスがしきりに馬車を気にしているのでウリセファにも理由が分かった。
馬車は2頭立てだった。公妃や公女を乗せるなら最低でも4頭立て、公務ともなれば6頭立ての馬車でなければならない。「こんなものしか用意できなかった」と、ファイセスは自分を責めているのだ。もちろん、ウリセファには公爵家の格式をこんなときに持ち出すつもりは微塵もなかった。
「皆の献身に心からの感謝を。いまさらですが、この行為はルティアセス卿の不興を買うかもしれません。今なら間に合います」
「公女様、意思確認など時間の浪費です。急ぎましょう」
ファイセスは軽くほほ笑むと、他の騎士もうなずいてほほ笑んだ。ファイセスを残して4人の騎士は自分の馬に飛び乗った。
ファイセスは公妃、ウリセファ、リルフェットを伴って馬車に乗り込んだ。ウリセファは、残留する3人の騎士とそれぞれ目を合わせ、「後をお願いします。でも決して無理はしないでください」と言葉をかけた。
騎士たちは全く言葉を交わすことなく同時に馬を走らせ始めて、サインフェック副伯邸宅の敷地を一気に飛び出し、城門へと向かった。
ルティアセスらは公女たちが出奔するなどとは思っていなかったから、全く抵抗を受けずにプルヴェントから出ることができた。
ずっと押し黙っていたリルフェットが初めて口を開いた。
「姉上、どこに行くのですか?」
「私の領地の村よ。そこでしばらく母上と待っていて」
「姉上は行かないのですか?」
「もちろん行きます。ただ、すぐにスハロート兄上を探しに行きます」
「私は……足手まといになるのですね。では村で母上をお守りしています」
アトストフェイエが優しくほほ笑んで、リルフェットの手を握った。最近まで縫いぐるみを抱き締めて寝ていた子が、こんなにも頼もしいことを言ってくれるようになったことを喜んでいた。
「リルフェットが守ってくれるなら安心ね。ウリセファは、やりたいようにやりなさい。ただし、決して無理はしないように」
リルフェットは自らやるべきことを見つけたようだ。母の信頼も心強かった。
次は自分の番だ。自分にできること、自分がやるべきことをやらなければならない。




