7月20日(木)㉙
渾身の「誘い」が敢えなく切って捨てられたことで、気色悪い作り笑いを顔に貼りつかせるしかなくなった私を咎めるように、階段の下の暗がりから奴が姿を現した。
「こんなところでおしゃべりしてるなんて、いい神経してるわね」
奴、ヤツ、yatsu……、言うまでもなく、Kのヤロウである。
もはや恒例行事となった感さえある奴の不意打ちを受け、私が初めに思ったのは、こいつはいったいどうして、いつも急に現れて、こちらの事情も鑑みずに土足で踏み込んできて、それで好き放題不平不満をぶつけてくれるのだろう、ということだった。私はただ漠然と、そのことが気になった。なぜそんなことが普通にできるのだろうか……?
私見によれば、他人に対して偉そうに振舞ってよいのは、その者自身に欠点のない完璧な存在だけに限られている。つまりそんな奴はいないのだが、Kは完璧であるどころか、むしろ完璧とは対極に位置する存在だと言ってよい。本来であれば、口を開こうとするたびに許可を乞うことを必要とするレベルのはずだ。
だが反面悲しいかな、Kが病的に高圧的なのはいつものことであり、まともに応対しようとすること自体が間違いだというのもまた、自明の理である。
そのことを恐らくこの世でもっとも深く理解できているだろう私は、最初こそ戸惑ったものの、すぐに心身の調子を整え、ともすればひび割れでもしそうなほど強く歯を噛みしめながら、ただひたすら耐え忍ぶことを続けた。
「あんた、図書館の仕事はどうしたの? 用事が済んだんだったら、すぐ戻らないとダメじゃないの、職員室に電話かかってきて、大変だったのよ、何とかしりぬぐいしてあげたけどさあ、なのに、自分はこんなところで生徒と楽しくおしゃべり? しかもあんな風に呼び出された後で? ……おかしくねえか? いや、おかしいわよね? なんでそんなことできるの? ねえ、なんで?」
言うまでもなく、「登場」には「消失」が前件として伴う。この場合で言えば、応接室を出て以来、途中まで確かに一緒だったはずのKは、こちらが気づかないうちに視界から消え去り、図書館へと向かったようだった。そして、私の仕事を引き継ぎ、カウンター業務に精を出し始めたのであるらしい……。それがKの繰り出すボヤキから窺える、「消失」の真相である。
もちろん、頼んでもないのに余計な真似をしでかしてくれたことに対しては、怒りしかわかず、感謝の念などもってのほかだ。いったいそれのどこが「しりぬぐい」だというのか?
「……はあ、あんたがこの学校に来てからホント迷惑かけられっぱなしだわ、ほんとあんたなんでここに来たの? 何がしたいの?」
「……」ナニガシタイノだと? それはこちらのセリフだよ……。
頭に血が上り、額の表面が風邪でもないのに発熱し始めたように思ったが、もちろん悪いのは完全に自分である。全てはKの思考パターンを把握し、図書館へ向かう可能性を想定しておかなかった私の責任だ。とは言えそのように責任の全てを自らに帰し、それで納得したふりをしていられるのにはもちろん限界がある。
この場合で言えば、さらにしばらく罵られ続けた後、「もう一回、お母さんのお腹の中に宿り直すところから始め直した方がいいんじゃないの?」と言われたところで、堪忍袋の緒がぶち切れた。生まれる前からやり直すこと。それは私がずっと昔から最も強く願い続けていることであり、それでいて、金輪際決して叶うはずのない願いだからだ。
私は亀に狙われていると指摘されて以来、護身用に常に持ち歩いている小型のハサミ(鼻毛カッター)をズボンの尻ポケットの中で握り締めながら、Kに近寄って行った。いや、行こうとした、のだが、しかし実際にはそこで機先を制されることとなる。
「ゴチャゴチャうるせえんだよ、ババアァッ!」
そう言いながら私を追い越したイマイが、勢いそのままにKの胸倉をつかみ、壁に押し付けたからだ。