3月20日(月)⑥
早くも策に窮した私が次に選択したのは、自宅の電話機から発信を行うことだった。もちろん相手は母親である。父親が何らかの異常事態に見舞われた際、それを最も近くからサポートすべきなのは、間違いなく母親のはずだ。少なくとも、普通は、そういうことに、なっている。
だが受話器を取り、実際に番号のボタンを押し始めてもなお、私は母親に電話することへの抵抗感から逃れられずにいた。要するに、強いストレスを感じていたわけだが、「ただ電話するだけなのに、何をそれほど大げさに恐れることがあるのか」という、一見「正当」な誹りは、殊にこの場面に限って、当該の座から陥落する。なぜなら、先に少し触れた通り、私が3歳の時に家を出た母親は、以来20年以上、「我が家」に戻ってきていないのだから。
今でも忘れることはできない。クリスマスイヴに当たる12月24日の昼前、つまりわざわざ人気の多 い時期を選ぶようにして、私たちは映画を見に出かけた。ここで言う「私たち」とは、私と姉、そして父親を指している。何を見たのかは全く思えていない。
母親はその時まだギリギリ「我が家」に属していたので、もちろん母親も誘ったのだったが、「ドラえもんのクリスマススペシャルを見逃すわけにはいかない」とか何とかいう、子ども心にも全くわけのわからない理由で、奴は一人家に残った。もちろんその「理由」が、通常であれば持ち出されるはずのないものであり、つまりごく控えめに言って「おかしい」ものであることは論を俟つまいが、「我が家」において、「おかしさ」は発生と同時に「正常」に反転する。少なくとも当時3歳の私は、まあそういうこともあるのだろう、などと軽く考えていた。
だがその日の夕方、満足して家に帰ると、母親は荷物ともども、そっくり姿を消していた。
同じマンションの若い男と長きにわたって不倫関係を続けていたらしく、半ば「駆け落ち」同然の形で失踪を遂げたと知ったのは、それからほどなくしてのことである。私が若干3歳であったことを考えれば、「それからほどなくして」、「失踪」の詳細を知らされたことがやはり「おかしさ」→「正常」の反転図式の象徴たりうるのは自明だろう。つまり母親が消えたのを機に、さらに異常さに拍車のかかった父親から、四六時中同じような愚痴を聞かされる中で、私は自然とその「詳細」を理解したということだ。3歳児に身内の不倫について、滔々と解説を続ける父親……。これ以上にイカれた存在が、この世に他にどれだけあるだろうか……?
もっとも、「我が家」に戻って来ていないとは言ったが、それで母親との交流が全く途絶えたわけではなかった。むしろよほど暇なのか知らぬが、そしてどの面下げてなのかも知らぬが、母親は失踪直後から既に頻繁に家の電話機を鳴らし、子供たち(つまり私たち)にアプローチをしかけてきた。要するに、「女性としての幸せを諦める」ことは絶対したくないが、反面「我が子との関係が切れる」のもまた許せない、ということだったのだろう。そこから色濃く立ち上がる、全くまじりっけがなく純粋培養されたエゴイストの気質には、もはや脱帽する以外にない。……何かを得るためには別の何かを犠牲にしなければならない、そういう当たり前のことが、いったいなぜわからないのか?
着信と着信の間は2日を開けることはなく、多い時は1日に複数回電話がかかってくることもあった。そのある種の無双っぷりは、あの傲岸な父親でさえをも諦めの境地へと追い込むものだったらしく、父親は、不倫して家から出て行ったはずの配偶者が、好き放題自分の子供とコンタクトをとるという、明らかに間違った事象を完全に放置していた。
高校生の時、初めて携帯電話を手にした折には、すぐに次のようなメッセージが送られてきた。
「こんにちは、つらいのに、毎日生きてくれてありがとう」
……「つらい」のは少なくとも半分以上がお前のせいなのだが、いったいどの面下げて、ほざいているのか……。
どこでどうやって電話番号を知ったのか、いやそもそもなぜ私が携帯電話を購入したことがわかったのか、今でも謎のままである。だが事実としてそれからも一日平均100通を超えるペースで母親からのメッセージは届けられた。しかもどれもこれも「今どこで何してるの?」・「今から歯磨いて寝る」・「昨日何時に起きたの?」・「寝る時はしっかりおやすみって送ってきなさい」などというように、一ミリも意味のないものばかりだ。
結局それが嫌で、私はすぐに携帯電話を解約し、今でもその類の機器を所持していない。床に臥せった父親の後ろ姿を見ながら、わざわざリヴィングの据え置きの電話機から発信を行ったのはそのような事情に拠っている。