3月20日(月)⑤
精神的な平衡を保つため、深く呼吸を繰り返しながら努めてゆっくりと「うがい手洗い」を済ませた後、満を持してリヴィングへ向かった。
「……おいおい、どういうことだよ……」
そこで遭遇したのが、「血の海」だった。
一目見ただけで心臓が大きく跳躍し、所謂「早鐘のように」して拍動することが始まった。耐え難い息苦しさをかろうじてイナしながら目を凝らすと、血らしき液体が濡らしているのは実際には床のほんの一部だけにすぎないということがわかった。つまり「海」は、「血」に加えて、味噌汁とお茶、さらに他の何らかの液体などが混ざり合うことにより成立していたわけだ。しかしその事実は、つまり「海」全体が「血」のみによって構成されているわけではないという事実は、もちろん何の慰めにもなりはしない。そもそも「海」自体、その場において決して「主」ではなかった。「図」と「地」とで言えば、「地」に該当したということである。
では翻って、「主=図」は何だったのか。
端的に言えば、それはうつぶせに倒れる父親だった。
ただ横たわっているだけではなく、ひれ伏すような体勢をとっているせいで、身に纏った上下揃いの青色のパジャマの裾がめくれ、腰の後ろ中央に位置する大きく盛り上がったほくろと、その下の尻の割れ目の始まりとが丸見えになっている。左の側頭部から後頭部にかけて傷ができているようで、血はそこから流れ出たものらしかったが、今ではすっかり止まっている。大分残り少なくなった白髪が血糊のせいで黒く固まり、いつも以上にゴワゴワとした感を強めているのがほとんど唯一の名残だった。
……いや、だがどういうことだ? 私は改めて思った。……いったい俺のいない間に、何が起きたというのか……?
「家族」の奇行には慣れているとは言え、「水たまり」の物真似をする父親の姿というのは、記憶にある限り初めて目にするものであった。それゆえさすがに困惑を禁じ得なかった私は、気づくと呼びかけを繰り返していた。
「ねえ、パパァ、パァパァ、パパァ、パァパァ……」
しかし返答はなかった。何度声掛けを行っても、父親は相変わらず呑気に寝そべったまま微動だにしなかった。相手のイカレっぷりを考えれば、その「(無)反応」の徹底というのはもちろん予め想定しておいて然るべき事態のはずだった。実際、逆にその程度で起き上がって来ようものなら、私はそいつが「父親である」ということを疑ってかかったことだろう。だが、だからと言って、何も感じないわけではなく、私は寸でのところで、そいつの後頭部に全体重を乗せた踵落としを決めてしまうところだった。
だが私がそうしなかったのは、例えば良心の呵責に耐えかねただとか、そういう戯けた理由に拠るのではない。私のいろいろな意味で決死の呼びかけが、別方面で場に大きな変化をもたらしたからである。
「なあんだ、いたんだ」
「え? ……ああ、そうだな」
イタンダだと?それはこっちのセリフだ、と私は思いながら、言葉少なに一言だけ呟くに留めた。
もはや言うまでもないことだろうが、ここへ来て真打ち、「姉」の登場である。
どういう風の吹き回しか知らぬが、いつも閉じこもっている部屋から、急に姿を現してきたのだ。後から考えてみれば、その「登場」の持つ意味合いには、非常に大きなものがあったのだが、当該時点における私は、全くそのことに気づかず、ただひたすら目を逸らすことに終始していた。
姉は私より4歳年上なので、もう30歳に近いのだが、全面に「ムーミン」の小さな顔がびっしりとこびりついているとかいう、見る者に狂気を感じさせるデザインのパジャマを着用していた。姿を見かけること自体がそもそも久しぶりで、だからと言うわけでもないが、遭遇した時点で何となく嫌な予感がした。
もちろん私はただ、よりによって偶然「この家」に生まれ落ちてしまったために心が壊れてしまった姉に同情こそすれ、軽蔑や疎ましさといった類いの悪感情を抱いたことはほとんどない。そもそも私が姉のようになってしまっても決しておかしくはなかった。
だからそうではなくてここでの「嫌な予感」はひとえに、姉との接触が数年来、決して良好な結果をもたらした例がないという客観的な事実にのみ依拠していた。
そしてその「予感」の正しさを証し立てるかのように、この時も姉は、私の顔を見るとこう言ったのである。
「ねえ、明日3月21日って、『さきこ』の誕生日なんだけど、知ってた?」
「は? サキコ? 誰?」本当に心の底から真剣に尋ねたい。……だれだそいつ?
「え? 知らないの? マルコのお姉ちゃん」
「……」相変わらず頭がイカれているようだな……。もう一度だけ確認しておくが、その時我が家のリヴィングは「血の海」になっていて、そこには言うならば「父親」に該当するポジションの人物がうつ伏せに、しかもピクリともしない状態で横たわっていたのだ。要するに、見た目は完全に「生死の瀬戸際」である。にもかかわらず、「サキコの誕生日」だと? いったいどこまで本気なのか……?




