空飛ぶ翼
夜空には瞬く星の輝きと航空機の灯、それに眼窩に広がる街の色とりどりの明かりで華やかに見えた。
高度を上げる“金剛のエスト”の座席に収まり、美空は考え事をしていた。一体、今日の出来事を自分のなかでどう消化したらいいのか。それを、どう玲花に説明すればいいのか、そもそもどうやって連絡すればいいのか。
ポケットのなかの携帯端末を取り出そうにも、まずはこのバトルドレスを脱がなくてはならない。しかし、はたしてここが通話圏内なのかどうか。それ以前の問題として、この件に玲花を巻き込んではいけないような気もする。だからと言って、なんの連絡もしないのも考え物だ。
<美空、所定の位置に到着しました>
「……えっ? いやいや。だって、何も見えないよ」
美空は画面を凝視するも、そこには何も映し出されてはいない。ただ、遠く彼方に小さくなった街が陸地の形を形成しているだけだ。
意味がわからないなりに、サブディスプレイの表示を見るも、やはり機影の類は見つけられない。一体、どういうことだろう。美空は唸りながら、首を傾げる。すると、ODESSAのデフォルメアイコンが頭上を示す。
<上ですよ、美空>
「上?」
見上げると、頭上の一点だけ星が瞬いていない場所がある。だが、これは一体何を意味するのか、美空にはすぐにはわからない。いくら目を凝らしたところで、やはりなんなのか判別不能だ。
<電波反射・赤外線特性を極限まで抑えたステルス全翼機だと推測できます>
巨大な翼のような航空機が、“金剛のエスト”の上空を音もなく飛行しているという。情報表示ウィンドウに全翼機のアイコンが表示されて、画像診断システムの検証結果が小さいウィンドウになってまとめて美空の前に提示される。
「嘘ぉっ!? あんな形の飛行機あるのっ!!」
美空が素っ頓狂な声を上げて驚いていると、不思議なブーメラン状の機体底面のハッチが解放される。人型規格――人型機動兵器の固定用のペンチのような先端の固定器とワイヤーハーネスが展開されていく。
<機体誘導用信号を受信しました。電子ガイドに従い、機体のコントロールを発着システムに譲渡します。接近まで一八〇秒、カウントを開始します……>
美空はその様子を嘘みたいだと思いつつ、食い入るようにして眺めた。
減圧に備えて酸素マスクで顔を覆った数人の人影が目標指示用のライトを振って合図したり、壁面に設置された機械を操作して美空の到着に備えている。
じりじりと機体との距離が詰められ、兵器庫に“金剛のエスト”の巨体がすっぽりと収まる。天井から吊り下げられたペンチ状の器具が“金剛のエスト”の背部や両肩を挟み込み、胴や足にワイヤーを引っかけて接続する。
シャッターが稼働するような音がして、底面が閉まった。ハッチがぴったり閉まると、その内部でモーターの駆動音が鳴り響き、ボルトが締まってロックがかかる。
吹き込む冷たい気流は今はやんで、カーゴ内は旅客機のように室内を高度約一〇〇〇メートルと同等の空気圧に保つため、与圧室が事前に設定されていた適切な気圧になるまで稼働した。防寒用の空調も働いて、カーゴベイはじょじょに温かくなっていく。
ただ高度を飛ぶだけでも、機内の気圧や気温が低下する。そんななかで機外に向けて扉を開け放てば、その影響は甚大だ。機体の向きが微調整され、軽量な金属製の足場が背部ハッチに横付けされた。
<美空、“金剛のエスト”は不測の事態を想定して状態を戦闘モードのままにしておきます。万が一、その身に危険が生じた場合は速やかに機体へお戻りください>
「う、うん」
<何かご用命がありましたら、ODESSAとお申し付けください。すぐに音声インターフェイスで対応いたします>
「うん。お願い」
美空は座席から離れて背部ハッチを開けるレバーに手をかけながら、コンバット・グラスに投影された外部の光学映像を注視する。
オレンジ色の作業着を着た人影を捉える。武器などは携行しておらず、いきなり銃撃戦になるような、緊迫した雰囲気ではない。美空は大きく息を吸ってから、ハッチを押して機外へと出た。そのまま、金網のような足場に降り立つ。
オレンジ色の作業着を着た長身の人物は、美空の姿には目もくれず、黙々と各々の作業に勤しんでいた。ちょっと拍子抜けだ。警戒は杞憂だったのか。美空は確信を掴めず、人ひとりがようやく通れる細い足場を伝っていく。
「あなた、一体何やらかしたのよ?」
背中に可愛らしい声で投げかけられて、美空は反射的に振り返る。
すると、灰色の髪の女の子が両手を組んで壁際にもたれかかっていた。
ダイヤモンド・ステッチが施された濃灰色のニットワンピースに、脚の細長さを強調するような黒いタイツ、小洒落たショートブーツといった生立ち。明らかに、他の作業着を着た人影とは趣が異なる。
こんな状況じゃなければ、年頃の女の子としてファッションで盛り上がれたのかもしれない。
「地上はもう大騒ぎよ。それに、当機は“虚ろな男”の貸し切りよ。なのに、いざ機体から降りてきたのは女の子。話が全然違うじゃないのよ、もう」
つかつかと踵を鳴らしながら、美空のもとに近付く。すると、彼女はどうやら何かに気付いたようで、大粒の水色の瞳を曇らせると急に駆け出して“金剛のエスト”に迫った。その口元は驚愕でOの字になり、上ずった声で言う。
「ちょっとっ!? これ、普通の人型規格じゃないじゃないの! 何これ、初めて見るタイプね。何がどうなってるのよ、もう!」
美空が答えるよりも前に、彼女は体を翻すと美空の手を取る。
つい反射的に悲鳴を上げた美空は後ずさるも、灰色の髪の少女はその分だけずいずいと前進し、まじまじと美空の体を検分するかのように凝視してくる。
全身を値踏みするかのように注視されて、美空はちょっとばかり照れながら口を開く。
「えっと、あなたがジョアンナ・ジュールさん?」
「ええ。そうよ。ようこそ、“空飛ぶ翼”へ。当機はあなたを歓迎……する前に、ちょっと事情を説明してくれる?」
とりあえず、お目当ての人物に出会えたことに、美空は表情を緩めた。
◆
弾頭貯蔵庫の一部を改造して作った一室に、ジョアンナは美空を案内する。
部屋自体は相当広いのだが、そこに大型の冷蔵庫や何やら用途が不明な機材、それに寝袋やコートなどの衣類が無秩序に吊り下げられていて、ずいぶんと乱雑で手狭に見えた。散らかっているとはまた違う、物に溢れた印象がある。
ジョアンナは迷いのない足取りで冷蔵庫からいくつか箱を取り出す。業務用電子レンジのなかに、霜がついたまま白くなった箱の数々を放り込む。保温されたコーヒーポッドを取ると食器棚からマグカップを取り出してきて注ぐ。
美空はぶつからないように注意深く進むと、ジョアンナの手が示した座席のほうへ行く。
「わたし、夕食がまだなの。あなたもどう? 意外とイケるわよ」
「本当っ! ありがとう、実はお腹空いてて……」
何より、いい人そうでよかった。美空は安堵する。今日は玲花の緊急招集や名乗らぬ男、謎の化物の奇襲、そして米軍基地の顛末といろいろなことが起こり過ぎた。ずいぶんと体力を消耗したし、何より精神的な疲労が蓄積していた。これ以上はもう、美空の心がもたない。
ジョアンナは芝居がかった所作で肩を竦めてみせる。
「じゃあ、まずはその恰好を解いてよね。銃口を突きつけられているようで、なんだか気分が悪いわ」
「あなた、この姿のこと……」
「もちろんよ。一年前、老原動乱の時はもう大忙しだったんだから。エリジウムがオリハルコンって呼ばれてたときから、わたしはこの機に乗って世界中を大冒険してたんだから」
ジョアンナは自慢げに人差し指を振るう。
ということは、少なくとも美空と同等、あるいはそれ以上にエリジウム鋼との長い付き合いがあるに違いない。
美空は一瞬だけ躊躇ったが、この少女――ジョアンナ・ジュールがいきなり危害を加えてくるとは思えない。それに、今の美空には“金剛のエスト”に積み込まれたODESSAがいる。万が一というときは、自律駆動モードでひと暴れしてもらおう。
美空は覚悟を決めると、変身を解いた。
展開されていた各部の発砲金属が圧縮されて、コントロールギア・リングに格納される。その姿を、ジョアンナは一言も発さず、ただ黙って見守る。その大粒の瞳は好奇心と初めて目の当たりにした感動で満ちているように、美空には見えた。
「えっと、ごほん」
なぜかわざとらしい咳払いをしてみせるジョアンナ。
「あなた、“虚ろな男”の何な訳? 見たところ、恋人って感じじゃなさそうだけど」
使い捨ておしぼりで手を拭うと、ジョアンナは解凍したピザやケサディーヤ――トルティーヤと呼ばれるトウモロコシ製の生地で包まれたメキシコ料理のファストフード――、ベルギーワッフルやベーグルを、どんな用途で使うのか一瞥して美空には判断できない器具や小道具が転がる食卓の上に並べていった。
「えっとね、彼に言われてここに来た。ジョアンナ・ジュールって人に会って『貸した借りを返せ』って言えば、きっと力になってくれるって。そう言われたんだ」
「ふうん、なるほどね。そういうことなら、拒みはしないけど。あなたは知らないかもしれないけれど、この業界は貸し借りで回ってるところもあるから。まぁ、ずいぶんと面倒そうなお客様だけどね」
ジョアンナはぱくぱくとピザの一片を早速平らげながら、美空を正面から見つめてくる。真剣な眼差しだったのに、ついつい美空は「この子、めっちゃ美少女だなぁ」などとまったく関係のないことを考えてしまう。
「で、あなたのお名前は? よもや、“虚ろな少女”ってわけじゃないんでしょう?」
「美空、榛木美空です。あの、その“虚ろな男”っていうのは?」
「あの彼のことよ。だって、あの人名乗らないんだもん。それで、米国情報中央局が識別するために便宜的につけた暗号名が“ホロウマン”。“虚ろな男”、ってわけ。虚ろかどうかはともかくとして、呼び名がないとなにぶん不便だから、みんなそう呼んでるのよね」
なるほど、訊ねて返答に窮していたあの男はどうやら、美空の前以外でもあんな感じらしい。
ジョアンナは律儀に手をいちいち綺麗にしてから、冷蔵庫のほうに手を伸ばす。
すると、冷えたコーラの缶を二三取り出して、美空のほうに置く。摂取カロリーを気にしているのか、ゼロカロリーだった。
ふたりして、動きが一致していた。同じタイミングでプルタブを引き、同じ時に口をつけて、炭酸ガスの強い刺激に顔を顰めた。シリーズ史上最強を謳う、強炭酸らしい。
「なんとなくはわかってもらえてると思うけれど、わたしはこうやって足が必要な人のために飛行機を飛ばして、いろいろとお膳立てをする仕事をしてるのよ。報酬はお金で支払ってもらうときが多いけれど、こうして貸し借りで取引することもある……」
言いかけて、ジョアンナは声を上げた。
何事かと思い、つられて美空の背筋が強張る。力が入り過ぎて、缶の側面がぺこんと音を立てて凹む。
ジョアンナは席から腰を上げて、前のめりになって美空のほうへと体を寄せて言う。
「榛木美空って、あの老原動乱を終息させた英雄じゃないっ!! 道理でどこかで聞いたことのある名前だと思ったっ!!」
「えー、英雄だなんて。そんな……」
「でも、その英雄様が急にどうしたのよ?」
「いや、それはわたしのほうが訊きたいくらいだよ」
美空はふにゃっとした力のない笑みを浮かべて誤魔化す。
「まぁ、旧宇宙研究機関は確か、一年前に解体されちゃったのよね」
今は亡き老原翁が率いた旧宇宙研究機関は他に対処する適切な機関がなかったとはいえ、一連の武装闘争の責任を取って解体された。
現在は、規模と所掌範囲を縮減した|国連宇宙研究機関《ユナイテッド・ネイションズ・エアロスペース・エクスプロレイション・エージェンシー》――通称UNAEAとしてその機能を国連傘下の機関に移管されていた。
「元来世界を滅ぼしかねない宇宙開発競争に制約を課し、軍事転用されないための保障措置を実施することで、宇宙空間の平和利用を促進するために創設されたんだったわね」
「う、うん。軌道エレベータの管理から、一部の軍事衛星への規制、スペースデブリの警報や除去、そして、コロニー開発なんかも進めてたはず」
もっとも、その方面に明るい訳ではないので、美空は語尾を曖昧に濁す。
「少なくとも、宇宙開発に関して言えば、歯止めがかかった。けれども、人型機動兵器に軸足が移っただけで果てなき軍備拡張競争に終わりは全然見えないけどね」
ジョアンナは言いながら、コーラの缶をあおった。
美空の脳裏には、清濁併せ呑んだ老原の在りし日の姿が蘇ってきた。老いてどこか弱さを滲ませた背から漂う光と影の明暗差を振り返ると、一年前の出来事が遠い日のことのように感じた。
「まぁ、結局はその人型兵器にしたって、宇宙での運用を見越しているんだから、欺瞞の軍縮政策よね」
そこで、美空は思い至る。
オリハルコン――現在はエリジウムと呼称される鉱物はその所有を厳重に管理され、違反した場合は国連の名の下に厳しい措置が下される。
名乗らぬ彼――“虚ろな男”の指摘した通り、美空が米軍の艦艇を襲い、“金剛のエスト”を略取したと考えていた場合、美空は犯罪者ではないか。
「……どうしたのよ、急に黙り込んで?」
「えっとねー、いや。ちょっとマズいことになっちゃったなぁ、って思って」
美空は頬を掻きながら、一体今までの経過をどう簡潔に説明しようか、迷う。
◆
「つまり、あなたはクラスト崩れの謎の金属生命体に襲われて、助けてもらった“虚ろな男”に巻き込まれる形で米軍の施設についていったら、今度は“金剛のエスト”が自律起動して、成り行きで乗り込んで結局、そのままうちに来たってこと……」
「うん」
目の前で、ジョアンナが絶句している。ああ、二の句が継げないってこういう状態のことを言うんだな、なんて美空が思っていると、ジョアンナは溜息をついて肩を落とした。
「うちのお客様は訳ありが多いんだけど、こういう事例はさすがになかったわ」
頭を抱えているジョアンナから、視線をベーグルやベルギーワッフルに移す。
ふたりして炭水化物ばかり摂取して、さらにこれから糖質の塊を食べようというのだから、まさに毒を食らわば皿までといった感じだった。
「じゃあ、安保理決議で変なことが決定される前に、なんらかの妥協点を見出さないとヤバいわね。さすがにうちだって全世界を敵に回すことはできないし」
「そこで、ジョアンナさんに相談なんだけど、何か妙案はありますか?」
「そんな他人行儀な。わたしのことは親しみを込めてアンって呼んで。ジョアンナさんって呼ばれるとなんだか背筋がくすぐったいし」
ジョアンナは手を振りながら、もう片方の手でベーグルを小さい口で齧る。
「じゃあ、アンで。わたしのことは美空って呼んで」
「ええ、美空。それで対応策なんだけど」
ジョアンナは美空としっかり目を合わせながら、ゆっくりとした口調で言う。
「今は下手に動かずに、とりあえず様子見にしたほうがいいと思う。というのも、遅かれ早かれ、まんまと機体を奪われて奪還を目論む米軍と、国際社会に背く形で独自路線を貫いて赤っ恥をかかされた米国行政府、結局その米国を止められなかったUNAEA辺りが形はどうあれ、アプローチをかけてくると思う」
「様子見かー。なんだか、落ち着かないなぁ」
「何よ、美空。あなた、打って出たいの? やめときなさい。既成事実化しておけば、きっと彼ら彼女らはなんらかの取引をして、事態の収束を図りたいと思う。だから、今はぐっと堪えるの。どうせ、他に打つ手なんてないんでしょう? 世界最強の超大国アメリカを相手に戦争でもしたくないならね」
堪え性のない美空に、ジョアンナは釘を打ちながら二本目のコーラに手をつける。
そわそわする美空だが、ジョアンナが指摘するように他に打つ手とてない。美空が切れる唯一の頼りになる手札は“金剛のエスト”くらいしかない以上、下手に事を急ぐのは危険だった。美空はもどかしさをどうにか宥めつつ、食卓に並んだベーグルを咀嚼した。
非日常のなかでも、ベーグルのおいしさは不変だった。
◆
美空がもらったウェットシートで体を丁寧に拭っていると、ふと脳裏に疑問が過る。すでにパジャマ姿に着替えて、壁から伸びるワイヤーに引っかけられた寝袋を何やら調整しているジョアンナに訊ねた。
「ねぇ、アン」
「……何?」
ジョアンナはあまり眠たくないようで、冴えた声をしていた。
「そう言えばさ、この飛行機、目的地ってどこなの?」
「ウラルスタン、中央アジアよ」
美空は目を丸くして、それから大声を上げて唸った。
「うっうっうっ、ウラルスタンっ!?」
ウラルスタン。
旧ソビエト連邦構成国で、独立する以前から一貫してかつての第一書記が大統領の地位に留まり、権力を振っている曰く付きの国だ。現代社会の授業でちらっと名前が出てきたので、美空もよく覚えている。
古くから石油や鉱物資源に恵まれており、かつて英露が鎬を削ったグレートゲームの舞台となり、現在も米露中が競い合う地域でもある。
「でも、なんでまたそんなところに?」
「独立以来の独裁体制と大統領の世俗主義、イスラエルとの良好な関係からイスラム原理主義や聖戦主義者たちによるテロの標的になってきたからね。わたしたちみたいな連中には都合がいい国なのよ、いろいろとね」
ジョアンナはにやりとどこか意地悪そうな笑みを浮かべる。
「行先自体は前々から決めてたんだけど、アメリカの諜報能力から考えてみても好都合かもね。ウラルスタンは伝統的にロシアの“裏庭”で、イギリスの活躍の場でもあるんだから。そこで、美空に協力的な人たちとどうにか繋がりが持てると最高なんだけど」
ジョアンナはいつになく神妙な顔をする。
「まぁ、細かい話は後にして。今は休んでちゃんと体を落ち着けときなさい。休めるときにしっかり休んでおくこと。大事な時期なんだから、体調を整えておくのよ」
意外と世話焼きなところのあるジョアンナに、美空は頷きながら当面の課題を棚上げにする。
携帯端末を取り出すも、圏外だった。当面の間は玲花との連絡は取れそうもない。事態の詳細はともかくとしても、せめて彼女には美空が無事であることは知ってもらいたい。
美空はそんなことを考えながら、目を瞑る。飛行機の上で眠るのは初めてのことだったけれど、色々ありすぎた美空は疲れ果てていて、すぐに眠りについてしまった。
◆
朝焼けのなかを切り裂くようにして、ステルス航空機の黒い巨体の輪郭が浮かび上がる。
ウラルスタンはユーラシア大陸の中心に位置していた。
世界第九位の広大な国土面積を誇り、アジア地域に限れば第三位だ。同時に世界最大の内陸国でもある。
国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められる。
地形は大きく三つに分類され、中国国境と山脈を含む高原、中部のステップ、西部のカスピ海沿岸低地である。西部低地は山脈より西側でヨーロッパに接していた。
「あそこ、空港じゃないよね?」
「わたしの協力者が支配する空軍基地よ。この飛行機、元々は米軍のステルス戦略爆撃機なの。それで、この機は同重量の金と同価値といわれるほど非常に高価だから放っておくわけにもいかないし、いろいろとメンテしなくちゃいけないからね」
搭載する航法コンピューターに備わった敵の軍事地理に関する情報を利用して、最も安全な飛行ルートを設定して飛行していた。
着陸時の衝撃に備え、乗員たちは粗末な座席に収まり、シートベルトを締める。美空もそれにならう。滑走路の路面をタイヤがとらえるとごうと音を上げ、遅れて機体が揺れた。
宇宙には行ったことあるけど、外国は初めてだななんて美空は思っていると、ブザーが鳴り、男たちはベルトを外して各々の役割を果たすべく動き出す。そういえば、美空はパスポートも旅券も持っていないが、入国審査ははたして大丈夫なのだろうか。
「はい、美空。こっちこっち」
操縦室にいたジョアンナがカーゴベイまで降りて来る。
「さっきも言ったけれど、とりあえずはここで相手の出方を見ましょう。そのうち、自ずとこちらの方向性も打ち出せるでしょうし。それと、情報収集ね。あとは身の回りの品々も調達しなきゃね」
美空とジョアンナはトレンチコートや帽子、それに度なしの眼鏡で必要最低限度の変装をして、機外に降り立つ。
砂漠の真ん中に無理やり作った航空基地といった趣で、周囲は閑散としている。
遠目には現代的な高層ビルが並び立つ地域もある。首都や経済特区は潤沢なオイルマネーがもたらす資金が投入され、豪華絢爛な建物が多く、高層ビルの建設ラッシュが続いている。
しかし、この周囲に点在している多くの建物は一昔もふた昔も前の建物で、細部までメンテナンスが行き届いていないのではないかと美空は思った。ただ、その古ぼけた感じがレトロで、情緒を感じさせる。
遠くからかすかにサイレンの木霊が聞こえてくる。ムスリムたちの祈りの時間だ。そのせいか、人影は寂しさを感じ取るくらい疎らだ。美空は場違いな感慨に耽りながら、先を行くジョアンナを追う。
不意に、先を歩いていたジョアンナが立ち止まる。美空は危うく立ちつくした彼女の背中にぶつかるところを寸前で回避した。
美空とジョアンナの目の前には、一台の角ばった武骨な大型四輪駆動車が止まっている。その横に立ったサングラスをかけた場違いなスーツ姿の伊達男はノートのようなものを掲げて、ふたりを待ち構えていた。
そこには、こう書いてある。
歓迎 榛木美空様。




