再会
「あ、和ちゃん、スプレー貸して」
体育の時間の後、私は制汗剤のスプレーを家に忘れたことに気づいた。
和ちゃんは、お洒落には疎いけど、香り付きのデオドラントスプレーは、必ず持参していた。
「あー、ごめん。今日忘れちゃったんだ」
「珍しいね」
「う、ん」
和ちゃんは頷くと、ゆっくりと校舎の中をクラスに向かって歩き始めた。
もうみんな、クラスに戻った後だった。
私と和ちゃんは、最後になってしまった。
「ねえ、葵。辛くない?」
「え?」
「葵が辛いんじゃないかって思って」
この日は、あの男、岩崎を殺した翌日だった。
「私? 私は辛いだなんて、思ってないよ?」
私は静かに言った。
「だって、あんな悪いヤツ、消えてしかるべきだよ」
と付け加えて言うと、和ちゃんは私の目をジッと見ながら、
「そう言うんじゃなくて。その、あの男の言葉で傷ついたんじゃないか……って」
心配そうに言った。
私は正直、あの男から何を言われたのか覚えていなかった。否、覚えているんだろうけど、覚えて居たくなかったのだ。
「何の事? 大丈夫だよ、私」
私は和ちゃんにピースサインを送った。
「葵のバカ」
和ちゃんは、笑いながら言った。
笑ってたけど、目は笑っていなかったことを、私は見逃さなかった。
「あ、急ごう。次始まっちゃう!」
私が言うと、和ちゃんは、
「次なんだっけ?」
と小走りで訊いて来た。
「英語」
「あー、教科書忘れた。貸して!」
そう言うと、ニタリと笑った。
「貸してもいいけど、どうせ寝るんでしょ?」
私がからかうと、和ちゃんは「へへへ」と笑い、私達はまた『日常』を取り戻した。
放課後、私と和ちゃんは一緒に下校していた。
不思議と私達二人には罪悪感が無かった。
人を一人殺したことで、私達の何が変わったかというと、何も変わっていなかった。
見つかったら、その時はその時だ。
14歳。
私達はまだ保護されている。
だけど、だから、自由なのに不自由なのだ。
「早く大人になりたいな」
和ちゃんが意外なことを言った。
「え? 生理になった時、大人は嫌だぁ、って言ってたじゃん?」
私が、笑いながら言うと、
「だって、早く楽になりたい」
と、和ちゃんは口をすぼめて言った。
「'楽’かぁ。分かる、それ」
私も賛同した。
「ウチ、今大変なんだよね、お母さんがさ」
和ちゃんが苦笑した。
「あ、もしかして、岩崎のことで?」
「そう、失恋したと思ってる。ウチのお母さんは、男に捨てられる度に荒れ狂うんだ」
うざったそうに和ちゃんは呟く。
「あー、ね」
「ああいう感じには、なりたくないんだ。私は絶対普通の幸せを見つけたい」
「……」
「何? なに黙り込んでるの? 葵は?」
「え……私、そこまで考えて……ない」
私は、ちょっと重苦しい気持ちになった。
「そか。そうだよね。皆それぞれだもんね」
私達は地下鉄へと向かって歩いて行った。
今
私は、公園の中を探し回った。
そして、見つけた。
間違いない。
あの簡素な腰掛け。そして、あの後姿。まさしく、和ちゃんだ。
一つ違うのは、私は和ちゃんのおさげ髪しか見たことが無かった。
今、見つけた和ちゃんの後姿は、ブラウンにカラーされた、長く艶のある髪が降ろされていた。
私はゆっくり歩を進めた。
「か……」
私が声を掛けようとした時、和ちゃんが振り向いた。
「久しぶり」
そう言うと和ちゃんは私の目を見据えた。
「和ちゃん?」
私は驚きを隠せなかった。
薄いベージュのワンピースを着た和ちゃんは、すっかり洗練された女性へと変身していたのだ。
「え? なに? そんなに変かな? 私の格好」
和ちゃんが、自虐的な目で訊いてきた。
「や、全然カッコ良い」
私は和ちゃんの顔をしげしげと見た。
「葵? 何なのよ、もー」
と、和ちゃんが困惑しながら笑った。
「や、変わったような変わんないような……」
私はそう答えるしかなかった。
和ちゃんはうっすらとメイクをしていた。
学生の頃はいつも黒ぶち眼鏡をしていた。
そうだ! 一度一緒にお風呂に入った時、眼鏡を取ったところを見たことがあるけど、あの時は泣いていて目が腫れていたっけ。
そう、あの時……。
「葵だって、変わったよ? 否、変わんないかな?」
アハハ、と声を立てて和ちゃんが笑った。
それから和ちゃんは、持っていた質の良い上品なブランドのバッグから小さな包み箱を取りだした。そしてそれをおもむろに私の前に差しだした。
「葵、誕生日おめでとう」
「え? あ、そか」
「開けて見て」
私は言われるがままに、箱を受け取り、ゆっくりと開けてみた。
そこにはピンクの口紅が入っていた。
「!」
私は驚きを隠せなかった。
それを見て和ちゃんが静かに口を開いた。
「それをどうしようが、葵の自由だよ。私達はもういい大人なんだもん」
「和ちゃん……」
私は、ゆっくりと口紅を取りだすと、和ちゃんに近づいて、その口紅をそっと引いてあげた。
和ちゃんは目を閉じて、されるがままになっていた。
私が離れると、和ちゃんはゆっくり目を開けた。
「葵……」
その目には涙が溜まっていた。
「だってもう、偽れなくなったんだ。自分の気持ちを」
僕はそこまで言うと、涙を流す和ちゃんを抱きしめた。
「葵……」
暫く僕たちは抱き合ったままでいた。
「……暑いよ。汗が出てきた」
和ちゃんが恥ずかしそうに言った。
そんなこと、僕だって同じだったけど、もう少しこうしていたかった。
「暑いって!」
和ちゃんが涙をこぼしながら、僕から離れようと抗った。
「うん」
僕は少し残念な気持ちになったけど、和ちゃんを離してあげた。
その時、夕方6時を示すチャイムが鳴り響いた。
僕は少し、センセイのことが頭をよぎった。
けど、自分の気持ちには嘘がつけなかったのだ。
僕と和ちゃんは公園を後にして、小さなカフェに入った。
そこは、小さいながらも古風でお洒落なカフェだった。
店内はお客が少なく、落ち着いた空間を醸し出していた。
「私、キャラメルマキアート、葵は?」
「僕は、ジンジャーエールを」
「かしこまりました」
店員はオーダーを復唱してから、頭をぺこりと下げて奥に下がった。
しばらく沈黙が続いた。
「なんか、アレだね。変な緊張がするー」
と、和ちゃんがヘラッと笑った。気のせいか、少し顔が赤かった。
「うん、分かる」
僕は極力明るく返答した。
「ね、葵……」
和ちゃんは思い詰めた様子で口を開いた。
「あの、あの日のことなんだけど……」
僕は少し考えてから、
「ああ、あの時の……」
「うん、そう」
心なしか、和ちゃんは言いにくそうに言葉を探しているようだった。
「それが、どうかしたの?」
僕は催促して訊いた。
「うん。実は……ね」
「うん」
僕は頷いた。
「……」
和ちゃんは下を向いて、考え込んでしまった。
「なに? 言いたくないことは言わなくていいんだよ」
僕は笑って続けた。
「和ちゃん?」
「うん、そだよね」
そこで、店員がオーダーした飲み物を持って来た。
「お待たせしました」
そう言って、僕たちの前にそれぞれの飲み物を置くと、またぺこりと頭を下げて、奥へと下がって行った。
このワンクッションで、僕たちの緊張は幾分か緩和された。
「これ、すごく美味しい!」
和ちゃんは目を輝かせて、子供のように笑った。
「僕のも、美味しい」
「ねえ、少し頂戴」
その言葉に僕は少し躊躇してしまった。
そんな僕にはおかまいなしに和ちゃんはジンジャーエールを手に取ると、スッとストローに口をつけた。
「本当だ。美味しいね」
そう言って無邪気に笑った。
続けて和ちゃんは言った。
「昔の私たちなら、こんな不自由な会話しなかったよね」
その一言は、僕の心を切なくさせた。
「不自由なのかな? 今の方が僕たちは自由じゃない?」
「そうだね、確かに」
和ちゃんは、笑った。
けど、泣いてる風にも見えた。それは、僕の気のせいか……。
「あの日、葵は私を助けてくれた」
和ちゃんはおもむろに昔の話をしだした。
「助けてもらったのは、僕の方だよ」
「ううん、違う。違うの」
和ちゃんは、大きく横に頭を振って否定した。
「なに?」
「だから、その……岩崎は生きてたの」
僕は一瞬、和ちゃんの言葉の意味が分からなかった。
「生きてた……って?」
和ちゃんは、こくんと頷くと、
「ごめんね、葵が傷つくかもしれないけど、本当のことを言うね」
と前置きしてから、せきを切ったように語りだした。




