揺らぎ
今
「ふぅ……」
私はさっきから、時計を見ては溜息を洩らしている。
それに気づいてたらしい小川さんが言った。
「そんなにお腹空いてるの? まあ、今日も暇だし、センセイも当分は戻って来ないから、ちょっと早いけど食べに出てもいいわよ」
それだけ言うと小川さんはまた、下を向いてレースの刺繍を編み始めた。
どうやら休憩時間を待っている風に見えたらしい。
「あ、いえ、全然そんなんじゃなくて……」
私は苦笑いをして、自分のデスクから立ち上がり、そっと事務所の窓際へと移った。
「あ、雨……」
外はよく見ないと分からないほどの小雨が降っていた。
私は今、雑居ビルの3階にある事務所から、向かい合った公園を歩いて行くカラフルな傘を見つめている。
こうしてデスクから離れて何をしようが自由な職場なのだ。
うーん、そこまで言ってしまってはセンセイに失礼かな。
この事務所は設計士の安西センセイと事務の小川さん、それからアシスタントと言えば聞こえが良いだけの雑用係の私との3人で構成されている。
ちなみにセンセイは、ここで仕事をするよりも喫茶店などで構想を練るのを好む。センセイが帰ってくるのは、私達が退社する頃が多い。
事務担当の小川さんは40代半ばの普通の奥さんで、お子さんも大きくなり手が離れたのをきっかけに、ハローワークからの紹介でここで働くことになったらしい。
「葵ちゃん、で良いかな? まだ19歳なんだってね。ここは本っ当に良い職場よ」
と、1年前に初出勤の私に満面の笑みを浮かべて言った小川さんの言葉に嘘は無かった。
私は、この職場がとても好きだ。
私はもう一度事務所の時計に目をやった。
10時を少し過ぎただけ。さっきから何分と経ってない。
約束の時間までまだまだ時間がある。
私はどうしたいのだろう。
答えが出ないままに時間だけがするすると経って行く。
さて、どっちをとる?
今日、私はハタチになる。
私は、自由なのに不自由だ。
「なぁんてね……」
小さく言葉を吐くと、ちょっと切なくなった。
私はもう一度、窓から外の景色に視線を落とした。
色んな色の傘が四方八方に散らばっている。
芝生の緑が背景になって、さながら緑に塗られたキャンバスに色とりどりの絵の具が飛び散ったように見える。
まるで、一つの絵画のよう……。
ふと、私はこの中に『彼女』が混じっているような気持ちになった。
「もしかして……」
私は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、行き交う傘を一つ一つ見てみた。端から端まで目を凝らして『彼女』を探す。
「葵ちゃん?」
背後から小川さんが、心配して声をかけて来た。
「大丈夫?」
私の様子がおかしかったのだろう。
「バカバカしい……」
私は小さく自嘲して、事務所の方に向き直り、窓に背をあてながらずるずるとしゃがみ込んでしまった。
私は泣いていた。
小川さんが静かに私の肩に手を添えて、デスクまで連れて行ってくれた。
「何も聞かないけど、今日は帰った方がいいと思うわ」
「傘……」
「え? 傘がどうかしたの?」
「……いいえ、何でもないんです」
「私からセンセイに言っとくから」
小川さんは優しく諭すように言った。
「大丈夫です。ちょっと休ませてもらえれば」
「そう? じゃあ、そこのソファに横になって」
小川さんは私をソファに寝かせると、「何かあったら言ってね?」と声をかけ、静かに自分のデスクへと戻った。
「傘……。あの傘はどうなったんだろう?」
私は目を閉じて、頭の中に浮かんでくる、あの傘のことに想いを馳せた。
全ては傘から始まったと言っても過言ではない。
あの傘のお陰で、私は運命的な出会いを果たしたのだ。
「和ちゃん……」
私は切ない気持で、小さく呟いた。
私達は14歳だった。
まだ人を愛するということを知らない、無知で凶暴に純粋なお子様だったのだ。
人は時に年月を経て気付くことがあることを知った。
「許してね、和ちゃん……」
その時、ザーッと音がした。
雨が激しく降り出したようだ。
雨粒は窓ガラスに激しく当たってバタバタと音を立て始めた。
風も強くなって来たらしい。
窓から入って来る隙間風で、ソファの横に置いてあるドラセナの香りが優しく私の方に漂って来た。
「ドラセナの花言葉を知ってる?」
センセイの声が頭に蘇った。
ドラセナの花言葉……確か、確か……何だったんだろう?
そんなことはどうでもいい。
いや、よくない。
傘……。ドラセナ……。
「和ちゃん……、和ちゃ……」
ドラセナの香りが強く香りだし、私は次第に意識が遠のいて行った。
昔
「ね? どう?」
午後の公園は幼い子供を連れた母親や、お年寄りの姿、サラリーマンなど、色んなタイプの人々で賑わっていた。
和ちゃんと私は木で出来た簡素な腰掛けに向き合って座っていた。
「こんなの嘘だよ」
私が言うと、和ちゃんは少し眉をしかめて、真面目に語る。
「だって、雑誌に書いてあったの。赤い糸が切れた時に想いが通じるって」
「でも私、好きな人とかいないもん」
私が言うと、和ちゃんはプイと目を反らし立ち上がった。
「葵はダメねぇ。今、トキメかないで、いつトキメクの?」
そういうと和ちゃんはニタっと笑った。
私は『和ちゃんは? 好きな人とかいないの?』と言いかけたが、止めた。
変わりに、
「じゃあ、和ちゃんにも結んであげる」
そう言って、左の薬指に赤い糸を結んであげた。
気のせいか、和ちゃんの顔が少し高揚したように見えた。
「うん、ありがと」
それだけ言うと和ちゃんは公園の中を歩き出した。
私は急いで和ちゃんを追った
和佐こと和ちゃんは、私にとって唯一無二の友達だった。
私にはコンプレックスがある。それも沢山。
一つ、背が高いこと。
一つ、ニキビがひどいこと。
一つ、胸が小さいこと。
一つ……挙げだしたら切りがない。
コンプレックスを抱いた私は、無口で暗く陰鬱な存在だった。
だから、私はいつも一人だった。
中学校に入って、和ちゃんと出会うまでは。
和ちゃんは、なんというか、その、少し、変なコだった。
セーラー服に三つ編みの髪型で、いつもメガネをかけていた。
お世辞にも『可愛い』とか、『綺麗』とか言えるタイプではなかった。
この十代という多感な時期、女の子なら誰でもオシャレに目覚めるのに、和ちゃんは全く無頓着だった。
だから、私達二人はプカリと浮いていた。
話すようになったのは、席替えで隣同士になったことから。
和ちゃんは、とにかく変なコだった。
授業中は教師に見つからないように上手に寝る。
私の方がいつ見つかるか、ハラハラしたりしていた。
そのくせ、成績はいつもトップクラスだった。
そして、『忘れもの』がとにかく多かった。
いつもシャーペンの頭で私の腕をツンツンしては、『教科書忘れた。見せて』と、無愛想に言うのだった。
何度、机を寄せて授業を受けたことか。
そうして、私達は少しずつ話すようになった。
「あ、雨だ。葵、雨降ってるよ」
前を歩く和ちゃんが嬉しそうに空を見上げて言った。
「ええー、傘持ってない!」
私が嘆いていると、和ちゃんはくるりと私の方に向き直って、嬉しそうに言った。
「傘なら持ってる。すっごく可愛いのを」
和ちゃんはそう言って、鞄の中から折りたたみの傘を取りだした。
「ほら! 素敵でしょう?」
和ちゃんが誇らしげに広げた傘を見た私は、言葉が出なかった。
放心状態の私に、和ちゃんが走り寄って来て、傘を差しかけてくれた。
「これ作るのに、土日、二日間もかかちゃった」
私の気持ちを知る由もない和ちゃんは、
「葵の方が背が高いから、持ってくれる?」
と、嬉しそうに言う。
「あー、うん」
私は和ちゃんを傷つけないように、優しく言った。
「和ちゃんは最高のデザイナーになれるよ」
「そう?」
結局和ちゃんと私は、その傘に二人で入って帰路に就いたのだった。
ちなみに、その傘がどんなものだったかというと、紫と黄色のツートンカラーをベースに赤の水玉模様が入っているものだった。
更に余談だけど、ペンキで塗ったものだったので、途中でぽろぽろと剥げ落ちてきた。
私と和ちゃんの家は近かった。
公園を出て地下鉄に入ると、ようやくあの傘から解放されて私は正直ホッとした。
「今日、ママいないんだけど、遊びに来る?」
ふいに和ちゃんが言った。
和ちゃんのお母さんは、和ちゃんのママでもあるし、お店のお客さんの『ママ』でもある。
「あー、行きたい」
私ははしゃいで言った。
和ちゃんは変わってるコだけど、やっぱりそこは女の子同士、ガールズトークを楽しみたい。
和ちゃんの家には何度か行ったことがある。
母親が『ママ』という職業柄、和ちゃんは豪華なマンションに一人で居ることが多かった。
「どうぞ、あがって」
今日も出勤したのか母親はいなかった。
「お邪魔します」
私達は家に入るとすぐに和ちゃんの部屋へと向かう。
そこはもの凄く散らかっていて、原稿用紙や油絵のキャンバス、絵具などが散乱していた。
まあ、初めて見た時は驚いたけれど、今は慣れたもので、ササッと余計なものをどけて座る場所を作ると、案外居心地が良かったりした。
「あー、これ買ったんだ」
私はテーブルの上にあったCDを手にした。
「ああ、東京少女のCDね」
「うん、良かった?」
「すっごい、良かった!」
「じゃあ、私も買おうかな」
私達は他愛のない話で笑い合ったりした。
和ちゃんは変わったコだけど、私は和ちゃんのことが好きだった。
でも、時々和ちゃんは顔を曇らすこともあった。
その時、ガタンと玄関の方で音がした。
私達はビクッとして、そっちを見た。
「なんだ、チビ共か」
そこに現れたのは、40代くらいの男だった。
「何勝手に人の家に入ってくんのよ!」
和ちゃんがキツイ顔で怒鳴った。
「ママは? 店か?」
「だったら、何よ?」
「お前じゃ、話にならんな」
男は嘲ると、私の方を見た。
「なんだ、こっちのショートカットのコ、可愛いじゃん」
私は男を睨んだ。
「ババアも飽きてきたな。そっちのコ、よろしく」
そう言って、私に握手しようとして来た。
とっさに和ちゃんが、男の手を払った。
「出てって!」
和ちゃんが強く言った。
男は『チェッ』と舌打ちすると、冷蔵庫からビールを取りだし、飲みながらマンションを出て行った。
私達は、しばらく動けずに、男の出て行ったドアが閉まるのを黙って見ていた。
「アイツ、お母さんの新しい恋人なんだ……」
憎々しげに和ちゃんが口を開いた。
「……和ちゃん、気をつけた方が良いよ」
「私は大丈夫。葵に何かあったら許さない」
「和ちゃん……」
「葵にだけは言っとくね。私、最近これ持ち歩いているの」
和ちゃんが制服のスカートから取りだしたのは、サバイバルナイフだった。
「和ちゃん」
「分かってる。分かってるよ、葵」
和ちゃんは、悲しそうな顔になった。
「分かってるけど、これに頼るしかないの。あの男は危険だわ。私には分かるの。いずれ何か起こすって」
和ちゃんは私の目をジッと見つめて、
「だから、守りたい者は私が守るの」
「それじゃ、あの男と同じになっちゃうよ」
私が、心配してそう言うと、和ちゃんは下を向いて肩を揺らし始めた。
「和ちゃん、泣かないで」
心配する私に、和ちゃんは顔を上げて笑った。笑っていたのだ。
「ふっ、あはははは……」
「和ちゃん?」
「思春期の少女を舐めてもらっちゃ困るのよ!」
そう言って、和ちゃんは私に顔を近付けると、
「葵、私、負けない。例え、何があってもね」
と笑った。
その瞳の奥には野獣の目のような輝きがあった。
私は和ちゃんに尋常じゃない何かを感じ取って、少し背筋に寒気が走った。
「どうしたの、怖いの? 葵?」
「怖いよ。怖いけど……キレイ」
「何が?」
和ちゃんは、拍子抜けしたように訊いて来た。
「和ちゃんが、キレイに見えた」
「うふふ、ありがとう」
「あは、あはは」
「ふふふ」
私達はクスクスと笑いあった。
私達はしばらく肩を寄せ合って笑った。
その時、ふいに和ちゃんがお腹を抱えた。
「痛ッ」
「どうしたの?」
「なんか、お腹が痛い」
和ちゃんは、しばらく顔をしかめていた。
「大丈夫?」
私が心配して顔を覗きこむと、
「あ、なんか落ち着いた……みたい」
と和ちゃんは顔を上げてニタっと笑った。
「良かった」
ホッとする私に、
「何か飲み物持ってくるね」
と和ちゃんが立ちあがった。
「あ……」
和ちゃんの動きが止まった。
「え?」
私は何が起こったのか、まだ分からなかった。
おもむろに和ちゃんは下を向いた。
「糸……」
和ちゃんが呟く。
「え?」
「ほら、赤い糸」
そう言って私の方に向き直り、スカートから伸びた足を見せた。
和ちゃんの足には赤い糸が絡まっていた。
「あ……」
一瞬、それは確かに赤い糸に見えた。
けど今はそれは蛇が這うが如く、和ちゃんのふくらはぎの辺りまで流れでた『血液』であることが確認できた。
私には、それが何かすぐに分かったけど、敢えて何も言わずに和ちゃんの顔を見上げた。
「あ~あ、大人になっちゃった、残念!」
和ちゃんは初潮を迎えた自分に嫌悪しているようだった。
こんな時、何て言えばいいのかな? 私は頭の中でぐるぐると考えた。
「えっと……」
「葵、大人になっても仲良くしてね」
困惑している私にそう言うと、和ちゃんは違う部屋へと姿を消した。
「あ、うんっ!」
ポカンとしていた私は、それだけ言うのが精いっぱいだった。
暫くして和ちゃんはジュースを持って部屋へ戻って来た。
「葵、ごめん。はい、これ」
「ありがとう」
私は和ちゃんからジュースを受け取った。
「まだ、飲んじゃダメだよ」
和ちゃんはそう言うと、私の前に正座して座った。
「あれ?」
私が気付くのと同時に和ちゃんが言った。
「そう、これ、赤ワイン」
「ワイン?」
「私達、ずっと仲良くしよう。この先離れることがあっても、いつか何処かで会おうよ。大人になっても……。これは誓いの儀式だよ」
そう言うと和ちゃんはコップのワインを飲んだ。
そして次の瞬間、私の唇にワインの香りが広がった。
私はギュッと目を閉じて、ワインを受け入れた。
口元から少しワインがこぼれて、セーラー服についた。
でも、そんなの気にしない。
私は柔らかい感触が離れるのを確認してから、ゆくっり目を開けた。
「そんなに驚かないで、葵。次は葵の番だよ」
私は突き刺すような視線を送る和ちゃんに抗えなかった。
渡されたワインを口に含むと、ゆっくりと和ちゃんの唇に触れた。
和ちゃんの唇は、当たり前だけどワインの味がした。
しばしの沈黙……。
そして、ゆっくりと顔を離した。
「……ありがとう、葵」
和ちゃんは泣いた後のような目で、私を見つめた。
「葵、お酒弱いね、多分」
そう言って、クスッと和ちゃんは吹き出した。
「え? 本当? もしかして真っ赤っか?」
「うふふ、真っ赤だよ」
「うそうそ、嫌だあ」
私達はまた、笑いあった。
「今日のことは二人の秘密だよ」
「分かってる」
私達はこの日、確かに誓ったのでした。
この先、何かがあって離れ離れになっても『二十歳になったら再会しよう』と。
そう、確かに誓ったのです。
今
「ん……」
私は、ガチャーンという音で気がついた。
パッと起き上がると、小川さんが私の方を見ていた。
「あ、ごめん。やっぱ起こしちゃった?」
申し訳なさそうに小川さんが口を開いた。
「どう? 気分は?」
そうでした。
私は今仕事中だったのだ。
「あ、もう全然大丈夫です。すみませんでした」
私はそう言うと、今の状況を把握すべく小川さんの足元に目をやった。
小川さんの足元にはコーヒーカップの残骸が散乱していた。
「そそっかしいのよね、私。ごめんねぇ、葵ちゃん」
小川さんはそう言って、片づけ始めた。
私も小川さんの元へ行き、一緒にしゃがんで片づけ始めた。
「あ、いいのよ、葵ちゃん。私が片づけるから。それより、お昼になったけどここで食べる? だったら葵ちゃんのコーヒーも淹れるけど」
「えっ?」
私は顔を上げ、事務所の壁に掛っている時計に目をやった。
「うそー」
時計の針は12時を少し過ぎたところにあった。
「何? 約束でもあるの?」
「いえ……いえ、無いんですけど」
私が困惑していると、小川さんは心配そうに言った。
「大丈夫? 葵ちゃん、今日はいつもと違うわね。無理することないのよ。早退したら?」
「……」
私は暫く考えてから、
「すみません。早退します」
と、小川さんに謝ってから、帰り支度をし始めた。
小川さんはコーヒーを飲みながら、話しかけてくる。
「でもホント、葵ちゃん、背え高いし、顔小さいし、細くてショートカットが似合ってて、モデルさんみたい」
「そんなことないです」
私は謙遜して答えた。
「あ、そうだ。センセイには私から伝えておくね、早退のこと」
「あっ……は、い」
私は一瞬固まったけど、何もないように「お願いします」とだけ答えて、事務所を後にした。
外に出ると、雨はすでに止んでいた。
あの激しい雨は通り雨だったのだろう。地面はすでに乾いていた。
何気に空を見た。
そこにはグレイの雲が広がっていた。
「今の私みたい」
ふと、そう思った。
いつまで経っても、幾つになっても、どっちつかずのグレイゾーン。
今日、私はハタチになる。
……だから、何?
自問自答してみる。
本当に私、どうしたいんだろう。
私の気持ちは張り裂けそうなほどの迷いを抱いている。
私はバッグの中から、赤い封筒を取りだした。
赤い封筒を見ていると、激しい切なさに襲われる。
封筒は、1週間前に一人暮らしをしているマンションのメールボックスに入っていた。
宛名は『葵へ』とだけ書かれていた。
私はすぐに『和ちゃん』からだと分かった。
でも、それを見つけた時にあけるのをためらった。
何故? それは……。
私だって覚えてる。切ないくらいハッキリと。
あの日、私と和ちゃんは儀式をした。そして誓った。
『離れ離れになっても、大人になったら会おうね』
和ちゃんの声が頭に響いた。
どうすればいいの?
あの儀式で誓ったことは事実だし、会いたい。
会って……会ってそれから……。それから、どうするの?
私は声をかけてくる男どもを無視して、真っすぐに自分のマンションに向かった。
私は中学を卒業すると父の仕事の都合で北海道に移った。
母親は幼い時に亡くしている。
あの頃、私は子供で、親の保護が無ければ生きていけなかった。
それは誰でもそうだろう。
和ちゃんだって、そうだ。
私達は、再会を誓って、別れの日を迎えた。
泣いたのは、私だけだった。
和ちゃんは、空港まで見送りに来てくれた。けど、涙は見せなかった。だから私は泣いた。彼女の心は多分私以上に泣いていたのだろう。だから、私は泣いた。泣くことしか出来なかった。
それが和ちゃんとの最後のガールズトークとなった。
私は帰宅するとソファに腰掛け、赤い封筒を手に取った。
『葵へ』
それだけ書かれている。
この封筒を見つけたのは、1週間前。
実は、私は怖くて開けることが出来なかった。昨日までは。
昨日、私はある人から、プロポーズを受けた。
彼は誠実で、優しい。
私には勿体ないくらいの、出来た人。
でも、だけど……。
迷いが修まらない。
私は愛されている。
じゃあ、私の気持ちは?
彼を愛してるの? 本当に? それは、どのくらい?
葛藤に葛藤を重ねていた時に、あの『儀式』で誓ったことを思い出すのだ。
和ちゃんからの赤い封筒は、私の気持ちを更に迷わせた。
今、私も和ちゃんも、一人で生きていける。
あの、離れ離れになった時のような子供ではない。
なのに、私には和ちゃんに会う勇気が浮かんでこない。
会えば……会えば、多分どちらも傷つく。
それが、怖いのだ。
私は昨日、一大決心をして赤い封筒を開けた。
そこには、こう書いてあった。
『葵、もうすぐ20歳のお誕生日だね。覚えてる? あの日の約束を。今、私は葵のすぐ近くに住んでいます。誕生日の日の6時に‘ギャラリー岡’で、私を見つけて』
文中にあるギャラリー岡とは、和ちゃんとよく絵画を見に足を運んだお店だった。
あの、上品で凛とした店主のマチ子さんは、ご健在だろうか?
マチ子さんは当時ですでに80歳くらいの年齢に見えた。
私と和ちゃんはが年齢を訊いても教えてはくれなかった。
『あなた達、女はね、秘密を沢山持ってると、幾つになっても綺麗でいられるのよ』
確か、そんなことを言われた気がする。
『秘密』かぁ。
そんな重たいもの欲しくはなかった。
私は昨日、この封筒を開けた時、今にも走ってギャラリー岡に行こうと、何度思ったことか。
けど……けど、私を足踏みさせるのは、‘あの日’の出来事だった。
「はぁ……」
私は大きな溜息を吐くと、掛けていたソファに横たわった。
時計を見ると、1時を過ぎていた。
「あと、5時間か……」
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
今日は私のハタチの誕生日。
彼と6時に待ち合わせている。
多分、今日正式にプロポーズされ、指輪を渡されるだろう。
「なんで、こんなに苦しい人生しょってんだ。私はまだまだ子供なのに」
私はシャワーを浴びることにした。
浴室に向かうと衣服を脱ぎ、鏡に映った自分を見つめた。
それから、鏡の下の洗面台に置かれた二つの歯ブラシに目をやった。
「好きよ、多分。……でも」
そこまで言うと私は深呼吸して、シャワールームに入った。
何もかも洗い流したい。
どっちつかずの自分も。
私は嗚咽を漏らした。
シャワーの水が私の涙を綺麗に洗い流してくれる。
ふと、足元に目をやると、私はハッとした。
「血?」
よく見ると赤い糸がシャワーの流れに逆らって、排水溝の蓋に引っ掛かっていた。
私は赤い洋服は着ない。
「そっか。昨日センセイは赤い服着てたっけ」
私は、赤い糸を指で軽く押して、排水溝へと落とした。




