遠くて近い刻限
――転生。
狩生はその現実をまだ受け入れきれず、ふわふわとした心持ちにあった。
すると、病室の扉が、静かにノックされた。
「失礼するよ」
低く落ち着いた声とともに入ってきたのは、威厳をまとった壮年の男性だった。背筋は伸び、軍人のような鋭さを感じさせるが、目元には深い疲れが滲んでいる。
その後ろに、小柄な少女が隠れるように立っていた。
金髪のおかっぱ、りんごのような頬の可愛らしい少女だ。
視線は床に落ち、時折こちらをちらりと見ては、怯えたように肩をすくめる。
二人とも〝人間〟だ。角を持つ狩生とは違う。
男性は少女の肩に手を置き、優しく言った。
「アデーレ、少し外で待っていなさい。すぐに終わる」
「……はい、お父さま」
少女は小さく会釈し、看護婦に連れられて廊下へ出ていった。
その背中は、どこか不安げで、頼りなげだった。
扉が閉まると、男性は深く息を吐き、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「フランツ……今は無理に思い出さなくていい。まずは落ち着いて聞いてほしい」
フランツ――その名前を聞いて、狩生はこの身体の名前だと悟った。
疲れた様子の彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「君の両親、ゲオルクと奥方は……自動車事故で亡くなった」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
前世の記憶と混ざり、何が何だか分からなくなる。
(僕の……両親が……)
「君も事故に巻き込まれたが、奇跡的に命は助かった。だが……」
彼はフランツの角に一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「君を引き取れる親族は、もういない。だから……スタインドルフ家が、君を養子として迎えることになった」
言葉の意味は理解できる。
だが、心が追いつかない。
「……すみません。僕は……その……」
何を聞かれても、答えられない。
前世の記憶はあるが、この世界のフランツとしての記憶は完全な空白だ。
「記憶が……あまり、なくて」
アルフレットは驚きもせず、ただ静かに頷いた。
「医師からも聞いている。事故の衝撃で、記憶に障害が出ている可能性が高いと。無理に思い出そうとしなくていい。ゆっくりで構わない」
低く、柔らかい声だった。
フランツをどうにか安心させようとしているかのように。
続けて、彼は少しだけ表情を引き締めた。
「……私はベリエ王国軍の将軍、アルフレット・スタインドルフだ。ヨーロッパ大戦のあと、君の父ゲオルクと共に〝あるもの〟を開発していた」
「あるもの……?」
「私と君の父――二人の設計思想を反映した、新しい戦車だ」
フランツは息を呑んだ。
そんな話は、もちろん知らない。
「……すみません。やっぱり……覚えていなくて」
アルフレットは短くため息をついた。
だが、すぐに首を振り、申し訳なさそうに言った。
「いや……こちらこそ、すまない。思い出せと言っているようなものだったな」
その声音には、少年を追い詰めまいとする配慮があった。
それが逆に、フランツの胸に小さな棘を残す。
(……僕は、嘘をついているわけじゃない。でも……『覚えていない』と同じ言い訳繰り返す度になんか……)
情けない。あるいは、後ろめたい気持ちが狩生の胸を満たした。
前世の記憶は鮮明にある。
なのに、この世界の「フランツ」としての人生は、まるで他人のものだ。
アルフレットは椅子から立ち上がり、静かに言った。
「フランツ。これからは、私たちが家族だ。安心していい」
安心――その言葉は、今の彼には到底呑み込めないものだった。
だが、彼は小さく頷いた。頷くしかなかった。
「……はい」
その返事は、少年の声でありながら、どこか覚悟を含んでいた。
◆◆◆
スタインドルフ将軍が病室を去ると、静けさが戻った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
フランツ――いや、狩生悠真の意識を引き継いだ少年は、胸の奥に重いものを抱えたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
(……両親が、いない)
前世でも、災害派遣で多くの死を見た。
だが自分の家族の死という現実は、また別の痛みを伴った。
そこへ、蹄の軽い音が近づいてくる。
「フランツ坊や、少しお話いいかい?」
セントールの看護婦が、カルテを抱えて入ってきた。
彼女は柔らかい笑みを浮かべ、ベッド脇に立つ。
「怪我の具合は順調だよ。今日から少しずつリハビリを始めようね」
「……リハビリ、ですか」
「そう。まずは歩く練習から。ええと――」
看護婦は壁に掛けられたカレンダーへと歩き、赤いペンを取り出した。
「今日の日付に印をつけておこうね」
彼女のその動作は何気ないものだった。
だが、フランツの視線は自然とカレンダーへ吸い寄せられる。
看護婦がペン先で示した日付。
1925年 4月 12日
その数字を見た瞬間、フランツの心臓が跳ねた。
(……1925年?)
呼吸が浅くなる。
前世の記憶が、冷たい波のように押し寄せた。
1939年――
彼のいた前の世界は、あの年に〝第二次世界大戦〟に突入する。
つまり、あと14年で、この世界は地獄に沈む。
確信に近い予感が彼を打った。
看護婦はフランツの変化に気づく様子はなかった。
ただ、「明日はもう少し長く歩けるといいね」と優しく話し続けている。
その声はフランツの耳にはほとんど届いていなかった。
(……僕は、また《《あれ》》を見るのか)
災害派遣で見た瓦礫の山。
助けられなかった命。
そして――その地獄に〝適応してしまった〟自分。
胸の奥が、重く沈んだ。
看護婦は最後に微笑み、「無理しないでね、坊や」と言って病室を出ていった。
蹄の音が遠くなり、病室に再び静けさが落ちた。
狩生は深く息を吐き、目を閉じる。
その暗闇の中に、ふと――
怯えたように父の背に隠れ、こちらをちらりと見上げた少女の姿が浮かんだ。
アデーレ。
瞳を不安に揺らしたあの少女は、戦争が始まる時、いくつくらいになるだろう。
おそらく二十歳前だろうか。
きっと、あの子は自分の力ではどうにもできない大きな波に飲まれてしまう。
(……あの子も、戦争の中に放り込まれるのか)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
それは恐怖でも義務でもない。
もっと静かで、もっと個人的な感情。
気づけば、彼の中にひとつの思いが沈んでいた。
――せめて、あの子だけは。
守ると口にしたわけではない。
そんな大げさな誓いではない。
ただ、あの怯えた瞳を戦火に染めたくないという、
小さくて、しかし確かな願い。
その願いが、彼の胸の底に静かに根を下ろした。




