婚約破棄した元婚約者から、毎週ポエムが届きます。お願いですから、家賃は自分で払ってください。
婚約破棄から三か月。
ようやく平穏な日々を取り戻した私のもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、元婚約者のヴィクトル様。私との婚約を一方的に破棄して、別の女性を選んだ男性である。
「……今さら、何のご用でしょう」
私は封筒を開いた。中には上質な便箋が一枚。美しい筆跡で、こう書かれていた。
『愛しい君へ。
君を手放したあの日、僕は自由を手に入れたと思っていた。
だが、自由とは孤独の別名だったのだ。
夜空の星が僕に問いかける。
「お前の本当の幸せはどこにある?」
答えは、もうわかっている。
君だ。
君こそが、僕の帰るべき場所だった。
もう一度、僕の隣で笑ってほしい。』
「お断りします」
私は便箋を畳んだ。そして、机の引き出しにしまった。
婚約破棄されたときは、確かに悲しかった。五年間も婚約者として付き合ってきたのだから、当然だ。
けれど、今ではむしろ感謝している。あの方と結婚せずに済んだのだから。
◇
私とヴィクトル様の婚約は、両家の合意によるものだった。
ヴィクトル様は伯爵家の嫡男。私は裕福な商家を母体とする子爵家の娘。家格では向こうが上だが、財力ではこちらが上。父は伯爵家との縁を望み、伯爵家は我が家の資金力を必要としていた。
そういう婚約だった。
もっとも、私はそれなりに真面目に婚約者を務めていたつもりだ。
伯爵家の屋敷に通い、使用人の配置を整え、季節ごとの贈答品を選び、宴席の準備も手伝った。伯爵家の財政が苦しいと聞けば、父に相談して援助を取り付けた。
もちろん、結婚すれば自分の家になるのだから、苦労とも思わなかった。
ところが三か月前。ヴィクトル様は、私にこう告げた。
「僕は真実の愛を見つけた。君との婚約は破棄する」
お相手は、社交界で知り合った美しい令嬢だった。彼女は私と違って、自由で、情熱的で、詩を愛する女性なのだという。
「君は何でも現実的に考えすぎる。愛とは、もっと美しいものなんだ」
そう言われた。
なるほど。
私はその日のうちに父へ報告した。父は伯爵家と協議し、婚約解消の手続きを進めた。伯爵家側からの一方的な破棄だったため、違約金も支払われた。
それまで我が家が行っていた資金援助も、当然ながら終了した。
そして私は、自由になった。
ヴィクトル様が求めていた自由とは違って、実に快適な自由だった。
◇
一週間後。二通目の手紙が届いた。
『僕の太陽へ。
君が去ってから、屋敷の花は枯れてしまった。
食卓からは彩りが消え、朝の紅茶からは香りが失われた。
どうしてだろう。
君がいた頃は、すべてが輝いていたのに。
ああ、そうか。
花を育て、茶葉を選び、料理人に献立を伝えていたのは君だったのだね。
君は僕の人生に咲く、ただ一輪の薔薇だった。
どうか帰ってきておくれ。』
「庭師と料理長も辞めたのですね」
私は静かに便箋を畳んだ。
実際、伯爵家では使用人の削減が始まっているらしい。我が家の援助がなくなったのだから、仕方がない。
もっとも、庭師も料理長も、私が個人的に雇っていたわけではない。伯爵家が正式に雇用していた使用人だ。私は予算の管理を手伝っていただけである。
その予算が足りなくなれば、人員を減らすしかない。それだけの話だ。
「お嬢様、また例のお手紙ですか?」
侍女のマリーが尋ねた。
「ええ。今度は薔薇になったわ」
「薔薇、ですか?」
「私がいないと枯れてしまうそうよ」
「まあ。それは大変ですね」
マリーは真顔で言った。
「水を差し上げてはいかがでしょう」
「本人に?」
「はい。頭から」
私は紅茶を吹き出しかけた。
◇
さらに一週間後。三通目が届いた。
『運命の君へ。
今夜、僕は一人で夕食を取った。
銀の食器も、白いクロスも、もう必要ない。
君のいない食卓に、豪華な料理など似合わないから。
固いパンを噛みしめながら、僕は思う。
真実の愛に、贅沢など必要ない。
ただ、君がいてくれればいい。
そして、できれば温かいスープも。
愛している。』
「料理人どころか、食費も削られたようですね」
私は便箋を置いた。
「お嬢様、今度は何になられたのですか?」
「今度は温かいスープよ」
「まあ。前回は薔薇でしたのに」
「次はパンになるかもしれないわ」
「それでは食べられてしまいますね」
マリーは真剣に心配してくれた。
ところで、ヴィクトル様は一体何を考えているのだろう。
私は返事を一度も出していない。それなのに、毎週欠かさず手紙が届く。しかも、内容が少しずつ変化している。
最初は星と運命。次は花と紅茶。今回はパンとスープ。
恋文というより、生活報告ではないだろうか。
「……まあ、元気に暮らしているようで何よりね」
「固いパンを食べているそうですが」
「食べられるものがあるなら大丈夫よ」
私はそう答えた。
◇
四通目は、少し様子が違った。
『僕の永遠の星へ。
人々は僕を理解しない。
父は僕を愚か者と呼び、母はため息をつく。
友人たちは僕から離れていった。
だが、構わない。
真実の愛を知る者は、いつだって孤独なのだから。
昨日、父から屋敷を出るように言われた。
きっと、僕たちの愛を試しているのだろう。
君さえいれば、どんな試練にも耐えられる。
明日からの住所は、追って知らせる。』
「住所は結構です」
私は思わず声に出した。
マリーが首を傾げる。
「どうなさいました?」
「ヴィクトル様、屋敷を出るそうよ」
「まあ。ご結婚なさるのでしょうか?」
「それが、違うみたい」
実は、婚約破棄の原因となった令嬢との交際は、すでに終わっているらしい。理由は知らない。ただ、伯爵家の経済状況が悪化した頃から、二人の姿を社交界で見かけなくなったと聞いている。
伯爵家としては、家を立て直す必要がある。そのため、ヴィクトル様にも家業を手伝うよう求めたそうだ。
ところが本人は、愛について考える時間が必要だと主張したという。
伯爵様が怒るのも無理はない。
「それにしても、屋敷を出るなんて大変ですね」
マリーが言った。
「そうね」
「これからどうなさるのでしょう?」
「働くしかないんじゃないかしら」
「ヴィクトル様が?」
「ええ」
マリーは少し考えた。
「……お仕事、できるのでしょうか?」
私は答えられなかった。
◇
五通目が届いたのは、それから十日後だった。
封筒が変わっていた。以前のような高級紙ではない。町の文具店で売っている、ごく普通の封筒だ。便箋も薄い。そして、字が少し震えていた。
『我が魂の片割れへ。
今日、僕は初めて自分の手で銀貨を稼いだ。
汗を流し、荷を運び、夕暮れまで働いた。
君にふさわしい男になるために。
この手の傷は、愛の証。
この腰の痛みは、誠実さの証。
この足のまめは、未来への希望。
だが、なぜだろう。
今日は腕が上がらない。
明日も仕事があるというのに。
君の愛があれば、きっと治るはずだ。
返事を待っている。』
「湿布を買ってください」
私は心からそう思った。
「お嬢様、とうとう働き始めたのですね」
マリーが感心したように言った。
「ええ。立派なことだわ」
「では、お返事を?」
「出さないわよ」
「ですよね」
私は少しだけ安心していた。
ヴィクトル様は、少なくとも自分で働いてお金を稼ぐようになった。それは良い変化だと思う。
伯爵家の嫡男だった頃は、何もかも使用人任せだった。自分の衣服がいくらするのかも、毎日の食事にどれだけ費用がかかるのかも知らなかった。
そんな方が、自分の手で銀貨を稼いだのだ。大きな進歩ではないだろうか。
もっとも、恋文を書く元気があるなら、仕事の後は早く寝たほうがいいと思う。
◇
六通目。
それは、これまでで最も奇妙な手紙だった。
『愛しい、愛しい君へ。
君は太陽。
僕は月。
君が照らさなければ、
僕は輝けない。
君は大地。
僕は花。
君が育てなければ、
僕は枯れてしまう。
君はパン。
僕は空腹。
君は毛布。
僕は寒い。
君は家賃。
僕は滞納。
……いや、違う。
僕が言いたいのは、
愛とは支え合うことだ。
だから、どうか僕を支えてほしい。』
私は三回読み返した。
「……最後の二行だけ正直ですね」
「お嬢様?」
「マリー。ヴィクトル様が、とうとう家賃になったわ」
「家賃?」
「正確には、私は家賃で、あの方が滞納らしいの」
マリーは黙った。そして、口元を押さえた。
「……失礼いたしました」
「笑っていいわよ」
「いえ、そのような……ふふっ」
「私も我慢しているの」
二人でしばらく笑った。
それから私は、手紙を机の上に並べた。
一通目は上質な便箋。二通目も、まだ立派な紙。三通目から少し質が落ち、四通目は封筒が小さくなっている。
五通目は普通紙。六通目に至っては、紙の裏側に商店の広告が印刷されていた。どうやら、使い終わった広告紙を便箋代わりにしているらしい。
「……随分、節約しているのね」
「そうですね」
「それなら、手紙を送るのもやめればいいのに」
「お嬢様への愛が、節約を許さないのでしょう」
「その愛、家賃に回してほしいわ」
マリーがまた笑った。
私は六通の手紙をまとめ、引き出しにしまった。
ところが翌日。父から呼び出された。
◇
「ヴィクトル君の件だが」
父は、机の上に一枚の書類を置いた。
「伯爵家から正式な謝罪が届いた」
「謝罪、ですか?」
「ああ。あの男、どうやら君に金銭援助を求めているらしいな」
私は首を傾げた。
「……そういえば、家賃になっていましたね」
「家賃?」
「いえ、こちらの話です」
父は書類を指さした。
「実は、伯爵家にも君への手紙の件が伝わった。ヴィクトル君は屋敷を出てから、各方面に借金を申し込んでいたそうだ」
「まあ」
「そして、君と復縁する予定だから、いずれ金が入ると話していたらしい」
私は目を丸くした。
「復縁する予定?」
「そうだ」
「私、一度も返事をしていませんけれど」
「だから伯爵家も困っている」
父は深いため息をついた。
「伯爵様は、君にこれ以上迷惑をかけないよう、本人に厳しく申し渡すと約束してくださった。今後は伯爵家の管理下で、仕事をさせるそうだ」
「それは良かったです」
「手紙も止めるよう命じるとのことだ」
私は少し安心した。
これでようやく、平穏な日々が戻ってくる。
……はずだった。
◇
それから一週間。
最後の手紙が届いた。
今度は、伯爵家の紋章が入った封筒だった。おそらく、伯爵様の管理下に戻されたのだろう。
私は封を切った。
『かつて僕のすべてだった君へ。
今日、僕は一つの真実にたどり着いた。
愛とは、相手を縛ることではない。
愛とは、相手の幸せを願うことなのだ。
だから僕は、君を自由にする。
もう二度と、戻ってきてほしいとは言わない。
君がどこにいても、誰と幸せになっても、僕は祝福しよう。
ただ一つだけ、最後のお願いがある。
もし君が、僕たちの愛の思い出を少しでも大切にしてくれるなら。
同封した請求書の、今月分だけでも払ってくれないだろうか。
永遠に君を愛する男より。』
私は便箋を置いた。そして、封筒の中を確認した。
確かに、請求書が入っていた。
家賃。食費。仕事用の靴の修理代。
そして、手紙を書くために購入した便箋代。
「……便箋代まで?」
私はしばらく請求書を見つめた。最後に、静かに言った。
「請求書は送り返してください」
マリーが頷いた。
「かしこまりました」
「それと、父にお願いして伯爵家へ連絡を入れてもらえるかしら」
「どのような内容でしょう?」
「今後、私宛てに請求書が届くようなら、正式に抗議すると」
「承知いたしました」
マリーは請求書を封筒に戻した。
私は七通の恋文を机の上に並べた。
最初の手紙は、自由と孤独を語っていた。二通目は、薔薇。三通目は、スープ。四通目は、孤独な愛。五通目は、労働。六通目は、家賃。そして七通目は、請求書。
「……壮大な物語だったわね」
思わず呟いた。
「はい。ある意味では」
マリーも頷いた。
「一人の男性が、真実の愛を求めて旅立ち、最後には請求書にたどり着く物語ですね」
「そうね」
「お嬢様、これを何と呼べばよろしいのでしょう?」
私は少し考えた。
「……生活困窮記?」
マリーが吹き出した。
◇
それから数日後。伯爵家から、改めて正式な謝罪状が届いた。
ヴィクトル様は、伯爵様の監督のもとで領地の仕事をすることになったらしい。借金についても、本人の給与から少しずつ返済させるという。
そして、私への手紙は今後一切送らせないと約束してくださった。
ようやく、本当に終わったのだ。
「お嬢様、今日はお客様がお見えになりますね」
マリーが楽しそうに言った。
「ええ」
今日は、最近親しくしている青年が訪ねてくる予定だった。
父の商会で働く、真面目で穏やかな方だ。
彼は詩を書かない。星にも月にも私を例えない。その代わり、私が好きなお菓子を覚えていてくれる。
先日、私が少し疲れていると話したら、翌日には温かい蜂蜜茶を持ってきてくれた。
「そういえば、お嬢様」
マリーが尋ねた。
「今度のお相手は、どのような愛の言葉をくださるのですか?」
私は少し考えた。
「……この前は、『一緒にいると楽しいです』と言ってくださったわ」
「まあ」
「私も、『私もです』と答えたの」
「素敵ですね」
「ええ。とても」
窓の外では、秋の日差しが庭を照らしていた。
私は七通の恋文を箱にしまい、蓋を閉じた。
もう、あの方の太陽になるつもりはない。薔薇にも、パンにも、毛布にも。ましてや、家賃になど。
「お嬢様、お客様がお着きになりました」
「今行くわ」
私は笑顔で立ち上がった。
今度こそ、私自身の幸せを楽しもう。
……それにしても。
「君は家賃。僕は滞納」
あれだけは、しばらく忘れられそうにない。
まったく。
恋文というものは、もう少し美しいものであってほしい。




