深淵②
ぼくには鍵盤に初めて触れた瞬間の記憶がない。
物心がついたときにはもう目の前にピアノがあって、無我夢中で鍵盤を叩いていたからだ。
つくもピアノ教室には、月曜日から土曜日まで、子供から大人、初心者から上級者まで、様々な生徒たちがやってきて、母にピアノを教わっていた。
母のレッスンは通常週に一度だが、ぼくは息子の特権で毎日、時間の許す限り受けられた。
昨日はバイエル、今日はツェルニー、明日はハノン。
幼いぼくは、その幸福に満ちた日々が尊いものだとは露ほども思っていなくて、いつまでも続くものと疑いもしなかった。
本当に楽しかった。
レッスンの頻度が減っていったのは、五歳を過ぎた辺りからだ。
今日は誰々ちゃんの振替があるから、今日は体調が優れないから、今日は気分が乗らないから、今週からレッスンは日曜日だけにしようか。
ぼくはいくら寂しくても、母の言うことには全て「うん、わかった」と言って頷いた。
当時から言い争いを厭う質だったのは確かだが、それよりも、幼いぼくなりに恐れていたのだろう。
汎音の音は聞き飽きただとか、ちっとも上達しないから教え甲斐がないだとか、そもそも子供なんていらなかった――とか、そういう言葉が母の口から放たれるのを。
小学一年の春、同級生のなるちゃんがコンクールに挑戦すると知ったぼくは、ぼくも出たいと母にねだった。
母は少し言い淀んでから「いいよ」と言った。
これでまたお母さんがピアノを教えてくれる――そんな期待はあっさりと裏切られた。
母はぼくのピアノにこれっぽっちも興味を示さなくなり、ぼくのピアノを聴いてくれるのは、なるちゃん一人だけになってしまった。
ぼくとなるちゃんは首尾よく予選を通過し、本選の日を迎えた。
母はずっとなるちゃんにかかりきりで、通りがかりの知らない人たちからは、後ろからとぼとぼとついて歩くぼくの方が他所の子のように見えただろう。
けれど、そのときのぼくはまだ、自分が異様な光景の一部であることに何も感じていなかった。
今日はステージでいちばんの演奏をして、いちばんの賞を貰って、お母さんに見直してもらうんだ。教え甲斐があると思ってくれたら、あの幸せな日々が戻ってくる。夢にまで見た大それた希望を、性懲りもなく胸に抱いていたくらいだ。
ステージ衣装に着替えを済ませ、客席に向かった母と別れたぼくとなるちゃんは、舞台袖にいくつか並んだ黒い折りたたみ椅子に座って自分の番がくるのをじっと待っていた。
やっとお母さんに聴いてもらえる!
ステージでピアノを弾くのが待ち遠しくて、浮かれていたのだろう。
トイレに行ったなるちゃんの戻りが遅いことに気がついたのは、随分経ってからだった。
そういえば、今日のなるちゃんはずっと上の空だった。
どこか具合でも悪いのだろうか。
心配になったぼくはトイレまで探しに行ってみることにした。
もちろん中まで探せないのは分かっていたが、外から一声かけるくらいなら許されるだろうと思ったのだ。
女子トイレの前まで行ってみると、声をかけるまでもなく彼女がまだ中にいるとわかった。
ひくひくと啜り泣く声が外まで聞こえてきたからだ。
「だ――」ぼくは問いかけようとした言葉をごくりと飲み込んだ。
先に中から聞こえた「大丈夫よ」という声は、聞き間違えようのない、お母さんの声だった。
「完美ちゃんは大丈夫。先生とたくさん練習したでしょう? ちゃんと弾けるよ」
「っく……ひっ、く、むり……っなの」
「何が? どうして無理なの?」
「のんたんみたっ……ぃに、なる……弾けな……っ」
母は少しの間黙り込んで、ややあってから「汎音のピアノを、聴いてしまったのね」と、まるでわけの分からないことを言った。
「コンクールが終わるまでは絶対に聴いたら駄目だって、先生言ったのに」
「で、でも……っ、のんたんが」
「汎音が、聴いて欲しいって?」
母が訊ねると、なるちゃんは返事の代わりに「うわああん」と大声で泣き叫んだ。
「よしよし。なら、悪いのはあの子から逃げちゃった先生の方ね。ごめんね、完美ちゃん」
と母は言った。
ぼくは手足がきんと冷たくなるのを感じた。
心臓がぐしゃぐしゃに拉げて、血が止まってしまったのだと思った。
「あのね、完美ちゃんのためだから、先生の話をよく聞いて。
あの子はね、普通とは違うの。ピアノの神様に選ばれた特別な子なんだよ。絶対に、自分と比べたりしないで。
同じピアニストだと思って聴いちゃったらね、完美ちゃんまでだめになってしまうから」
まるで自分はもうだめにされてしまったみたいな言葉尻を、たった六歳のぼくがどうやって捉えたのかはわからない。
ただ、幼いぼくが恐れていたどんな言葉よりも、残酷であったことだけは確かだ。
女子トイレの前に震えて立ち尽くしていると、係員の男の人が来てくれて、何やら心配そうに声をかけながら舞台袖まで連れ戻してくれた。
ぼくの順番はもうすぐそこだった。
しばらく呆然としていたが、はっと気がついたときには、ごちゃごちゃした観客席と向き合っていた。
広くて明るいステージの真ん中にぽつんとひとり、相対する観客席は、がら空きだった予選とはまるで違った。
ずらりと並ぶ、顔、顔、顔。
その数えきれないの顔の中から、母の顔を探した。
どれだけ目を凝らしても見つからない。
「どうしたのかしら。あの子、予選で凄かったって噂になってた子よね」
「緊張してしまってるんだろう。可哀想に」
「見ている親御さんは気が気じゃないだろうね。このままだと失格だ」
観客席からはそんなどよめきが聞こえ始めたが、ぼくは頑なに母を探すのをやめなかった。
だって、お母さんに聴いて欲しくて、見て欲しくて、それだけのためにぼくはここに来たのだ。
聴かせる人がいない音楽に意味なんてない。
どこ、どこ、お母さん、どこなの?
必死に二階席を見上げるぼくは、自分の足が観客席に向かって動き出していることに気が付かなかった。
わっとどよめきが大きくなり、ぼくは舞台の縁から足を踏み外した。
もちろん、会場の誰もがとっくにぼくの異変に気付いていた。
最前列で受け止めてくれた見ず知らずの手は、奇跡と呼べるほどのものではなかったはずだ。
おかげでぼくは傷ひとつ負わずに済んだが、唐突に消えた床にすとんと吸い込まれる感覚が心身のいたるところに纏わりついたまま離れない。
二〇年近くもがき続けて、自分ではもう、這い上がれない深くまで沈んでしまった。




