深淵①
ぼくはこれまで一度もアンリのノックを聞いたことがない。いったい誰だろう?
のそりと立ち上がりながら「どうぞ」と言うと、ほどなくしてドアが開いた。
入ってきたのは、フォーマルなネイビーのワンピースを着た若い女性だ。
ホールのスタッフ……? にしては服装も様子もおかしくて、ピアノの輪郭に沿って前に進み出たぼくをじっと見つめはするものの、何やら言葉に詰まっているようなのだ。
首を傾げたぼくに、彼女は喉の奥から絞り出したような声で言った。
「のん、たん……」
この、絵本に登場する白猫みたいな呼び方には覚えがある。ぼくは彼女に「なるちゃん?」と返した。
「分かるの?」
「いや、分かんなかった。すごく、綺麗になってたから」
「さすが、上手だね。のんたんは……全然、変わってない」
ぼくは「あはは」と頬をかき、さり気なく顔を背けた。
「確かに、あんまり変わってないかも。一〇年以上会ってなかったのに、なんか、恥ずかしいな……」
なるちゃん――金田完美は、母の教室に通っていた生徒の一人で、ぼくとは幼なじみのような間柄にあたるのだろうか。
最後に顔を合わせたのはベルギーに渡る少し前だったと思うが、疎遠になったのはそれよりずっと前、子供部屋に引きこもり始めた頃からだ。
そんな彼女の存在は、母の次に顔を合わせたくない人物として記憶の深くに刻まれている。
「ピアノ、まだ続けてたんだ。一昨年だっけ?
ベルギーのコンクールで入賞したって聞いたときも思ったけど、今度こそ辞めたんだと思ってた」
「……変なこと、言うんだね……。
ぼくにとってあの入賞は、奇跡と言っても足りないくらい、名誉なことだった」
「変? のんたんが続けてることの方がずっと変だよ。
のんたんは、ピアノが嫌いだったでしょ。
私分かるよ。のんたんは今でも、ピアノが嫌い」
「何言ってるの? そんなことあるわけ――」
「あるよ」
十数年も疎遠だったはずの彼女が断言する。
なるちゃんが遠慮がちな態度を見せたのは、最初にぼくの愛称を口にした瞬間だけだった。
精神だけがあの頃に戻ったみたいに、心をむき出しにして言葉を並べる。
「じゃあここで、昔みたいに何か弾いてよ。一曲だけ、得意のラヴェルでいいから」
「い……嫌だ」
子供みたいに首を振るぼくに、彼女は「ほら」と言った。
「私にピアノを聴かせてくれなくなったのも、先生から逃げるようになったのも、ピアノが嫌いになったからじゃない。
だって、おかしいよ。のんたんみたいな天才がヴァンデンベルへに弟子入りして、たった一回コンクールで入賞するのがやっとだなんて、そんなの絶対おかしい。
のんたんは、私みたいな凡人とは違う。ピアノの神様に選ばれた、特別なピアニストなのに!」
ぎゅっと首を掴まれたみたいに息がしづらくなって、目の前が真っ暗になる。
胸元に纏わりつくどろどろを必死に剥ぎ取り、床に打ち捨てるように返した。
「そんなの……っ、お母さんが勝手に言っただけだ!
ぼくなんか……っ、特別どころか、凡人にだってなれない……っ!!」
白い床に、ぴしゃりと大きな罅が走る。
大丈夫、初めてじゃない。これは妄想だ。幻覚だ。
落ち着いて、出番の確認をしよう……演奏会のプログラムはどこまで進んだ?
――ああ、駄目だ、ステージモニターはしっかり仕事をしているのに、流れているのがどの曲のどのあたりかがわからない。
怖い。手の震えが止まらない。こんなんじゃ弾けない。もう無理だ。逃げ出したいのに動けない。少しでも動いたら、床がなくなる。奈落の底へ落ちてしまう。
「無理しなくていいよ。辞めちゃいなよ」
「うん」
「その方がいい」
うん、ともう一度頷いたのと、ドアが開く音がしたのはほとんど同時だった。
罅なんかない、つるりとした白い床を呆然と見つめるぼくにも、現れたのが誰だか分かる。
だから、顔を上げずにじっとしていた。
酷い顔を見せたくなかったし、このまま消えてしまいたいくらい、気まずい思いもあった。
なるちゃんが「あっ」と息を飲む。
コツコツと左右一歩ずつ遠のいたヒールの音と交差して近づいてくるもう一つの足音は、一度も止まることなくぼくの脇を通り過ぎて行った。
――来い。
と、背後のピアノがいった。
行かなければ。
のそっと立ち上がり、恐る恐るなるちゃんの様子を窺うと、アンリが開いたままにしていたドアから彼女が逃げるように立ち去るのが見えた。
ぼくは咄嗟にドアに駆け寄ったが、ステージ裏の狭い通路を走り去って行く彼女の背中に声一つかけられなかった。静かにドアを閉め、震える唇を噛みしめる。
――来い。
よろよろとピアノに寄るぼくにアンリは右手で「座れ」といい、ピアノ椅子の意図的に空けられたスペースを左手で叩いた。
ぼくはいわれた通りにする。横に並ぶというよりは、彼に背を向ける格好で。
――お前が話したいことだけでいい。話してみろ。出番まではまだ時間がある。
とびきり優しい音色でそういった彼の肩に、ぼくはそっと凭れ掛かった。




