第九話
模擬戦場は、登録管理局の裏手にあった。
石壁に囲まれた広場が六つ並び、そのうち三つでは既に訓練が行われている。剣を打ち合わせる音に混じって、教官らしい男の怒鳴り声が聞こえてきた。
エルナは受付で木札を受け取ると、空いている区画へ向かった。
「ここなら天賦も使えるよ。訓練用の結界が張ってあるから、多少の衝撃なら外に漏れない」
彼女は背中の槍を外し、壁際の武器立てに置いた。
「ただし、怪我までは防いでくれない。今日は刃のない武器を使おう」
そう言って、長い木槍を一本取り出す。
蓮も木剣を手に取った。右腕の痛みはかなり引いているが、まだ思い切り振ることはできない。剣を左手に持ち替え、何度か軽く振ってみる。
「右腕、怪我してるの?」
エルナが尋ねた。
「少し前に。今はだいぶ治ったけど」
「じゃあ、そこは狙わない」
「……いいのか?」
「怪我人を叩いても、実力なんかわからないでしょ」
エルナは槍を肩に担ぎ、瀬戸と陽菜を見た。
「そっちの二人は、武器どうする?」
「俺は木剣で」
「私は、これを使ってもいいですか?」
陽菜が抱えていた折り畳み式の木板を見せた。
ミレイの工房へ持ち込んだものと同じ、最初に作った試作品だ。金具で繋いだ二枚の板は、開けば簡易的な防壁になる。
エルナはそれを一度広げてみた。
「重そうだね」
「少しだけ。でも、私の天賦で固定できるので」
「《仮止め》だったっけ。十秒間、動かなくなるやつ」
「はい」
エルナは板を畳み、陽菜へ返した。
「いいよ。試合でも使うつもりなんでしょ」
広場の中央に移動すると、彼女は靴先で地面に線を引いた。
「じゃあ、ルールを決めようか。私一人を相手に、三人で来て」
「三対一?」
蓮は聞き返した。
「そう。私の肩に巻いた布を取れたら、そっちの勝ち」
エルナは腰の小袋から赤い布を取り出し、左肩へ結んだ。
「私は三人のうち誰か一人の背中を木槍で触れたら勝ちにする。打撃じゃなくて、軽く当てるだけね」
瀬戸が眼鏡を直した。
「……随分、そっちに不利じゃないですか?」
「そう?」
「一人の背中を狙うより、三人で布を取るほうが簡単そうですけど」
エルナは槍を持ち直した。
「だったら、やってみればいい」
蓮は瀬戸と顔を見合わせた。
相手は七勝四敗の剣闘士。
自分たちは、まだ公式戦で二勝しかしていない。
実力差があることはわかっている。それでも、三人がかりなら何とかなるかもしれない。
「……作戦、決めていい?」
「もちろん。準備ができたら声をかけて」
エルナは広場の端へ歩いていった。
三人は反対側に集まった。
「どうする?」
蓮が尋ねると、瀬戸はすぐに答えた。
「まず槍の間合いを確かめたい。俺が距離を伝えるから、神谷は正面で注意を引いてくれ」
「陽菜は?」
「俺と一緒に動いて、隙ができたら板を固定する。相手の進路を塞げれば、神谷が布を取れるかもしれない」
陽菜は頷いた。
「やってみます」
蓮はエルナの方を見た。
彼女は槍を地面に立て、こちらを待っている。こちらの話を聞こうともせず、近くの壁にできたひびを眺めていた。
「……じゃあ、行こう」
三人は広場の中央へ戻った。
「準備できた?」
エルナが尋ねる。
「ああ」
「それじゃ、始めようか」
彼女は槍を構えた。
右手を前、左手を後ろに置き、穂先を蓮へ向ける。
蓮も木剣を構えた。
その直後、瀬戸が小さく言った。
「……三・八メートル」
蓮は頷き、一歩踏み出した。
槍の穂先が動く。
蓮は反射的に剣を上げた。
だが、木槍は剣に触れなかった。
穂先が左へ逸れたかと思うと、次には足元へ伸びてきた。
「っ!」
蓮は後ろへ跳ぶ。
木槍が地面を擦り、砂が跳ねた。
「神谷、二・九!」
瀬戸の声。
蓮は距離を詰めようとした。
槍の内側に入れれば、剣のほうが有利になるはずだ。
ところが、エルナは下がらなかった。
槍を引き寄せ、柄の中央を持つ。
蓮が踏み込んだところへ、今度は石突きが突き出された。
「うわっ!」
蓮は身体を捻った。
木の先端が腹の前を通り過ぎる。
次に槍が回ったときには、蓮の背後へ回り込んでいた。
とん、と軽い感触が背中に触れる。
「はい、一人」
蓮は動きを止めた。
振り返ると、エルナが槍を引いているところだった。
「……今、何が起きた?」
「近づけば槍が使えなくなると思った?」
蓮は頷いた。
「うん」
「長槍なら間合いの内側に入られると不利になる。でも、槍って先っぽだけで戦う武器じゃないから」
エルナは木槍を短く持ち、柄の端を軽く動かしてみせた。
「近づいてくるのがわかっていれば、これくらいはできるよ」
瀬戸が息を吐いた。
「……思ったより速いな」
「まだ天賦も使ってないしね」
エルナは槍を肩に担いだ。
「もう一回やる?」
蓮は木剣を握り直した。
「……頼む」
彼女は頷いた。
「じゃあ、今度は三人とも動いてみて」
二度目は、瀬戸が先に動いた。
「神谷、正面で止めてくれ。俺は右へ回る!」
蓮は槍の穂先を見ながら前へ出た。
エルナは瀬戸を追わない。蓮が一歩踏み込むと、槍を水平に払って近づくのを防いだ。
木剣で受けようとしたが、槍のほうが長い。剣が届く前に、柄で押し返される。
「四・二メートル! 神谷、もう半歩!」
瀬戸が叫ぶ。
蓮は足を動かした。
槍の穂先が右へ流れる。追いかけて剣を振りそうになり、踏みとどまった。
アーロンに教わったことを思い出す。
武器ばかり見るな。
足を見る。
相手の身体を見る。
エルナの右足が、わずかに後ろへ下がった。
次は突きが来る。
そう判断して剣を構えたところで、横から陽菜の声がした。
「瀬戸さん、こっち!」
陽菜は開いた木板を地面に置き、片側を壁へ押し当てていた。
瀬戸がその脇へ回り込む。
エルナの退路を塞ぐつもりだ。
「……なるほど」
エルナが小さく呟いた。
蓮は踏み込んだ。
木剣を振り上げる。
エルナは槍を斜めに構え、剣を受け流した。
そのまま後ろへ下がる。
陽菜が待っている方向へ。
「今です!」
陽菜が板に両手を触れた。
「《仮止め》!」
木板の接合部に光が走る。
板が壁へ固定され、即席の障害物になった。
エルナの背後には木板。
正面には蓮。
右からは瀬戸が近づいている。
蓮は肩の赤い布を見た。
届く。
そう思って剣を下ろしたとき、エルナが槍を回した。
穂先が地面へ向く。
小さな風が、砂を巻き上げた。
「……っ!」
蓮は反射的に目を細めた。
槍の周囲で空気が動いている。
エルナが石突きを地面へ突き立てると、足元の砂が外側へ広がった。
次いで、槍が低く払われる。
風を含んだ穂先が、蓮の木剣を横から押した。
「うわっ!」
剣が大きく逸れた。
エルナはその隙に身体を横へ滑らせ、蓮の左側を抜ける。
瀬戸が追おうとした。
だが、槍が伸びるほうが早かった。
穂先が瀬戸の胸元をかすめ、彼は足を止める。
エルナは槍を引き戻さず、そのまま身体を回した。
石突きが陽菜の背中に触れる。
「はい、二回目」
陽菜が振り返った。
「……えっ?」
エルナは槍を下ろした。
固定されていた木板から光が消え、乾いた音を立てて倒れる。
「今のが《風槍》?」
蓮が尋ねると、エルナは頷いた。
「そう。槍の周りに風を纏わせて、動きを少し変えられる。突きの速度を上げたり、払うときの勢いを強くしたりね」
「……槍だけじゃなくて、風も使えるのか」
「風を自由に飛ばせるわけじゃないよ。今の私だと、槍から離れた場所にはほとんど作用しない」
エルナは穂先を軽く振った。
今度は砂が動かない。
「それに、ずっと使ってたらすぐ疲れる。見た目ほど便利じゃないんだ」
瀬戸が近づいてきた。
「でも、十分厄介でしたよ。あの距離で剣を逸らされたら、近づけない」
「槍使いには、近づかれる前に止める方法が必要だからね」
エルナは陽菜へ目を向けた。
「ところで、一つ聞いていい?」
「はい」
「さっき、私が木板の方へ下がったとき、どうしてそこから動かなかったの?」
陽菜は少し考えた。
「……板を固定しないと、逃げられちゃうと思ったので」
「でも、私はその板の前で止まらなかった」
「……はい」
「あなたが触れられる場所には、私も近づける。固定する前に、槍が届くかもしれないよね」
陽菜は板を見た。
「……そうですね」
エルナは続けた。
「《仮止め》そのものは便利だと思う。ただ、それを使うために危険な場所へ残るなら、別の方法も考えたほうがいい」
「……わかりました」
陽菜が頷く。
エルナは瀬戸へ顔を向けた。
「それから、瀬戸さん」
「はい」
「距離は正確だった。でも、指示が少し多いかな」
「……多い?」
「神谷さんに伝えることと、自分で判断できることを分けたほうがいい。相手までの距離が一歩ごとに変わるのは、見ていればわかるから」
瀬戸は眼鏡を押し上げた。
「……確かに」
「細かな数字が必要な場面もあるけど、全部伝えてたら、聞くほうも大変でしょ」
蓮は頷いた。
実際、瀬戸の指示に合わせて動こうとすると、相手の動きを見る余裕がなくなることがあった。
エルナは最後に蓮を見た。
「神谷さんは、私の肩ばっかり見てたね」
「……布を取るのが勝利条件だったから」
「そう。でも、私が肩を隠したら?」
蓮は答えられなかった。
エルナは槍を持ち上げ、左肩を柄の後ろへ隠した。
「相手が守っている場所を狙うなら、その守りを崩さないと。無理に近づいても、こっちの間合いで戦うことになるよ」
蓮は木剣を見た。
二度挑戦して、まともに近づくことすらできていない。
悔しい。
だが、納得できることばかりだった。
「……もう一回、お願いしてもいい?」
エルナは少し目を細めた。
「いいけど、腕は大丈夫?」
「無理はしない」
「本当に?」
蓮は頷いた。
エルナは一度、リシェルへ目を向けた。
少し離れた場所で見守っていたリシェルが、蓮の右腕を確かめる。
「痛みが出たら、すぐにやめてくださいね」
「わかってる」
エルナは槍を構え直した。
「じゃあ、最後にもう一回」
*
三度目は、すぐに始めなかった。
蓮たちは広場の端へ戻り、作戦を考え直した。
「……どうする?」
瀬戸が尋ねる。
蓮はエルナを見た。
彼女は槍の先端を確かめている。
最初の二回でわかったことがある。
エルナは、こちらが近づくより早く間合いを変える。
槍の長さだけでなく、持つ位置も、足の運びも違う。
正面から布を取ろうとしても、簡単には届かない。
「まず、俺が無理に攻めるのはやめよう」
蓮が言うと、瀬戸は頷いた。
「そうだな。向こうが得意な距離へ入っていくだけだ」
「瀬戸は、エルナの位置を見ててほしい。ただ、細かい距離は言わなくていい」
「必要なときだけ伝えるってことか」
「ああ。それと、陽菜」
蓮は木板を見た。
「板を固定するのは、エルナが近づいてからじゃなくていいと思う」
「……先に?」
「うん。あれを障害物にするんじゃなくて、俺たちが隠れる場所にする」
陽菜は板を広げてみた。
「……盾みたいに?」
「そう。エルナの槍が届かない場所を作れれば、少しは動きやすくなる」
瀬戸が顎に手を当てた。
「でも、固定するのは十秒だけだぞ」
「だったら、最初から最後まで使うんじゃなくて、ここぞってときに使おう」
瀬戸は頷いた。
「……やってみるか」
三人は再び中央へ向かった。
エルナが顔を上げる。
「今度は決まった?」
「ああ」
「じゃあ、どうぞ」
彼女は槍を構えた。
蓮は木剣を持ったまま、すぐには踏み込まなかった。
瀬戸と陽菜も、蓮の少し後ろに立つ。
エルナが一歩、前へ出た。
槍の先が動く。
蓮は足を引き、距離を保った。
続けて、もう一歩。
今度は横へ避ける。
「……来ないんだ?」
エルナが尋ねた。
「そっちの槍が長いからな」
「なるほど」
エルナは少し笑った。
それから、歩く速度を上げた。
槍の穂先が蓮の胸元へ伸びる。
蓮は剣で受けず、身体を横へずらした。
穂先が肩の横を通り過ぎる。
エルナが槍を引く。
その動きに合わせ、蓮も距離を取った。
瀬戸が声を上げた。
「神谷、右!」
蓮は右へ動いた。
エルナの槍が、左側を通る。
陽菜が木板を広げ、地面に置いた。
蓮はその横へ移動する。
エルナが槍を構え直した。
木板の向こうにいる蓮を見て、少し考える。
「……邪魔だね、それ」
槍の先が板へ向いた。
そのとき、瀬戸が反対側から走り込んだ。
エルナはすぐに槍を引き、瀬戸へ向ける。
蓮は動かなかった。
瀬戸が近づき、すぐに下がる。
エルナが追おうとすると、今度は蓮が一歩踏み込む。
槍の向きが変わった。
蓮は下がる。
瀬戸がまた近づく。
その繰り返しだった。
エルナは二人を見比べた。
「……なるほどね」
彼女は槍を身体の横へ引いた。
次に伸びてきた穂先は、蓮でも瀬戸でもなく、陽菜へ向かっていた。
「……っ!」
陽菜が身を引く。
槍の先が木板の横を通る。
エルナはそのまま踏み込み、板を回り込もうとした。
陽菜が両手を伸ばした。
「《仮止め》!」
板と地面の間に光が走る。
固定された木板が、エルナの進路を塞いだ。
エルナは槍を引いた。
そこへ、蓮が近づく。
エルナの左肩。
赤い布。
距離は、あと二歩ほど。
エルナが身体を回した。
槍が横から迫る。
蓮は剣を構えず、足を止めた。
エルナの槍は、その前を通り過ぎる。
続けて踏み込もうとしたところで、瀬戸が叫んだ。
「神谷、待て!」
蓮は動きを止めた。
エルナの右足が、すでに後ろへ引かれている。
次に踏み込めば、槍の石突きがこちらへ届く位置だった。
蓮は半歩だけ下がった。
その直後、石突きが目の前を通った。
「……危なっ」
エルナが少し笑った。
「今の、よく止まったね」
蓮は答えず、足元を見た。
彼女の左足が前に出ている。
右足は後ろ。
槍を引き戻すには、一度身体を動かす必要がある。
蓮は木剣を左へ振った。
エルナが槍で受ける。
その瞬間、蓮は剣を引いた。
代わりに、右ではなく左足を踏み込む。
エルナの身体の横へ回り込んだ。
肩の布が見える。
手を伸ばす。
指先が、赤い布に触れた。
だが、掴む前に風が吹いた。
エルナの槍が、蓮の手首の前を通る。
蓮は反射的に腕を引いた。
槍の柄が木剣へ当たり、手元が外側へ流される。
エルナは半歩下がった。
蓮も距離を取る。
赤い布は、まだ彼女の肩に残っていた。
「……惜しかったね」
エルナが言った。
蓮は荒い息を吐いた。
「……あと少しだったのに」
「うん。今のは危なかった」
エルナは槍を下ろした。
その動きに、蓮は少し驚いた。
「……もう終わり?」
「うん。十分見られたから」
瀬戸が近づいてくる。
「結局、取れなかったな」
「でも、今のは結構いいところまでいっただろ」
蓮が答えると、瀬戸は頷いた。
「そうだな。最初の二回よりは、ずっと動けてた」
陽菜も木板を畳んで戻ってきた。
「最後、もう少し早く固定できてたら……」
「いや、十分だったよ」
蓮は陽菜を見た。
「板がなかったら、あそこまで近づけなかった」
陽菜は少しだけ笑った。
エルナは三人の様子を眺めていた。
槍を肩に担ぎ、しばらく何も言わなかった。
やがて、口を開く。
「……わかった」
蓮たちが振り返る。
「何が?」
「一緒に戦ってもいいと思う」
蓮は目を瞬いた。
「……本当か?」
「うん」
エルナは頷いた。
「まだ危なっかしいところは多いけど、少なくとも、仲間を置いて逃げるような戦い方はしてない」
瀬戸が腕を組んだ。
「……それ、かなり重要なんですか?」
「私にはね」
エルナは木槍を壁際へ戻した。
「前に組んでた連中は、勝てそうにないとわかると、弱い奴から切り捨てた。そういう戦い方は、もうしたくないんだ」
蓮は彼女を見た。
掲示板の前で聞いた、以前の試合の話。
同盟を結んだ相手に裏切られたという話。
それが、今の言葉と繋がった。
「……だから、最初に勝てそうにない試合には出ないって言ったのか」
エルナは頷いた。
「そう。勝てる見込みがないのに、仲間だけ増やしても意味ないでしょ」
彼女は蓮へ目を向けた。
「でも、今の三人なら、少なくとも勝ち方を考えてる。そこは悪くないと思った」
蓮は少し考えた。
「……じゃあ、仲間になってくれる?」
「条件次第かな」
エルナは笑った。
「私は自由剣闘士だから、無償で戦うわけにはいかない。生活もあるしね」
リシェルが一歩前へ出た。
「もちろんです。報酬については、正式に相談させてください」
「うん。それと、もう一つ」
エルナはリシェルを見た。
「試合中、勝つために仲間を見捨てろって命令はしないでほしい」
リシェルは頷いた。
「そのような命令をするつもりはありません」
「……本当に?」
「はい」
エルナは少しの間、彼女を見つめた。
「……わかった」
槍を背中へ戻す。
「じゃあ、契約の話をしようか」
*
契約の話は、模擬戦場の隣にある休憩室で行うことになった。
小さな丸机を囲み、リシェルとエルナが向かい合う。
蓮たちは少し離れた長椅子に座っていた。
「希望される契約料について、伺ってもよろしいですか?」
リシェルが尋ねると、エルナは指を三本立てた。
「最低保証は金貨三枚。それとは別に、勝った試合の賞金から一割を希望する」
瀬戸が小さく口笛を吹いた。
「……高いな」
「そう?」
エルナは彼を見た。
「五人まで出られる試合に、わざわざ四人で参加するんでしょ。それなりに危ない仕事だと思うけど」
「それは、確かに」
瀬戸は口を閉じた。
リシェルは手元の帳簿を開いた。
しばらく数字を確認してから、顔を上げる。
「勝利報酬については、ご希望に沿えると思います。ただ、金貨三枚をすぐにお支払いするのは難しい状況です」
「どれくらいなら出せる?」
「契約時に金貨一枚。残りの二枚は、大会の終了後にお支払いする形ではいかがでしょうか」
エルナは腕を組んだ。
「……分割か」
「はい。支払期日については契約書に明記いたします」
「負けた場合も?」
「もちろんです」
エルナは少し考えた。
「じゃあ、治療費は?」
「試合中の負傷については、当家が負担します」
「装備の修理は?」
「通常の使用による損耗であれば、当家で負担いたします」
「途中で契約を解除したくなったら?」
リシェルは帳簿から顔を上げた。
「大会終了後でしたら、自由に解除していただけます。ただし、大会の途中で一方的に離脱された場合は、未払いの報酬について協議させてください」
エルナは頷いた。
「……悪くないね」
そこで初めて、少し笑った。
「もっと厳しい条件を出されると思ってた」
「当家としても、無理のある契約を結ぶつもりはありません」
「でも、そっちの家は余裕ないんでしょ?」
リシェルの手が止まった。
エルナは机に肘をついた。
「噂くらいは聞いてるよ。アルヴェイン家が今期の戦績を落としてることも、領地を手放すかもしれないことも」
蓮はリシェルを見た。
彼女は静かに頷いた。
「事実です」
「だったら、私を雇うのも結構な賭けになると思うけど」
「そうですね」
リシェルは帳簿を閉じた。
「ですが、今の三人で八旗争奪戦へ参加するよりも、あなたに加わっていただくほうが勝機は増えると考えています」
エルナはしばらく彼女を見ていた。
「……はっきり言うんだね」
「大切なことですから」
リシェルはそう答えた。
エルナは椅子の背にもたれた。
「もう一つ、確認していい?」
「はい」
「私が試合中に退くべきだと判断したら、撤退を認めてほしい。もちろん、勝手に逃げるつもりはない。でも、明らかに無理な状況で戦い続けるのは嫌なんだ」
リシェルはすぐには答えなかった。
「仲間の皆さんへ撤退を伝えることは、できますか?」
「できる限りは」
「でしたら、その条件も加えましょう」
エルナが少し目を見開いた。
「……いいの?」
「はい。危険な状況を判断できる方が増えるのは、私たちにとっても助かることです」
リシェルは新しい紙を取り出した。
「ただし、ほかの方々にも同じ判断の権利があります。誰か一人の意見だけで決めるのではなく、状況に応じて相談してください」
「……わかった」
エルナは頷いた。
リシェルが契約条件を書き始める。
その様子を見て、瀬戸が蓮へ顔を寄せた。
「……リシェルさん、交渉慣れしてるな」
「そうだな」
「俺たちが初めて会ったときとは、全然違う」
蓮は小さく頷いた。
最初に会ったときのリシェルは、自分たちを召喚したことを謝り、家の事情を不器用に説明していた。
今は、相手の条件を聞きながら、出せるものと出せないものを整理している。
きっと、こういう仕事を何度も繰り返してきたのだろう。
蓮が見ていると、リシェルが顔を上げた。
「蓮さん。何か気になることがありますか?」
「……いや。ちゃんと交渉してるなって」
リシェルは少し困ったような顔をした。
「それは、仕事ですから」
エルナが笑った。
「意外と失礼なこと言うね、神谷さん」
「……そういうつもりじゃなかったんだけど」
「わかってる」
エルナは椅子から立ち上がり、伸びをした。
「じゃあ、私はその条件でいいよ」
リシェルが頷く。
「ありがとうございます。正式な契約書を作成しますので、内容をご確認いただいてから署名をお願いします」
「了解」
エルナは蓮たちへ振り返った。
「というわけで、しばらく一緒に戦うことになりそうだね」
陽菜が立ち上がった。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
瀬戸も手を差し出した。
「助かります。正直、俺たちだけじゃ前衛が足りなくて」
エルナはその手を握った。
「まあ、私も何でもできるわけじゃないけどね」
最後に、蓮の前へ来る。
「神谷さんも、よろしく」
蓮は左手を差し出した。
「ああ。よろしく、エルナ」
彼女は握手を返した。
槍を持ち続けてきた手なのだろう。掌には硬い部分がいくつもあった。
「……一つ言っておくけど」
エルナが口を開いた。
「私は、あんたたちより少し経験があるだけだからね。全部私に任せようとか、考えないでよ」
「それは大丈夫」
蓮は答えた。
「俺たちも、できることはちゃんとやるから」
エルナは頷いた。
「なら、いい」
手を離す。
それから、蓮の右腕を見た。
「……それと、その腕」
「ん?」
「模擬戦では狙わなかったけど、実戦じゃそうはいかないよ」
蓮は自分の右腕を見た。
「……わかってる」
「怪我してるなら、そこを狙われると思ったほうがいい。相手が人間なら特にね」
エルナは木槍を肩へ担ぎ直した。
「次の試合までに、そこも考えよう」
蓮は頷いた。
*
契約を終えた頃には、陽が傾いていた。
登録管理局から出ると、広場の人通りは昼より少なくなっている。
リシェルは従者へ書類を預け、馬車の準備を頼んだ。
エルナは蓮たちと一緒に、広場の端で待っていた。
「そういえば、エルナは今どこに住んでるんだ?」
瀬戸が尋ねた。
「王都の下町。宿を借りてる」
「家は別にあるの?」
「あるよ。ここから二日くらい離れた町に」
エルナは槍の柄を布で拭きながら答えた。
「でも、仕事が少ないから王都へ出てきたんだ。地方の試合だけじゃ、なかなか稼げないしね」
「自由剣闘士って、普段はどうやって仕事を探すんだ?」
「登録管理局の掲示板が一番多いかな。あとは紹介。前に組んだ人から声がかかることもある」
エルナは布を畳み、腰の小袋へ入れた。
「ただ、最近はあまり紹介を受けてないけど」
瀬戸が顔を上げた。
「……前の試合の件?」
「まあね」
エルナは笑ったが、それ以上は話さなかった。
蓮は彼女の槍を見た。
長い柄には、何度も握った跡がある。
穂先の金属は丁寧に磨かれていたが、柄の途中には細かな傷が残っていた。
「……その槍、ずっと使ってるのか?」
蓮が尋ねる。
エルナは少し驚いた顔をした。
「これ?」
「ああ」
「十七の頃から使ってる。最初に自分のお金で買った槍なんだ」
「……六年も?」
「そう。何度か修理してるけどね」
彼女は槍を持ち上げた。
「いい槍なんだよ。長さも重さも、今の私にはちょうどいい」
蓮は槍を見た。
訓練場で彼女が動かしていたとき、穂先の速さについていけなかった。
あれは能力だけではない。
六年間、同じ武器を扱ってきた人間の動きだった。
「……すごいな」
蓮が呟くと、エルナは首を傾げた。
「何が?」
「六年も続けてるのが」
「……別に、好きで始めたわけじゃないけどね」
エルナは槍を肩へ戻した。
「食べていくために必要だっただけ」
蓮は何も言わなかった。
彼女は少し考えてから続けた。
「でも、今は嫌いじゃないよ。戦い方を覚えるのも、強い相手とやり合うのも」
遠くで鐘が鳴った。
広場にいた剣闘士たちが、何人か門の方へ歩き始める。
エルナはその様子を眺めていた。
「……ただ、勝つために何でもするっていうのは、私には合わなかった」
蓮は彼女を見た。
エルナは視線を戻す。
「だから、あんたたちに声をかけてよかったと思えるといいな」
「……そう思ってもらえるように頑張るよ」
蓮が答えると、エルナは小さく笑った。
「期待してる」
そのとき、リシェルが戻ってきた。
「馬車の準備ができました。皆さん、参りましょう」
蓮たちは頷いた。
エルナも一緒に歩き出す。
馬車の前で、リシェルが彼女へ声をかけた。
「エルナさん。もしよろしければ、当家の屋敷に滞在されませんか?」
エルナは足を止めた。
「……いいの?」
「はい。訓練も一緒に行うことになりますし、移動の負担も減ると思います」
「でも、部屋は空いてる?」
「一室、ご用意できます」
エルナは少し考えた。
「……じゃあ、お世話になろうかな」
「もちろんです」
リシェルが微笑んだ。
陽菜が嬉しそうに声を上げる。
「じゃあ、これから一緒に練習できますね!」
「そうだね」
エルナも頷いた。
瀬戸が蓮の肩を軽く叩いた。
「……四人になったな」
「……ああ」
蓮は馬車へ目を向けた。
最初は、たった三人だった。
それが今、四人になった。
人数が増えただけで、すぐに強くなれるわけではない。
戦い方を覚え、互いの能力を理解し、連携を練習しなければならない。
それでも、エルナが加わったことで、今までできなかったことができるようになるかもしれない。
蓮は馬車へ乗り込んだ。
続いて、瀬戸と陽菜。
エルナが最後に乗ろうとして、少し立ち止まった。
「……どうした?」
蓮が尋ねる。
エルナは広場を振り返っていた。
「いや、ちょっとね」
彼女は何かを探すように、人の少なくなった広場を見渡した。
やがて、馬車へ乗り込む。
「……行こう」
蓮はそれ以上聞かなかった。
馬車が動き出す。
窓の外で、登録管理局の建物が遠ざかっていく。
エルナはしばらく外を見ていたが、やがて身体を戻した。
「そういえば、八旗争奪戦まで、あと何日?」
瀬戸が答える。
「八日くらいかな」
「……八日か」
エルナは少し考えた。
「じゃあ、明日から忙しくなるね」
蓮は頷いた。
「何から始める?」
「まずは、あんたたちの戦い方をもう少し見せてもらう。それから、役割を決め直したい」
エルナは蓮を見た。
「今まで前衛が一人だったんでしょ?」
「ああ」
「だったら、これからは私も前に出る。神谷さんは無理に全部引き受けなくていい」
蓮は少し驚いた。
「……いいのか?」
「そのために呼んだんじゃないの?」
エルナが笑う。
「槍使いなんだから、前に立たないと仕事にならないでしょ」
蓮も笑った。
「……確かに」
瀬戸が腕を組んだ。
「じゃあ、神谷とエルナさんで前衛二人。俺と村瀬さんが後ろか」
「それが基本になると思う。でも、相手によって変えたほうがいい」
エルナは窓の外へ目を向けた。
「八旗争奪戦は、普通の試合とは違うからね」
「……どの辺が?」
蓮が尋ねる。
エルナは少し考えた。
「一番大きいのは、敵が七派閥もいること」
彼女は指を一本立てた。
「強い派閥を倒しても、その後に別の派閥から襲われたら意味がない。逆に、弱い派閥でも最後まで残れば勝てる」
瀬戸が頷いた。
「……だから、最初から戦いすぎないほうがいい?」
「そう。特に人数の少ない私たちは、無駄な戦闘を避けたほうがいい」
エルナは指をもう一本立てた。
「それから、同盟には気をつけること」
蓮は彼女を見た。
「……前に言ってたやつか」
「うん」
エルナは頷いた。
「一緒に戦ってる間は味方でも、最後には敵になる。そこを忘れると危ない」
陽菜が少し不安そうな顔をした。
「……じゃあ、誰も信用しないほうがいいんですか?」
「そういうわけじゃないよ」
エルナは首を振った。
「同盟そのものが悪いわけじゃない。問題は、何を約束して、どこまで協力するのかを決めないこと」
彼女は陽菜を見た。
「例えば、強い派閥を倒すまで協力する。そこから先は敵同士に戻る。それなら、最初からわかってるでしょ」
「……なるほど」
「でも、何となく味方になって、最後まで一緒に戦おうなんて約束したら、どこかで揉めることになる」
蓮は頷いた。
エルナの言葉には、経験から来る重さがあった。
実際に裏切られたことがあるからこそ、気をつけているのだろう。
「……わかった。明日から、その辺も教えてほしい」
「もちろん」
エルナは少し笑った。
「ただ、私も全部知ってるわけじゃないから。一緒に考えよう」
蓮は頷いた。
馬車は街を抜け、丘へ続く道に入った。
夕日が畑を照らし、遠くにアルヴェイン家の屋敷が見えてくる。
四人の剣闘士。
一人の女性貴族。
まだ小さな勢力だった。
それでも、次の試合へ向けて、新しい準備が始まろうとしていた。
屋敷の門が近づく。
エルナは窓の外を見て、少し驚いたように呟いた。
「……思ったより、小さい屋敷だね」
瀬戸が笑った。
「まあ、そこは来ればわかると思ってた」
リシェルが少し困ったように微笑む。
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
「いや、別に悪い意味じゃないよ」
エルナは首を振った。
「もっと堅苦しい場所かと思ってたから」
彼女は屋敷の門を見た。
石壁には補修の跡が残り、庭木はきれいに刈り込まれている。
「……こういうところも、嫌いじゃない」
馬車が止まった。
蓮は扉を開け、先に降りた。
エルナへ手を差し出す。
彼女は一瞬だけその手を見た。
それから、笑った。
「……ありがと」
手を借りて降りると、背中の槍を持ち直した。
「じゃあ、しばらくよろしくね。神谷さん」
「蓮でいいよ」
エルナは顔を上げた。
「……いいの?」
「ああ。これから一緒に戦うんだし」
彼女は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、蓮」
初めて、名前で呼ばれた。
「明日から、遠慮しないからね」
蓮は笑った。
「……お手柔らかに頼む」
エルナは肩をすくめた。
「それは、どうかな」
彼女は先に門をくぐった。
蓮はその背中を見送り、後に続いた。
訓練場には、まだ夕方の光が残っていた。
明日から、あそこに四人が並ぶことになる。
蓮は右腕を軽く動かした。
痛みは、ほとんどない。
槍を持ったエルナの背中が、屋敷の方へ遠ざかっていく。
その歩き方を見ていると、明日の訓練も簡単には終わらなさそうだった。




