↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『万界闘技場の鬼神』  作者: 趣味 大隅 詩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

第九話

模擬戦場は、登録管理局の裏手にあった。


石壁に囲まれた広場が六つ並び、そのうち三つでは既に訓練が行われている。剣を打ち合わせる音に混じって、教官らしい男の怒鳴り声が聞こえてきた。


エルナは受付で木札を受け取ると、空いている区画へ向かった。


「ここなら天賦も使えるよ。訓練用の結界が張ってあるから、多少の衝撃なら外に漏れない」


彼女は背中の槍を外し、壁際の武器立てに置いた。


「ただし、怪我までは防いでくれない。今日は刃のない武器を使おう」


そう言って、長い木槍を一本取り出す。


蓮も木剣を手に取った。右腕の痛みはかなり引いているが、まだ思い切り振ることはできない。剣を左手に持ち替え、何度か軽く振ってみる。


「右腕、怪我してるの?」


エルナが尋ねた。


「少し前に。今はだいぶ治ったけど」


「じゃあ、そこは狙わない」


「……いいのか?」


「怪我人を叩いても、実力なんかわからないでしょ」


エルナは槍を肩に担ぎ、瀬戸と陽菜を見た。


「そっちの二人は、武器どうする?」


「俺は木剣で」


「私は、これを使ってもいいですか?」


陽菜が抱えていた折り畳み式の木板を見せた。


ミレイの工房へ持ち込んだものと同じ、最初に作った試作品だ。金具で繋いだ二枚の板は、開けば簡易的な防壁になる。


エルナはそれを一度広げてみた。


「重そうだね」


「少しだけ。でも、私の天賦で固定できるので」


「《仮止め》だったっけ。十秒間、動かなくなるやつ」


「はい」


エルナは板を畳み、陽菜へ返した。


「いいよ。試合でも使うつもりなんでしょ」


広場の中央に移動すると、彼女は靴先で地面に線を引いた。


「じゃあ、ルールを決めようか。私一人を相手に、三人で来て」


「三対一?」


蓮は聞き返した。


「そう。私の肩に巻いた布を取れたら、そっちの勝ち」


エルナは腰の小袋から赤い布を取り出し、左肩へ結んだ。


「私は三人のうち誰か一人の背中を木槍で触れたら勝ちにする。打撃じゃなくて、軽く当てるだけね」


瀬戸が眼鏡を直した。


「……随分、そっちに不利じゃないですか?」


「そう?」


「一人の背中を狙うより、三人で布を取るほうが簡単そうですけど」


エルナは槍を持ち直した。


「だったら、やってみればいい」


蓮は瀬戸と顔を見合わせた。


相手は七勝四敗の剣闘士。


自分たちは、まだ公式戦で二勝しかしていない。


実力差があることはわかっている。それでも、三人がかりなら何とかなるかもしれない。


「……作戦、決めていい?」


「もちろん。準備ができたら声をかけて」


エルナは広場の端へ歩いていった。


三人は反対側に集まった。


「どうする?」


蓮が尋ねると、瀬戸はすぐに答えた。


「まず槍の間合いを確かめたい。俺が距離を伝えるから、神谷は正面で注意を引いてくれ」


「陽菜は?」


「俺と一緒に動いて、隙ができたら板を固定する。相手の進路を塞げれば、神谷が布を取れるかもしれない」


陽菜は頷いた。


「やってみます」


蓮はエルナの方を見た。


彼女は槍を地面に立て、こちらを待っている。こちらの話を聞こうともせず、近くの壁にできたひびを眺めていた。


「……じゃあ、行こう」


三人は広場の中央へ戻った。


「準備できた?」


エルナが尋ねる。


「ああ」


「それじゃ、始めようか」


彼女は槍を構えた。


右手を前、左手を後ろに置き、穂先を蓮へ向ける。


蓮も木剣を構えた。


その直後、瀬戸が小さく言った。


「……三・八メートル」


蓮は頷き、一歩踏み出した。


槍の穂先が動く。


蓮は反射的に剣を上げた。


だが、木槍は剣に触れなかった。


穂先が左へ逸れたかと思うと、次には足元へ伸びてきた。


「っ!」


蓮は後ろへ跳ぶ。


木槍が地面を擦り、砂が跳ねた。


「神谷、二・九!」


瀬戸の声。


蓮は距離を詰めようとした。


槍の内側に入れれば、剣のほうが有利になるはずだ。


ところが、エルナは下がらなかった。


槍を引き寄せ、柄の中央を持つ。


蓮が踏み込んだところへ、今度は石突きが突き出された。


「うわっ!」


蓮は身体を捻った。


木の先端が腹の前を通り過ぎる。


次に槍が回ったときには、蓮の背後へ回り込んでいた。


とん、と軽い感触が背中に触れる。


「はい、一人」


蓮は動きを止めた。


振り返ると、エルナが槍を引いているところだった。


「……今、何が起きた?」


「近づけば槍が使えなくなると思った?」


蓮は頷いた。


「うん」


「長槍なら間合いの内側に入られると不利になる。でも、槍って先っぽだけで戦う武器じゃないから」


エルナは木槍を短く持ち、柄の端を軽く動かしてみせた。


「近づいてくるのがわかっていれば、これくらいはできるよ」


瀬戸が息を吐いた。


「……思ったより速いな」


「まだ天賦も使ってないしね」


エルナは槍を肩に担いだ。


「もう一回やる?」


蓮は木剣を握り直した。


「……頼む」


彼女は頷いた。


「じゃあ、今度は三人とも動いてみて」


二度目は、瀬戸が先に動いた。


「神谷、正面で止めてくれ。俺は右へ回る!」


蓮は槍の穂先を見ながら前へ出た。


エルナは瀬戸を追わない。蓮が一歩踏み込むと、槍を水平に払って近づくのを防いだ。


木剣で受けようとしたが、槍のほうが長い。剣が届く前に、柄で押し返される。


「四・二メートル! 神谷、もう半歩!」


瀬戸が叫ぶ。


蓮は足を動かした。


槍の穂先が右へ流れる。追いかけて剣を振りそうになり、踏みとどまった。


アーロンに教わったことを思い出す。


武器ばかり見るな。


足を見る。


相手の身体を見る。


エルナの右足が、わずかに後ろへ下がった。


次は突きが来る。


そう判断して剣を構えたところで、横から陽菜の声がした。


「瀬戸さん、こっち!」


陽菜は開いた木板を地面に置き、片側を壁へ押し当てていた。


瀬戸がその脇へ回り込む。


エルナの退路を塞ぐつもりだ。


「……なるほど」


エルナが小さく呟いた。


蓮は踏み込んだ。


木剣を振り上げる。


エルナは槍を斜めに構え、剣を受け流した。


そのまま後ろへ下がる。


陽菜が待っている方向へ。


「今です!」


陽菜が板に両手を触れた。


「《仮止め》!」


木板の接合部に光が走る。


板が壁へ固定され、即席の障害物になった。


エルナの背後には木板。


正面には蓮。


右からは瀬戸が近づいている。


蓮は肩の赤い布を見た。


届く。


そう思って剣を下ろしたとき、エルナが槍を回した。


穂先が地面へ向く。


小さな風が、砂を巻き上げた。


「……っ!」


蓮は反射的に目を細めた。


槍の周囲で空気が動いている。


エルナが石突きを地面へ突き立てると、足元の砂が外側へ広がった。


次いで、槍が低く払われる。


風を含んだ穂先が、蓮の木剣を横から押した。


「うわっ!」


剣が大きく逸れた。


エルナはその隙に身体を横へ滑らせ、蓮の左側を抜ける。


瀬戸が追おうとした。


だが、槍が伸びるほうが早かった。


穂先が瀬戸の胸元をかすめ、彼は足を止める。


エルナは槍を引き戻さず、そのまま身体を回した。


石突きが陽菜の背中に触れる。


「はい、二回目」


陽菜が振り返った。


「……えっ?」


エルナは槍を下ろした。


固定されていた木板から光が消え、乾いた音を立てて倒れる。


「今のが《風槍》?」


蓮が尋ねると、エルナは頷いた。


「そう。槍の周りに風を纏わせて、動きを少し変えられる。突きの速度を上げたり、払うときの勢いを強くしたりね」


「……槍だけじゃなくて、風も使えるのか」


「風を自由に飛ばせるわけじゃないよ。今の私だと、槍から離れた場所にはほとんど作用しない」


エルナは穂先を軽く振った。


今度は砂が動かない。


「それに、ずっと使ってたらすぐ疲れる。見た目ほど便利じゃないんだ」


瀬戸が近づいてきた。


「でも、十分厄介でしたよ。あの距離で剣を逸らされたら、近づけない」


「槍使いには、近づかれる前に止める方法が必要だからね」


エルナは陽菜へ目を向けた。


「ところで、一つ聞いていい?」


「はい」


「さっき、私が木板の方へ下がったとき、どうしてそこから動かなかったの?」


陽菜は少し考えた。


「……板を固定しないと、逃げられちゃうと思ったので」


「でも、私はその板の前で止まらなかった」


「……はい」


「あなたが触れられる場所には、私も近づける。固定する前に、槍が届くかもしれないよね」


陽菜は板を見た。


「……そうですね」


エルナは続けた。


「《仮止め》そのものは便利だと思う。ただ、それを使うために危険な場所へ残るなら、別の方法も考えたほうがいい」


「……わかりました」


陽菜が頷く。


エルナは瀬戸へ顔を向けた。


「それから、瀬戸さん」


「はい」


「距離は正確だった。でも、指示が少し多いかな」


「……多い?」


「神谷さんに伝えることと、自分で判断できることを分けたほうがいい。相手までの距離が一歩ごとに変わるのは、見ていればわかるから」


瀬戸は眼鏡を押し上げた。


「……確かに」


「細かな数字が必要な場面もあるけど、全部伝えてたら、聞くほうも大変でしょ」


蓮は頷いた。


実際、瀬戸の指示に合わせて動こうとすると、相手の動きを見る余裕がなくなることがあった。


エルナは最後に蓮を見た。


「神谷さんは、私の肩ばっかり見てたね」


「……布を取るのが勝利条件だったから」


「そう。でも、私が肩を隠したら?」


蓮は答えられなかった。


エルナは槍を持ち上げ、左肩を柄の後ろへ隠した。


「相手が守っている場所を狙うなら、その守りを崩さないと。無理に近づいても、こっちの間合いで戦うことになるよ」


蓮は木剣を見た。


二度挑戦して、まともに近づくことすらできていない。


悔しい。


だが、納得できることばかりだった。


「……もう一回、お願いしてもいい?」


エルナは少し目を細めた。


「いいけど、腕は大丈夫?」


「無理はしない」


「本当に?」


蓮は頷いた。


エルナは一度、リシェルへ目を向けた。


少し離れた場所で見守っていたリシェルが、蓮の右腕を確かめる。


「痛みが出たら、すぐにやめてくださいね」


「わかってる」


エルナは槍を構え直した。


「じゃあ、最後にもう一回」


*


三度目は、すぐに始めなかった。


蓮たちは広場の端へ戻り、作戦を考え直した。


「……どうする?」


瀬戸が尋ねる。


蓮はエルナを見た。


彼女は槍の先端を確かめている。


最初の二回でわかったことがある。


エルナは、こちらが近づくより早く間合いを変える。


槍の長さだけでなく、持つ位置も、足の運びも違う。


正面から布を取ろうとしても、簡単には届かない。


「まず、俺が無理に攻めるのはやめよう」


蓮が言うと、瀬戸は頷いた。


「そうだな。向こうが得意な距離へ入っていくだけだ」


「瀬戸は、エルナの位置を見ててほしい。ただ、細かい距離は言わなくていい」


「必要なときだけ伝えるってことか」


「ああ。それと、陽菜」


蓮は木板を見た。


「板を固定するのは、エルナが近づいてからじゃなくていいと思う」


「……先に?」


「うん。あれを障害物にするんじゃなくて、俺たちが隠れる場所にする」


陽菜は板を広げてみた。


「……盾みたいに?」


「そう。エルナの槍が届かない場所を作れれば、少しは動きやすくなる」


瀬戸が顎に手を当てた。


「でも、固定するのは十秒だけだぞ」


「だったら、最初から最後まで使うんじゃなくて、ここぞってときに使おう」


瀬戸は頷いた。


「……やってみるか」


三人は再び中央へ向かった。


エルナが顔を上げる。


「今度は決まった?」


「ああ」


「じゃあ、どうぞ」


彼女は槍を構えた。


蓮は木剣を持ったまま、すぐには踏み込まなかった。


瀬戸と陽菜も、蓮の少し後ろに立つ。


エルナが一歩、前へ出た。


槍の先が動く。


蓮は足を引き、距離を保った。


続けて、もう一歩。


今度は横へ避ける。


「……来ないんだ?」


エルナが尋ねた。


「そっちの槍が長いからな」


「なるほど」


エルナは少し笑った。


それから、歩く速度を上げた。


槍の穂先が蓮の胸元へ伸びる。


蓮は剣で受けず、身体を横へずらした。


穂先が肩の横を通り過ぎる。


エルナが槍を引く。


その動きに合わせ、蓮も距離を取った。


瀬戸が声を上げた。


「神谷、右!」


蓮は右へ動いた。


エルナの槍が、左側を通る。


陽菜が木板を広げ、地面に置いた。


蓮はその横へ移動する。


エルナが槍を構え直した。


木板の向こうにいる蓮を見て、少し考える。


「……邪魔だね、それ」


槍の先が板へ向いた。


そのとき、瀬戸が反対側から走り込んだ。


エルナはすぐに槍を引き、瀬戸へ向ける。


蓮は動かなかった。


瀬戸が近づき、すぐに下がる。


エルナが追おうとすると、今度は蓮が一歩踏み込む。


槍の向きが変わった。


蓮は下がる。


瀬戸がまた近づく。


その繰り返しだった。


エルナは二人を見比べた。


「……なるほどね」


彼女は槍を身体の横へ引いた。


次に伸びてきた穂先は、蓮でも瀬戸でもなく、陽菜へ向かっていた。


「……っ!」


陽菜が身を引く。


槍の先が木板の横を通る。


エルナはそのまま踏み込み、板を回り込もうとした。


陽菜が両手を伸ばした。


「《仮止め》!」


板と地面の間に光が走る。


固定された木板が、エルナの進路を塞いだ。


エルナは槍を引いた。


そこへ、蓮が近づく。


エルナの左肩。


赤い布。


距離は、あと二歩ほど。


エルナが身体を回した。


槍が横から迫る。


蓮は剣を構えず、足を止めた。


エルナの槍は、その前を通り過ぎる。


続けて踏み込もうとしたところで、瀬戸が叫んだ。


「神谷、待て!」


蓮は動きを止めた。


エルナの右足が、すでに後ろへ引かれている。


次に踏み込めば、槍の石突きがこちらへ届く位置だった。


蓮は半歩だけ下がった。


その直後、石突きが目の前を通った。


「……危なっ」


エルナが少し笑った。


「今の、よく止まったね」


蓮は答えず、足元を見た。


彼女の左足が前に出ている。


右足は後ろ。


槍を引き戻すには、一度身体を動かす必要がある。


蓮は木剣を左へ振った。


エルナが槍で受ける。


その瞬間、蓮は剣を引いた。


代わりに、右ではなく左足を踏み込む。


エルナの身体の横へ回り込んだ。


肩の布が見える。


手を伸ばす。


指先が、赤い布に触れた。


だが、掴む前に風が吹いた。


エルナの槍が、蓮の手首の前を通る。


蓮は反射的に腕を引いた。


槍の柄が木剣へ当たり、手元が外側へ流される。


エルナは半歩下がった。


蓮も距離を取る。


赤い布は、まだ彼女の肩に残っていた。


「……惜しかったね」


エルナが言った。


蓮は荒い息を吐いた。


「……あと少しだったのに」


「うん。今のは危なかった」


エルナは槍を下ろした。


その動きに、蓮は少し驚いた。


「……もう終わり?」


「うん。十分見られたから」


瀬戸が近づいてくる。


「結局、取れなかったな」


「でも、今のは結構いいところまでいっただろ」


蓮が答えると、瀬戸は頷いた。


「そうだな。最初の二回よりは、ずっと動けてた」


陽菜も木板を畳んで戻ってきた。


「最後、もう少し早く固定できてたら……」


「いや、十分だったよ」


蓮は陽菜を見た。


「板がなかったら、あそこまで近づけなかった」


陽菜は少しだけ笑った。


エルナは三人の様子を眺めていた。


槍を肩に担ぎ、しばらく何も言わなかった。


やがて、口を開く。


「……わかった」


蓮たちが振り返る。


「何が?」


「一緒に戦ってもいいと思う」


蓮は目を瞬いた。


「……本当か?」


「うん」


エルナは頷いた。


「まだ危なっかしいところは多いけど、少なくとも、仲間を置いて逃げるような戦い方はしてない」


瀬戸が腕を組んだ。


「……それ、かなり重要なんですか?」


「私にはね」


エルナは木槍を壁際へ戻した。


「前に組んでた連中は、勝てそうにないとわかると、弱い奴から切り捨てた。そういう戦い方は、もうしたくないんだ」


蓮は彼女を見た。


掲示板の前で聞いた、以前の試合の話。


同盟を結んだ相手に裏切られたという話。


それが、今の言葉と繋がった。


「……だから、最初に勝てそうにない試合には出ないって言ったのか」


エルナは頷いた。


「そう。勝てる見込みがないのに、仲間だけ増やしても意味ないでしょ」


彼女は蓮へ目を向けた。


「でも、今の三人なら、少なくとも勝ち方を考えてる。そこは悪くないと思った」


蓮は少し考えた。


「……じゃあ、仲間になってくれる?」


「条件次第かな」


エルナは笑った。


「私は自由剣闘士だから、無償で戦うわけにはいかない。生活もあるしね」


リシェルが一歩前へ出た。


「もちろんです。報酬については、正式に相談させてください」


「うん。それと、もう一つ」


エルナはリシェルを見た。


「試合中、勝つために仲間を見捨てろって命令はしないでほしい」


リシェルは頷いた。


「そのような命令をするつもりはありません」


「……本当に?」


「はい」


エルナは少しの間、彼女を見つめた。


「……わかった」


槍を背中へ戻す。


「じゃあ、契約の話をしようか」


*


契約の話は、模擬戦場の隣にある休憩室で行うことになった。


小さな丸机を囲み、リシェルとエルナが向かい合う。


蓮たちは少し離れた長椅子に座っていた。


「希望される契約料について、伺ってもよろしいですか?」


リシェルが尋ねると、エルナは指を三本立てた。


「最低保証は金貨三枚。それとは別に、勝った試合の賞金から一割を希望する」


瀬戸が小さく口笛を吹いた。


「……高いな」


「そう?」


エルナは彼を見た。


「五人まで出られる試合に、わざわざ四人で参加するんでしょ。それなりに危ない仕事だと思うけど」


「それは、確かに」


瀬戸は口を閉じた。


リシェルは手元の帳簿を開いた。


しばらく数字を確認してから、顔を上げる。


「勝利報酬については、ご希望に沿えると思います。ただ、金貨三枚をすぐにお支払いするのは難しい状況です」


「どれくらいなら出せる?」


「契約時に金貨一枚。残りの二枚は、大会の終了後にお支払いする形ではいかがでしょうか」


エルナは腕を組んだ。


「……分割か」


「はい。支払期日については契約書に明記いたします」


「負けた場合も?」


「もちろんです」


エルナは少し考えた。


「じゃあ、治療費は?」


「試合中の負傷については、当家が負担します」


「装備の修理は?」


「通常の使用による損耗であれば、当家で負担いたします」


「途中で契約を解除したくなったら?」


リシェルは帳簿から顔を上げた。


「大会終了後でしたら、自由に解除していただけます。ただし、大会の途中で一方的に離脱された場合は、未払いの報酬について協議させてください」


エルナは頷いた。


「……悪くないね」


そこで初めて、少し笑った。


「もっと厳しい条件を出されると思ってた」


「当家としても、無理のある契約を結ぶつもりはありません」


「でも、そっちの家は余裕ないんでしょ?」


リシェルの手が止まった。


エルナは机に肘をついた。


「噂くらいは聞いてるよ。アルヴェイン家が今期の戦績を落としてることも、領地を手放すかもしれないことも」


蓮はリシェルを見た。


彼女は静かに頷いた。


「事実です」


「だったら、私を雇うのも結構な賭けになると思うけど」


「そうですね」


リシェルは帳簿を閉じた。


「ですが、今の三人で八旗争奪戦へ参加するよりも、あなたに加わっていただくほうが勝機は増えると考えています」


エルナはしばらく彼女を見ていた。


「……はっきり言うんだね」


「大切なことですから」


リシェルはそう答えた。


エルナは椅子の背にもたれた。


「もう一つ、確認していい?」


「はい」


「私が試合中に退くべきだと判断したら、撤退を認めてほしい。もちろん、勝手に逃げるつもりはない。でも、明らかに無理な状況で戦い続けるのは嫌なんだ」


リシェルはすぐには答えなかった。


「仲間の皆さんへ撤退を伝えることは、できますか?」


「できる限りは」


「でしたら、その条件も加えましょう」


エルナが少し目を見開いた。


「……いいの?」


「はい。危険な状況を判断できる方が増えるのは、私たちにとっても助かることです」


リシェルは新しい紙を取り出した。


「ただし、ほかの方々にも同じ判断の権利があります。誰か一人の意見だけで決めるのではなく、状況に応じて相談してください」


「……わかった」


エルナは頷いた。


リシェルが契約条件を書き始める。


その様子を見て、瀬戸が蓮へ顔を寄せた。


「……リシェルさん、交渉慣れしてるな」


「そうだな」


「俺たちが初めて会ったときとは、全然違う」


蓮は小さく頷いた。


最初に会ったときのリシェルは、自分たちを召喚したことを謝り、家の事情を不器用に説明していた。


今は、相手の条件を聞きながら、出せるものと出せないものを整理している。


きっと、こういう仕事を何度も繰り返してきたのだろう。


蓮が見ていると、リシェルが顔を上げた。


「蓮さん。何か気になることがありますか?」


「……いや。ちゃんと交渉してるなって」


リシェルは少し困ったような顔をした。


「それは、仕事ですから」


エルナが笑った。


「意外と失礼なこと言うね、神谷さん」


「……そういうつもりじゃなかったんだけど」


「わかってる」


エルナは椅子から立ち上がり、伸びをした。


「じゃあ、私はその条件でいいよ」


リシェルが頷く。


「ありがとうございます。正式な契約書を作成しますので、内容をご確認いただいてから署名をお願いします」


「了解」


エルナは蓮たちへ振り返った。


「というわけで、しばらく一緒に戦うことになりそうだね」


陽菜が立ち上がった。


「よろしくお願いします!」


「こちらこそ」


瀬戸も手を差し出した。


「助かります。正直、俺たちだけじゃ前衛が足りなくて」


エルナはその手を握った。


「まあ、私も何でもできるわけじゃないけどね」


最後に、蓮の前へ来る。


「神谷さんも、よろしく」


蓮は左手を差し出した。


「ああ。よろしく、エルナ」


彼女は握手を返した。


槍を持ち続けてきた手なのだろう。掌には硬い部分がいくつもあった。


「……一つ言っておくけど」


エルナが口を開いた。


「私は、あんたたちより少し経験があるだけだからね。全部私に任せようとか、考えないでよ」


「それは大丈夫」


蓮は答えた。


「俺たちも、できることはちゃんとやるから」


エルナは頷いた。


「なら、いい」


手を離す。


それから、蓮の右腕を見た。


「……それと、その腕」


「ん?」


「模擬戦では狙わなかったけど、実戦じゃそうはいかないよ」


蓮は自分の右腕を見た。


「……わかってる」


「怪我してるなら、そこを狙われると思ったほうがいい。相手が人間なら特にね」


エルナは木槍を肩へ担ぎ直した。


「次の試合までに、そこも考えよう」


蓮は頷いた。


*


契約を終えた頃には、陽が傾いていた。


登録管理局から出ると、広場の人通りは昼より少なくなっている。


リシェルは従者へ書類を預け、馬車の準備を頼んだ。


エルナは蓮たちと一緒に、広場の端で待っていた。


「そういえば、エルナは今どこに住んでるんだ?」


瀬戸が尋ねた。


「王都の下町。宿を借りてる」


「家は別にあるの?」


「あるよ。ここから二日くらい離れた町に」


エルナは槍の柄を布で拭きながら答えた。


「でも、仕事が少ないから王都へ出てきたんだ。地方の試合だけじゃ、なかなか稼げないしね」


「自由剣闘士って、普段はどうやって仕事を探すんだ?」


「登録管理局の掲示板が一番多いかな。あとは紹介。前に組んだ人から声がかかることもある」


エルナは布を畳み、腰の小袋へ入れた。


「ただ、最近はあまり紹介を受けてないけど」


瀬戸が顔を上げた。


「……前の試合の件?」


「まあね」


エルナは笑ったが、それ以上は話さなかった。


蓮は彼女の槍を見た。


長い柄には、何度も握った跡がある。


穂先の金属は丁寧に磨かれていたが、柄の途中には細かな傷が残っていた。


「……その槍、ずっと使ってるのか?」


蓮が尋ねる。


エルナは少し驚いた顔をした。


「これ?」


「ああ」


「十七の頃から使ってる。最初に自分のお金で買った槍なんだ」


「……六年も?」


「そう。何度か修理してるけどね」


彼女は槍を持ち上げた。


「いい槍なんだよ。長さも重さも、今の私にはちょうどいい」


蓮は槍を見た。


訓練場で彼女が動かしていたとき、穂先の速さについていけなかった。


あれは能力だけではない。


六年間、同じ武器を扱ってきた人間の動きだった。


「……すごいな」


蓮が呟くと、エルナは首を傾げた。


「何が?」


「六年も続けてるのが」


「……別に、好きで始めたわけじゃないけどね」


エルナは槍を肩へ戻した。


「食べていくために必要だっただけ」


蓮は何も言わなかった。


彼女は少し考えてから続けた。


「でも、今は嫌いじゃないよ。戦い方を覚えるのも、強い相手とやり合うのも」


遠くで鐘が鳴った。


広場にいた剣闘士たちが、何人か門の方へ歩き始める。


エルナはその様子を眺めていた。


「……ただ、勝つために何でもするっていうのは、私には合わなかった」


蓮は彼女を見た。


エルナは視線を戻す。


「だから、あんたたちに声をかけてよかったと思えるといいな」


「……そう思ってもらえるように頑張るよ」


蓮が答えると、エルナは小さく笑った。


「期待してる」


そのとき、リシェルが戻ってきた。


「馬車の準備ができました。皆さん、参りましょう」


蓮たちは頷いた。


エルナも一緒に歩き出す。


馬車の前で、リシェルが彼女へ声をかけた。


「エルナさん。もしよろしければ、当家の屋敷に滞在されませんか?」


エルナは足を止めた。


「……いいの?」


「はい。訓練も一緒に行うことになりますし、移動の負担も減ると思います」


「でも、部屋は空いてる?」


「一室、ご用意できます」


エルナは少し考えた。


「……じゃあ、お世話になろうかな」


「もちろんです」


リシェルが微笑んだ。


陽菜が嬉しそうに声を上げる。


「じゃあ、これから一緒に練習できますね!」


「そうだね」


エルナも頷いた。


瀬戸が蓮の肩を軽く叩いた。


「……四人になったな」


「……ああ」


蓮は馬車へ目を向けた。


最初は、たった三人だった。


それが今、四人になった。


人数が増えただけで、すぐに強くなれるわけではない。


戦い方を覚え、互いの能力を理解し、連携を練習しなければならない。


それでも、エルナが加わったことで、今までできなかったことができるようになるかもしれない。


蓮は馬車へ乗り込んだ。


続いて、瀬戸と陽菜。


エルナが最後に乗ろうとして、少し立ち止まった。


「……どうした?」


蓮が尋ねる。


エルナは広場を振り返っていた。


「いや、ちょっとね」


彼女は何かを探すように、人の少なくなった広場を見渡した。


やがて、馬車へ乗り込む。


「……行こう」


蓮はそれ以上聞かなかった。


馬車が動き出す。


窓の外で、登録管理局の建物が遠ざかっていく。


エルナはしばらく外を見ていたが、やがて身体を戻した。


「そういえば、八旗争奪戦まで、あと何日?」


瀬戸が答える。


「八日くらいかな」


「……八日か」


エルナは少し考えた。


「じゃあ、明日から忙しくなるね」


蓮は頷いた。


「何から始める?」


「まずは、あんたたちの戦い方をもう少し見せてもらう。それから、役割を決め直したい」


エルナは蓮を見た。


「今まで前衛が一人だったんでしょ?」


「ああ」


「だったら、これからは私も前に出る。神谷さんは無理に全部引き受けなくていい」


蓮は少し驚いた。


「……いいのか?」


「そのために呼んだんじゃないの?」


エルナが笑う。


「槍使いなんだから、前に立たないと仕事にならないでしょ」


蓮も笑った。


「……確かに」


瀬戸が腕を組んだ。


「じゃあ、神谷とエルナさんで前衛二人。俺と村瀬さんが後ろか」


「それが基本になると思う。でも、相手によって変えたほうがいい」


エルナは窓の外へ目を向けた。


「八旗争奪戦は、普通の試合とは違うからね」


「……どの辺が?」


蓮が尋ねる。


エルナは少し考えた。


「一番大きいのは、敵が七派閥もいること」


彼女は指を一本立てた。


「強い派閥を倒しても、その後に別の派閥から襲われたら意味がない。逆に、弱い派閥でも最後まで残れば勝てる」


瀬戸が頷いた。


「……だから、最初から戦いすぎないほうがいい?」


「そう。特に人数の少ない私たちは、無駄な戦闘を避けたほうがいい」


エルナは指をもう一本立てた。


「それから、同盟には気をつけること」


蓮は彼女を見た。


「……前に言ってたやつか」


「うん」


エルナは頷いた。


「一緒に戦ってる間は味方でも、最後には敵になる。そこを忘れると危ない」


陽菜が少し不安そうな顔をした。


「……じゃあ、誰も信用しないほうがいいんですか?」


「そういうわけじゃないよ」


エルナは首を振った。


「同盟そのものが悪いわけじゃない。問題は、何を約束して、どこまで協力するのかを決めないこと」


彼女は陽菜を見た。


「例えば、強い派閥を倒すまで協力する。そこから先は敵同士に戻る。それなら、最初からわかってるでしょ」


「……なるほど」


「でも、何となく味方になって、最後まで一緒に戦おうなんて約束したら、どこかで揉めることになる」


蓮は頷いた。


エルナの言葉には、経験から来る重さがあった。


実際に裏切られたことがあるからこそ、気をつけているのだろう。


「……わかった。明日から、その辺も教えてほしい」


「もちろん」


エルナは少し笑った。


「ただ、私も全部知ってるわけじゃないから。一緒に考えよう」


蓮は頷いた。


馬車は街を抜け、丘へ続く道に入った。


夕日が畑を照らし、遠くにアルヴェイン家の屋敷が見えてくる。


四人の剣闘士。


一人の女性貴族。


まだ小さな勢力だった。


それでも、次の試合へ向けて、新しい準備が始まろうとしていた。


屋敷の門が近づく。


エルナは窓の外を見て、少し驚いたように呟いた。


「……思ったより、小さい屋敷だね」


瀬戸が笑った。


「まあ、そこは来ればわかると思ってた」


リシェルが少し困ったように微笑む。


「ご期待に添えず、申し訳ありません」


「いや、別に悪い意味じゃないよ」


エルナは首を振った。


「もっと堅苦しい場所かと思ってたから」


彼女は屋敷の門を見た。


石壁には補修の跡が残り、庭木はきれいに刈り込まれている。


「……こういうところも、嫌いじゃない」


馬車が止まった。


蓮は扉を開け、先に降りた。


エルナへ手を差し出す。


彼女は一瞬だけその手を見た。


それから、笑った。


「……ありがと」


手を借りて降りると、背中の槍を持ち直した。


「じゃあ、しばらくよろしくね。神谷さん」


「蓮でいいよ」


エルナは顔を上げた。


「……いいの?」


「ああ。これから一緒に戦うんだし」


彼女は少し考えてから頷いた。


「じゃあ、蓮」


初めて、名前で呼ばれた。


「明日から、遠慮しないからね」


蓮は笑った。


「……お手柔らかに頼む」


エルナは肩をすくめた。


「それは、どうかな」


彼女は先に門をくぐった。


蓮はその背中を見送り、後に続いた。


訓練場には、まだ夕方の光が残っていた。


明日から、あそこに四人が並ぶことになる。


蓮は右腕を軽く動かした。


痛みは、ほとんどない。


槍を持ったエルナの背中が、屋敷の方へ遠ざかっていく。


その歩き方を見ていると、明日の訓練も簡単には終わらなさそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。