第二十三話:日曜日の訪問者と、二つの顔のプロデューサー
日曜日の昼下がり。
月島家のリビングには、いつもとは少し違う、穏やかな緊張感が漂っていた。
月島暦は、自分の部屋でそわそわと落ち着かない様子で窓の外を眺めている。今日は、東雲翔真さんが、養父母である譲さんと佐和子さんに、「月島暦の美術の才能への支援」について説明するために、家を訪れる日だった。
(…東雲さん、大丈夫かな…お父さんもお母さんも、きっと驚くだろうな…)
Kのことはもちろん秘密だが、それでも「娘の才能に惚れ込んだ見知らぬ男性が、突然支援を申し出てくる」という状況は、普通に考えればかなり特殊だ。暦は、東雲さんの手腕を信じてはいたが、やはり心配で胸がいっぱいだった。
約束の時間きっかりに、インターホンが鳴った。
「はーい」と佐和子さんの明るい声が響き、玄関のドアが開く。
リビングで待っていた暦の耳にも、丁寧な男性の声が聞こえてきた。
「本日お約束させていただきました、東雲と申します。この度は、貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます」
その声は、いつものKのプロデューサーとしての東雲さんとは少し違う、どこか柔らかく、そして知的な響きを持っていた。暦は、そっとドアの隙間からリビングの様子を窺う。
リビングに通された東雲さんは、落ち着いたチャコールグレーのスーツに身を包み、その手には上質な革のブリーフケースを携えていた。その佇まいは、敏腕プロデューサーというよりも、どこかの大学の若き准教授か、あるいは文化財団の理事といった雰囲気を醸し出している。
(…すごい、東雲さん、完全に役になりきってる…)
暦は、その完璧な変貌ぶりに、思わず息を呑んだ。
「本日は、お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。娘の暦のことで、何かお話があると伺っておりますが…」
譲さんが、少し緊張した面持ちで切り出す。
東雲さんは、穏やかな笑みを浮かべると、まず深々と頭を下げた。
「こちらこそ、突然のご連絡にも関わらず、このようにお時間を賜り、心より感謝申し上げます。月島譲様、佐和子様、そして…暦さん、ですね?」
東雲さんは、部屋の隅で固まっている暦にも、優しい視線を向けた。その視線は、「大丈夫ですよ」と語りかけているようだった。
「はい、娘の暦です」
佐和子さんが、促すように暦の背中を軽く押す。暦は、緊張しながらも、なんとか「こんにちは…」と小さな声で挨拶をした。
東雲さんは、ブリーフケースから数枚の資料を取り出し、テーブルの上に丁寧に広げた。
「単刀直入に申し上げます。私は、先日、市の児童絵画コンクールの過去の受賞作品を拝見する機会がございまして、そこで暦さんの描かれた風景画に、大変強い感銘を受けました。その繊細な色彩感覚と、独創的な世界観は、中学生の作品とは到底思えないほどの完成度でした」
その言葉に、譲さんと佐和子さんは、驚いたように顔を見合わせる。
「娘の絵を…? それは、あの子が小学生の時に描いた…」
「はい。そして、先日キララチューブ社が主催いたしました『未来のクリエイター発掘プロジェクト』におきましても、暦さんの作品は、中学生以下アート部門で見事大賞を受賞されました。このコンクールには、全国から多数の応募があり、その中での大賞は、まさに快挙と言えるでしょう。暦さんの持つ芸術的才能は、間違いなく特筆すべきものです」
東雲さんは、Kのことは一切出さず、あくまで「月島暦の美術の才能」について、具体的な実績を交えながら、熱意を込めて語る。その語り口は、専門的な知識を交えつつも分かりやすく、そして何よりも、暦の才能に対する純粋な称賛と期待に満てていた。
「実は、私は、若手芸術家の育成と支援を目的とした文化振興財団の設立準備にも関わっておりまして…暦さんのような素晴らしい才能を持つ若い方が、経済的な心配をすることなく、存分にその才能を伸ばせる環境を提供したいと、常々考えておりました。つきましては、誠に不躾なお願いとは存じますが、当財団(設立準備室)から、暦さんに対し、ささやかではございますが、美術奨学金並びに活動支援金を提供させていただけないでしょうか。具体的には、画材の購入費用、美術系のワークショップや展覧会への参加費用、将来的には美術系の高校や大学への進学費用なども視野に入れております」
その申し出に、譲さんと佐和子さんは、ただただ唖然としていた。まさか、娘の絵が、これほどまでに評価され、そしてこのような具体的な支援の申し出を受けることになるとは、夢にも思っていなかったからだ。
「そ、そんな…うちの暦に、そこまでしていただくなんて…」
佐和子さんが、戸惑いの声を上げる。
「もちろん、ご無理強いするつもりはございません。ただ、暦さんの才能は、間違いなく磨けば光る原石です。その輝きを、私たちは最大限に引き出すお手伝いをしたいのです。どうか、前向きにご検討いただければ幸いです」
東雲さんは、終始穏やかで、しかし誠実な態度を崩さなかった。
暦は、そのやり取りを、息を詰めて見守っていた。
東雲さんの完璧な「演技」と、養父母の驚きと戸惑いの表情。
(すごい…東雲さん、本当に、ただの「美術支援家」にしか見えない…お父さんもお母さんも、私の絵のことを、こんなに真剣に考えてくれてる…)
そして、養父母が、自分の「絵の才能」を、こんなにも真剣に評価してくれる人がいるという事実に、戸惑いながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべているのを見て、暦の胸にも、温かいものがこみ上げてくるのを感じた。
(…でも、Kのことは言えない…本当は、このお金の出所も…)
ほんの少しだけ、罪悪感のようなものが胸をよぎる。しかし、これは東雲さんが、自分と、そして両親を守るために考えてくれた最善の方法なのだと、暦は自分に言い聞かせた。
長い話し合いの末、譲さんと佐和子さんは、東雲さんの熱意と誠実さ、そして何よりも暦の才能を信じ、その申し出をありがたく受けることを決めた。
「東雲様、本日は本当にありがとうございました。娘の才能を、そこまで信じてくださる方がいらっしゃるなんて…親として、これほど嬉しいことはございません」
譲さんが、深々と頭を下げる。
「暦、よかったわね。あなたの絵が、こんな形で認められるなんて…お母さん、本当に嬉しいわ。これからも、好きなことを一生懸命やりなさいね」
佐和子さんは、涙ぐみながら暦の手を握った。
東雲さんは、にこやかに頷き、そして暦に向かって、意味ありげに片目をつぶってみせた。それは、「計画通りですよ、暦さん」という、二人の「共犯者」だけが分かる、秘密の合図だった。
こうして、月島暦は、表向きには「美術の才能を認められた奨学生」として、Kとしての活動で得られる報酬の一部を、クリーンな形で受け取ることができるようになった。
そして、東雲翔真は、月島家の両親からも絶大な信頼を得る、「月島暦の才能を支援する篤志家」という、もう一つの顔を手に入れたのだった。
この二つの顔を巧みに使い分け、彼はこれから、K(暦)を世界のトップへと導き、そして月島暦としての穏やかな日常を守り抜くという、困難なミッションに挑んでいくことになる。
その第一歩は、完璧な形で踏み出されたと言えるだろう。
窓の外では、初夏の太陽が、月島家を明るく照らしていた。




