第二十話:アトリエの喧騒と、夕焼けの約束
美術室での、思いがけない「キララチューブ主催イベント大賞受賞」の報。
月島暦は、依然として混乱の渦中にいた。田中先生や美術部員たちの称賛の声が、どこか遠くに聞こえる。
(東雲さん…一体、いつの間にこんなことを…しかも、私の絵を勝手に…でも、これで「月島暦」としての公的な実績ができたってことなのかな…?)
頭の中では、敏腕プロデューサーの顔が、してやったりとばかりに微笑んでいるような気がした。
「それにしても、月島さん、本当にすごいじゃないか! あのキララチューブだよ? 将来は本当に芸術家になるんじゃないか?」
田中先生が、興奮冷めやらぬ様子で暦の肩を叩く。
「あ、ありがとうございます…でも、私、まだ全然そんな…」
暦は、曖昧に言葉を濁すしかなかった。
騒ぎが少し落ち着き、仮入部の生徒たちがそれぞれの興味のある場所へと散らっていく中、一緒に美術室に来ていた早川美咲が、暦のそばにやってきた。
「ねえ、暦ちゃん、さっきのキララチューブの賞の話、本当だったんだね! すごいよー!」
美咲は、素直に感心した様子だ。
「う、うん…でも、私もまだよく分からなくて…もし、何かの間違いだったらどうしようって、ちょっとドキドキしちゃった。間違いだったら…なんか、すごく恥ずかしいな…って」
暦は、自分のことなのにどこか他人事のように、頬を赤らめながら呟いた。東雲さんからのメッセージは確認したが、詳細はこれからだ。
「で、結局、部活どうするー? 暦ちゃんは、やっぱり美術部にするの?」
美咲が、話題を変えるように尋ねる。
「私? うん…やっぱり、美術部がいいかなって思ってる。さっき、木炭で描いてみて、すごく楽しかったし…それに、自分のペースで活動できそうだから」
(Kとしての活動を考えると、時間的な自由度は重要だ)と、暦は心の中で付け加えた。
「そっかー! 暦ちゃん、絵、本当に上手だったもんね! 私、隣で見てたけど、びっくりしちゃったよ。なんか、こう…吸い込まれるみたいな感じで。集中してる時の暦ちゃんって、なんだかすごく綺麗で…うん、画になるっていうか…見惚れちゃった」
美咲のストレートな褒め言葉に、暦は再び顔を赤らめた。
「も、もう、美咲ちゃんまでからかわないでよ…!」
「えー、本当のことなのにー! あ、そうだ! 美術部もいいけどさ、やっぱり勉強も教えてほしいなー! 今度の中間テストの範囲、難しかったところ、暦ちゃんに教えてもらいたい!」
「私も私もー! 暦先生、お願いします!」
いつの間にか、周りに数人のクラスメイトが集まってきていた。どうやら、先ほどの答案返却での暦の優秀ぶりが、改めて注目を集めているらしい。
「え、ええっ!? わ、私なんかが先生なんて、そんな…!」
「いいじゃんいいじゃん! みんなで集まって勉強会しよーよ! 暦ちゃんの家、ちょっと遠いから、うちでやらない? うち、学校から近いし!」
美咲の提案に、「いいねー!」「私も混ぜてー!」と、わいわいと盛り上がり始める。
暦は、その勢いに少し戸惑いながらも、友人たちに頼りにされることが、どこか嬉しくもあった。
「う、うん…私でよければ…みんなで一緒に頑張れるなら…」
こうして、期せずして「月島暦先生の勉強会(仮)」の開催が決定した。
その後、暦は正式な入部届を手に、美術室にいる田中先生の元へと向かった。
「先生、あの…美術部に、入部したいです」
「おお、月島さん、本当かい! それは嬉しいな、大歓迎だよ!」
田中先生が、満面の笑みで入部届を受け取ってくれる。高橋涼介先輩をはじめとする美術部員たちも、温かい拍手で暦を迎えてくれた。
「これからよろしくね、月島さん。君の絵、本当に楽しみにしてるんだ」
高橋先輩の優しい言葉に、暦は少しだけ緊張が解け、自然と笑顔になった。
その日の美術部は、仮入部の生徒も多く、いつもより活気に満ちていた。
暦は、再びイーゼルの前に座り、木炭を手に取る。先ほどの石膏像の続きだ。
周囲の喧騒も気にならないほど、彼女は深く集中していく。対象を捉え、光と影を追い、無心で手を動かす。その姿は、真剣そのもので、どこか近寄りがたいほどのオーラを放っていた。
何人かの部員たちが、そんな暦の姿を遠巻きに見て、ひそひそと囁き合っている。
「なあ、月島さんの集中力、すごいよな…」
「うん、それに描いてる姿、奇麗だよね、なんか見入っちゃう…」
「…ちょっと、月島さんにモデルになってもらえないか、お願いしてみない?」
数人の男子部員と女子部員が、顔を見合わせる。そして、意を決したように、代表して高橋先輩が、おそるおそる暦に声をかけた。
「あ、あの、月島さん…もしよかったらなんだけど…君の、その描いてる姿を、僕たちに描かせてもらえないかな…? その…すごく、絵になるというか…」
先輩の言葉に、他の部員たちも「お願い!」「ぜひ!」と口々に頼み込んでくる。
「……え?」
ふと、我に返った暦は、自分に向けられるたくさんの真剣な眼差しに、驚いて動きを止めた。自分の姿を描きたい、と?
「い、いえ…そんな…私なんかを描いても、つまらないですよ…?」
暦は、顔を真っ赤にしながら俯いた。人に見られるのは慣れていないし、ましてや自分の姿を描かれるなんて、恥ずかしすぎる。
「いやいや、そんなことないよ! 君が真剣に絵に向き合ってる姿は、本当に魅力的だと思うんだ。お願いできないかな?」
高橋先輩の真摯な眼差しと、他の部員たちの期待に満ちた表情に、暦は断りきれなかった。
「……は、はい……あの…それでよろしければ……どうぞ……」
再びデッサンに向き直ったものの、背後や斜め前から感じる複数の視線に、暦の心臓はドキドキと高鳴りっぱなしだった。
夕方になり、部活動の終了時間が近づいてきた。
「はい、今日はここまでー! 片付けをして、あまり遅くならないように帰るように! 女子は特に、できるだけ何人かで一緒に帰るんだぞー」
田中先生の声が響く。
暦も、ホッとしたような、名残惜しいような気持ちで片付けを始めた。
部員たちが三々五々帰り支度をする中、暦は、高橋先輩と帰りが途中まで同じだということを知った。自然と、二人で美術室を出る形になる。
最初は美術の話で少し盛り上がったが、校門を出てしばらく歩くと、ふと会話が途切れ、微妙な沈黙が流れた。暦は、なぜだか急に先輩の顔をまともに見ることができず、少しだけ距離を置いて歩いてしまう。
(…な、なんだろう、この感じ…別に、意識してるわけじゃ…ない、けど…)
「じゃあ、僕はこっちだから」
駅への分かれ道で、高橋先輩が不意に立ち止まった。
「あ、はい。今日は、ありがとうございました」
暦は、慌ててお辞儀をする。
「うん、また明日。気をつけて帰ってね」
先輩は、優しい笑顔でそう言うと、手を振って去っていった。
帰り道、美咲たちと別れ、高橋先輩とも駅への分かれ道で挨拶を交わし、ようやく一人になった暦の足取りは、いつもより少しだけ重かった。今日の出来事が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。テストの答案のこと、美術部への正式入部、そして何よりも、あの美術室での「キララチューブ主催イベント大賞受賞」という、寝耳に水のサプライズ。
(…東雲さん、一体どうやって? 私の絵を? しかも、私が知らない間に応募して、大賞って…そんなの、あり得るの…?)
思考はまとまらず、もやもやとしたものが胸の中に広がる。夕焼け空の美しさも、今の暦の目にはどこかぼんやりとしか映らない。
自宅に帰り着き、養母の佐和子に「おかえりなさい」と声をかけられても、どこか上の空で返事をしてしまう。そのまま自分の部屋に駆け込むと、ベッドに倒れ込むようにして、大きくため息をついた。
窓の外は、もうすっかり茜色から深い藍色へと変わり始めている。部屋の中も薄暗く、それが今の暦の心境を映しているかのようだった。
(…東雲さんに直接聞くしかない!)
むくりと起き上がり、机の上のスマートフォンを手に取る。そして、東雲さんからのメッセージを開いた。そこには、やはり、あの言葉が記されていた。
『K様、月島暦様としての「公的な実績作り」の第一歩、無事完了いたしました。キララチューブ主催「未来のクリエイター発掘プロジェクト」中学生以下アート部門大賞、誠におめでとうございます。作品は、以前K様のイメージ資料として拝見した、あの素晴らしい風景画(もちろん匿名での応募です)を使用させていただきました。詳細は、また改めて。これにより、今後の様々な「支援」が、より自然な形で行えるかと存じます』
「…………やっぱりだ」
暦は、スマートフォンの画面をみながら、呟いた。その表情は、呆れと、感心と、そしてほんの少しの怒りが入り混じった、複雑なものだった。
(匿名での応募って…勝手に私の絵を使ったってことじゃない! しかも、イメージ資料として見せただけで、まさかコンクールに出品されてるなんて、思わなかった!)
確かに、東雲さんの手腕は認める。これで「月島暦」が公的な評価を得て、今後の活動がスムーズになるというのも理解できる。でも、だからといって、本人に何も言わずに事を進めるのは、ちょっと…。
(…これは、ちゃんと問い質さないと気が済まない!)
暦の瞳に、カッと闘志の炎が灯る。もはや、悶々としている場合ではない。これは、Kとして、そして月島暦として、敏腕プロデューサー東雲翔真に対する、正当な「尋問」を開始する時だ。
彼女は、メッセージアプリを開き、東雲さんへの返信を打ち込み始めた。その指先は、先ほどまでの混乱が嘘のように、迷いなく、そして力強くキーボードを叩いていた。
『東雲さん。先ほどの件、確認いたしました。…つきましては、いくつか、お伺いしたいことがございます。明日の放課後、お時間いただけますでしょうか? 場所は、いつものスタジオの、あの「花瓶が割れた」控え室で結構です。もちろん「K」として、ではなく「月島暦」として、です。…まさか、お忘れではないですよね? 私が、まだ13歳の中学生で、あなたに色々と「説明責任」があるということを』
送信ボタンを押すと、暦はふぅっと息を吐いた。少しだけ、胸のつかえが取れたような気がする。
さて、敏腕プロデューサーさんは、この「13歳の尋問官」からの呼び出しに、どう応えてくれるのだろうか。
窓の外には、一番星がキラリと輝き始めていた。それは、明日からの新たな波乱(と、もしかしたら少しの楽しみ?)を予感させる、いたずらな瞬きのようだった。




