四、神崎広綱との邂逅
やがて、一際大きな屋敷の前に辿り着いた。
木造の屋敷だが、周囲の家よりも立派だ。門には槍を持った男が立っている。
「捕らえた怪しい者を、殿に」
「分かった。中で待て」
田邊は、屋敷の中へと導かれた。
土間を通り、板張りの廊下を歩く。板の冷たさが足に伝わる。
家の中は薄暗い。窓が少なく、照明もない。行灯のような明かりが、わずかにあるだけだ。
廊下を歩きながら、田邊は五感を研ぎ澄ませた。
木の匂い。土壁の匂い。そして、人の生活の匂い。
現代の家にはない、生々しい匂いだ。
やがて、広間のような場所に通された。
畳が敷かれた部屋。だが、畳も粗末なもので、い草の香りはするが、目は粗い。
そして、その奥に、一人の男が座っていた。
四十代半ばくらいだろうか。
顔には無数の皺が刻まれている。だが、それは単なる老化の皺ではない。風雪に晒され、戦場を生き抜いてきた者の皺だ。
目は鋭く、田邊を射抜くように見つめている。黒い瞳の奥に、計り知れない深さがある。
「これが怪しい者か」
男の声は、低く重かった。よく通る声だ。命令を下し、兵を率いてきた者の声だ。
「はい。森の外れで見つけました。何も持たず、見慣れぬ顔です」
田邊を連れてきた男が、恭しく答える。
男は、しばらく黙って田邊を見つめていた。
田邊は、その視線の重さに、思わず視線を逸らしそうになった。だが、逸らしてはいけないと直感した。
この時代、目を逸らすことは弱さの証だ。相手に侮られる。
田邊は、意を決して男の目を見返した。
男の目が、わずかに細くなった。興味を持ったのだろうか。それとも、警戒を強めたのか。
「名は」
「た、田邊紘一と申します」
田邊は、自分の本名を名乗った。嘘をついても、すぐにボロが出る。
「田邊……聞かぬ名だ。どこから来た」
「それが……道に迷いまして」
「どこからだと聞いている」
語気が強くなった。田邊は焦った。
「遠く、東の方から……」
田邊は、曖昧に答えた。
「東? 具体的に言え」
「江戸……いえ、そのあたりから」
江戸という地名を出した瞬間、男の目が細くなった。
「江戸だと? 今は享禄の世だぞ。江戸などという場所があるか」
享禄。
田邊の脳裏に、歴史の知識が蘇った。
享禄年間—西暦で言えば1528年から1532年。室町時代の末期。戦国時代の初期だ。
「……申し訳ございません」
田邊は、深く頭を下げた。
そして、とっさに嘘を思いついた。
「私、頭を打ちまして、記憶が曖昧で……」
記憶喪失を装う。それしかない。
男は、少し表情を緩めた。
「記憶がないと申すか」
「はい。気がついたら森の中におりまして……自分が誰なのか、どこから来たのかも……」
これは、半分本当だ。田邊は、確かに森の中で目覚めた。そして、なぜここにいるのか分からない。
男は、しばらく黙って田邊を見ていたが、やがてため息をついた。
「まあよい。少なくとも、間者や賊の類ではなさそうだ」
男の声に、わずかに温度が戻った。
「見たところ、お前は武家の出ではないな。だが、かといって農民風でもない」
鋭い観察眼だ。
田邊は、確かに武士ではない。だが、現代の教師として、それなりの教養と品位を身につけている。それが、立ち居振る舞いに現れているのだろう。
「しばらくここに置いてやる。働けるか」
「は、はい!」
田邊は、喜んで答えた。
「よし。雑用でもさせよう。名を田邊紘一と言ったな。覚えておく。わしは美濃国、神崎郷を治める神崎広綱という者だ」
美濃国。
現在の岐阜県だ。田邊の住む愛知県からは、それほど遠くない。
だが、時代が違う。五百年近く遡っている。
「ありがとうございます」
田邊は、深く頭を下げた。
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