包囲の長期化と疲弊
元亀元年の秋が深まるにつれ、包囲は膠着した。
本願寺は落ちない。
落とせないことは、信長も承知している。だが包囲を解けば、顕如の「勝利」になってしまう。全国の門徒に「本願寺は信長を退けた」と示すことになる。それは避けなければならない。
結果として、包囲が続く。
その膠着の中で、兵たちが疲弊していく。
長期間の野営は、体に堪える。
夜露で体が冷える。食事が単調になる。変化のない日々が、精神を削る。
紘一は、医療班の仕事の他に、兵たちの様子を気にかける時間を意識的に作るようになっていた。
ある夜、ひとりで天幕の外に腰かけていた若い兵がいた。
神崎家の兵ではないが、見覚えのある顔だ。姉川の戦いにも来ていた男だ。
「どうした」紘一は声をかけた。
「……田邊様」兵は驚いた顔をした。
「顔色が悪いぞ。体の具合か」
「いいえ、体は……大丈夫です。ただ、少し」
兵は言いよどんだ。紘一は傍に座った。
「言ってみろ」
「家のことが……」兵は小さな声で言った。「もう三ヶ月、帰れていない。家に、父と妹がいます。妹はまだ小さくて……父だけでは、なかなか」
「心配か」
「はい。でも、心配しているだけで、どうにもならない。それが……」
「歯がゆい、か」
「はい」
紘一は、しばらく夜空を見た。
この感覚は、紘一にもわかる。遠くにいる誰かを心配しながら、何もできない状態。その無力感は、体の傷とは違う痛みを生む。
「家のことは、今ここでは変えられない」紘一は言った。「だが、それは帰れたときのお前の頑張り分として、積み立てておけばいい。今できることは、ここで生きて、帰ることだ」
「……帰れますかね」
「帰れる。包囲戦は、前線突撃と比べれば死ぬ確率は低い。続けて気をつけていれば、帰れる」
根拠のない保証はしたくないが、これは事実に近い。包囲戦での死傷率は、正面戦闘より低い。
「ありがとうございます」兵は少し顔を上げた。
「妹は、いくつだ」
「六つです」
「六つか。元気盛りだな」
「はい、走り回っています」
兵が少し笑った。
それだけで十分だった。
完全に解決したわけではないが、少し軽くなった。そういう会話を、紘一は陣地を巡回しながら続けた。
***
十一月に入ると、信長は一時的に包囲を緩めることを決断した。
浅井・朝倉との戦いも再燃しており、兵力を分散させる必要があった。完全な包囲解除ではないが、一部の兵を引き上げさせる。
紘一も、岐阜への帰還を命じられた。
「また来ます」紘一は道善に言った。老僧は、医療班の陣地に留め置かれていた。
「……田邊様、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「あなたのような人間が、もっと増えれば、この世はもう少し生きやすくなるかもしれない」
老僧の言葉に、紘一は何と返していいか、少し迷った。
「買いかぶりすぎです」
「そうでしょうか。あなたは、敵でも人として扱う。そういう人間を、私は長く生きてきて、あまり見てきませんでした」
紘一は、道善の手を握った。
「お元気で」
「あなたも」
岐阜への帰路についた。
後ろを振り返れば、石山本願寺の石垣がまだ見えた。
あの戦いは、まだ終わらない。
帰路の途中、岐阜に近い宿場で、秀吉と同じ宿に泊まった。
食事の後、二人で少し話をした。
「田邊様、今回の包囲で、何が一番難しかったですか」秀吉は聞いた。
「疲弊だ」紘一は答えた。「兵が体だけでなく、心も疲弊していく。そこへの対処が、戦い方よりも難しかった」
「どう対処しましたか」
「話を聞く、それだけだ。解決はできない。だが聞くだけで、少し楽になる人間もいる」
「なるほど」秀吉は少し考えた。「田邊様は、それを自然にやりますね。兵が懐くのがわかります」
「懐かれても困ることもある」紘一は苦笑した。
「いや、それが田邊様の強みです」秀吉は真顔で言った。「信長様は兵を動かす力がある。私は兵を奮い立たせる力がある。田邊様は兵を安心させる力がある。どれが欠けても、軍は続かない」
紘一は、その言葉をしばらく噛み締めた。
「秀吉殿は、人をよく見ていますね」
「見るのが仕事みたいなものですから」秀吉は笑った。「では、田邊様、来年また本願寺に行くことになりますね。そのときも、よろしくお願いします」
「こちらこそ、頼みます」
宿の外から、夜風の音が聞こえた。
冬が近い。体が、その寒さをじんわりと感じ取っていた。




