二十四(第三十一話)
ダランがマルナに依頼した壁掛けの図案は、まだ決まっていなかった。
屋敷へ戻ったナユタナは昼餉を済ませると、執務室にこもり、赤竜の絵に取りかかった。
ところが何度描き直しても、「こんなに腹は出ていない」「もっと顔は聡明だ」「翼の形が違う」──などと言われ、どうにもダランの気に入るものにならない。
「本物を見れば、きちんと描くのだが……」
こまごまと続く注文に、ナユタナは小さくぼやく。
執務室はしんと静まり返り、作業が進まぬと悟ったマルナは、そっと女中の仕事へ戻っていった。
「……ダランよ、見せるなら今ではないのか?」
部屋に二人きりになると、ナユタナは囁いた。
ダランは天井を仰ぎ、静かに首を横へ振る。
「この部屋では狭すぎます」
「コルベの工房を作っている林ならどうだ?」
「領主邸から頭が見えてしまうでしょう」
思っていた以上に、ダランは大きかったらしい。
赤竜の全身を拝むには、広くて天井がなく、かつ誰にも見られぬ場所が必要だという。
「仕方がありません。
宵闇の時刻に、相応しい場所へお連れしましょう」
そう言うと、ダランは帳簿へ視線を落とした。
ナユタナは稽古用の棒切れを取りに、二階へ向かった。
△ ☽ △
執務室での稽古を終え、マーヤと自室で夕餉を済ませたナユタナは、紙の束と木炭筆を袋へ入れ、背に負った。
「ナユタナ様の冬用の外套やお靴を、作らなくてはなりませんね」
ダランと外出すると聞き、マーヤが身支度を手伝っていた。
彼女はリーナの毛糸帽子と外套をナユタナに貸し、顎の下で紐を結ぶ。
ナユタナは少し眉を寄せた。
「こんなに厚着が必要だろうか。今はまだ、“もゆるの月”ではないか」
「ダラン様から、寒さ対策をしておくようにと申しつかっておりますので」
こんな時刻にどこへ行くのかと、マーヤは不思議そうに見ていた。
今日の仕事はもう終わりだと、彼女は執事から告げられていた。
小部屋には人の気配がなく、ナユタナの寝台を見やっても、妹の姿はもうなかった。
支度を終えたナユタナは外套の重みによたよたとしており、部屋を出る彼女の背を、マーヤは心配そうに見送った。
灯を手にしたナユタナは、一人ユトロの部屋へ向かった。
これから向かう先は“秘密の場所”ゆえ、ユトロには決して洩らしてはならぬと言い含められている。
またユトロの戻る時刻を思い、用を済ませたならばすぐ屋敷へ戻るという。
ダランは露台に出てナユタナを待っていた。
いつもなら尻尾を出して稽古に入るところだが、今夜は違う。
ダランは負い紐でナユタナを背に括りつけ、膜翼を生やし、広げた。
初めて見る竜の翼に、ナユタナは目を丸くした。
だが、露台いっぱいに広がった巨大なその翼に、すぐさま慌てふためく。
「ま、待つのだダラン……!」
飛ぶとは聞いておらず、みるみる顔が青ざめた。
「どうされました?」
「私もあなたも、風の魔法が得意ではないのだが……」
声が、わずかに震えた。
ユトロの背中の感触が、ふいに思い出される。
「ですから、寒さ対策をお願いしたのですよ」
そう言うと、ダランは露台の手摺に立ち、風を探る。
翼膜を鋭く張り、一度だけ風を打つと、夜気を裂いて空へ躍り出た。
森人の叫びは夜風に流され、すぐに消えた。
ナユタナが覚えているのは、そこまでであった。
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「……は!」
目を覚ますと、星空が頭上にあった。
空気は冷え、風は止み、身体の下には岩肌が広がる。
辺りを見回すが、星の位置に覚えがない。
今日の月はすでに沈んでおり、頼りにならぬ。
妙な場所だと感じ、ナユタナは身を縮めた。
「ダラン……どこにおるのだ……?」
か細い声が、静まり返った空気へ吸い込まれる。
次の瞬間、地面がわずかに揺れ、暗みの底から巨大なまなこが現れた。
黄金色のまなこがナユタナを捉え、光の芯がひと息に細まり──
その圧に、森人は息を呑んだ。
意識は再び闇へ沈んだ。
「……ナ様……ナユタナ様?
二度も倒れるとは、面倒な小人だ」
「ふあ……ッ!」
ふたたび目を開くと、天井に散る青白い光が星空のように見えた。
しかしそれらは星ではなく、岩壁に埋まる魔石である。
ナユタナの仰ぐ“夜空”は、暗い洞窟の天井であった。
「さあ早く、私の姿を完璧に描くがよい。
……コホン。描いてくださいな」
低い声が空気を震わせる。
続いた咳払いは、ナユタナの髪をふわりと後ろへ押しやった。
岩壁に埋まる魔石の光が強まり、洞窟全体が明るく照らされる。
ナユタナの前には、巨大な赤竜の頭があった。
その巨体へ視線を落とすと、幾重にも重なる鱗が、血紅の艶を湛えて光を返していた。
深紅でありながらどこか透きとおり、鱗は鋼の板のように滑らかだ。
四肢には黒曜めいた鉤爪がのび、岩盤を裂きかねぬ鋭さを帯びていた。
長い尾はうねる蛇のように揺らめき、洞窟の空気を微かに震わせる。
目を丸くして固まるナユタナを見下ろし、赤竜はゆっくりと起き上がり、戦いの構えを取った。
「このような図は、どうでございましょう」
今度は前を向き、片手を振り上げる。
「今にも叩きかかるような、躍動を入れましょうか」
さらに顔を斜め上へ向け、翼膜を大きく広げて炎を吐いた。
ゴオォッと響く音に、岩肌の影が揺れる。
「どうです、いかにも赤竜という感じでしょう……ナユタナ様?」
森人は、またしても昏倒していた。
ナユタナはどうにかダランの気に入る図案を描き上げたが、それは思いのほか手間のかかるやり取りであった。
ダランは一度人の姿へ化けて見せ、驚かせぬよう注意を払ってから、ゆっくり竜へ戻った。
巨大な赤竜こそが真の姿であると理解させるためである。
ようやく本物の赤竜を見ていると実感したナユタナは、興奮と喜びで息を吹き返した。
黒衣が赤い鱗へ変わってゆくさまに、目を輝かせる。
「ダランは常に裸であったのか」
「そんなふうに言われるのは心外ですね。私めは鱗を纏っているのです」
「ならば鱗を剥がせば、竜は裸ということになるのか」
「敗北以上の辱めです。そうなれば、もはや生きてはいけませんよ」
新たに得た竜の知識を、ナユタナは早速紙へ書きとめた。
ダランは、見聞が偏っているのではと案じた。
「あとで私めにも読ませてください」
ナユタナは黙々と頷き、続けて姿絵を描き始めた。
その目は真剣そのものである。
さらさらと紙に写される見事な竜の姿を、ダランは覗き込んだ。
「足が太く……いや、顔がやけに小さいですね。
これはもう、別の生き物ではありませんか」
見上げる位置からの赤竜は迫力に満ちていたが、構図にどうにも不満があるらしい。
ダランはナユタナを洞窟のあちこちへ移動させ、そこから描かせた。
数枚の姿絵が描き上がると、二人は床へ広げて吟味した。
「……どうにも、この者は間抜けに見えますがね」
紙の中の竜に向けたダランの感想に、ナユタナは口をつぐむ。
彼女にはダランそっくりに描けていると思えるため、それはつまり──己への言葉でもあった。
「やはり、絵は止まっているため、迫力に欠けるのでしょうか」
「うむ……躍動はマルナが表現してくれるだろうか」
ふたりは頷き合い、「あちらがよい」「いや、こちらのほうが」と構図を絞り込んでいった。
屋敷へ戻る道すがら、ナユタナの意識は幾度も暗転した。
それでも宵のうちには、どうにかユトロの部屋へ辿り着いていた。
ユトロがラフベルの肉を抱えて帰ってくるまでの間、ナユタナは再び剣の稽古に励むのであった。




