二十三(第三十話)
スヴァン村付近でラフベルを狩ったユトロが、マルヴェナの待つスカルデンの北門へ戻る頃──
ナユタナは目を覚まし、酒瓶を探していた。
ユトロの寝台に伏したまま毛布の中を探り、やがて顔を出して室内を見回した。
棚に置かれた瓶と器をようやく見つけたナユタナは、小さく息をついて笑顔になった。
しかしなぜそんなところにあるのか、ぼんやりと記憶を辿り、ナユタナは目を瞬かせた。
「ユトロを起こさねば……!」
だがナユタナの見聞録を読んでいた男の姿はもうなく、机には紙がまとめて置かれていた。
窓の外では黒藍の空が朱を帯び、ゆるやかに朝へ変わろうとしている。
いつの間にか、一刻どころか、すでに数刻が過ぎているようであった。
「……もう、行ってしまったか」
ユトロは自分で起きて、出て行ったのだ。
ナユタナはそう思い、次のことに頭を切り替えた。
森人であるナユタナは、時刻を細かに扱う習わしがない。
そのため、約束を守れなかったことを、深く気に病むこともなかった。
寝台を降りたナユタナは、部屋のにおいを魔石で消し、露台に残るバルクの気配も念入りに消す。
干していたユトロの服を取り込み、腕いっぱいに抱えて衣装棚へ運んだ。
湿り気の残る靴の内側を土の魔法で乾かし、包んだ炭を入れ、それも棚へしまった。
「ふう……」
ひととおり片付けを終えたナユタナは、袖を捲くり、姿見に映る自分の腕を眺め、日々の鍛錬による成果を探した。
今は細く頼りないその腕が、鍛冶族のような逞しい腕になる日を夢想した。
それからナユタナは、リーナのもとへ向かった。
「ナユタナさま、こちらをどうぞ」
部屋へ入ると、新しい黄色の長衣を着たリーナが床に両膝をつき、ナユタナに向けて丁寧に手紙を差し出していた。
その服は、ナユタナがリーナへ譲ったものである。
手紙を受け取って広げると、不慣れな筆致で大きめの文字が並んでいた。
──ナユタナさまへ
ナユタナさまが優しくしてくださったこと。
あの夜にうたってくださったお歌のこと。
わたしはずっと忘れません。
小さな森のひと(あなた)のご親切を、
胸の中にいつまでものこします。
心からの感謝をここに。
リーナ──
「おお……よく書けておる」
リーナの目は早くに治っていたが、使用人たちを驚かせぬよう、ドロナの案でナユタナの部屋に留まっていた。
そして、リーナが退屈しないよう、文字の練習をさせていたのだが、今日でそれも終わりとなった。
小部屋から出てきたマーヤが、野花と包んだ木の実をリーナに持たせ、ナユタナへ贈る。
「あたしからも、お礼を言わせてください」
マーヤもナユタナへ丁寧に頭を下げる。
「妹を救ってくださったこと、感謝してもしきれません。
この子まで失っていたら、あたしは本当に独りぼっちでした。
ナユタナ様がこの地でお困りにならないように、心を尽くしてお仕えいたします」
頭を垂れる人族の姉妹に、ナユタナは胸のあたりにむず痒さを覚える。
「……う、うむ。
ではその……着替えを手伝っては、くれぬだろうか。
もちろん、一人でもできるのだが……」
もごもごとしているナユタナに、マーヤは笑顔で返事をすると、衣装棚へ向かった。
リーナは小部屋へ下がり、女中衣に着替えた。
それから姉妹はナユタナの服や髪を整える。
短いぼさぼさの髪は後ろで括られ、綺麗な草色の帯で飾られた。
「はやく伸びるといいですね」
「短いままでもいいと思うが」
「肩下まで伸ばしたほうが、いいと思いますよ」
姉妹が婚礼の結髪を思い描いていることを、ナユタナは知らない。
△ ☽ △
その日は、マルナの眼鏡を受け取りに、フォルトナの北区へ歩いて向かった。
共に来ていたコルベは、ドルガンの工房で正式に弟子入りすることを決め、週に三日、屋敷から通うことになった。
「ナユタナのお酒はとても美味かったよ。
どうしたらまたあれが飲めるんだい?」
酒を気に入ったヴァルダに聞かれ、ナユタナはダランに目配せする。
ダランは問題ないと頷いた。
「うむ、取引をしておるぞ。
二本を私に預け、一本を美味しくして返す、というものだ」
椅子を用意されたナユタナは、そこで果実水を飲んでいる。
ナユタナの交渉に、ヴァルダはにこりと微笑んだ。
「そりゃいいね。三本渡すから、二本を返しておくれよ。
私たち夫婦は一本じゃ足りないからね」
「おお、よいぞ。なら私も、少し手を抜こう」
二人は笑顔で見つめ合った。
「ヴァルダよ、四本渡してやってくれ。
俺は美味い酒が飲みたいからな」
堪り兼ねたようにドルガンが口を挟み、ヴァルダは笑って頷いた。
交渉は無事に成立する。
酒の行き来はコルベが任されることになった。
店の奥からヴァルダが硝子の酒瓶を持ってくると、ナユタナは目を輝かせる。
鍛冶族の火酒である。
四本の瓶はダランが受け取り、籠に収めた。
マルナは、ドルガンに枠の調節をしてもらっていた。
眼鏡越しの世界は一変し、彼女は言葉を失っていた。
硝子は仮眼鏡の時よりも薄く磨かれ、隔たりなど感じさせぬほど透き通っていた。
枠は祖父の形見より軽く、マルナの耳に馴染んだ。
ドルガンの髭に混じる白い毛、ごつごつとした肌の起伏、額に滲む細かな汗。
茶色の瞳の黒みがふっと開くのまで、ありありと見えた。
見つめられたドルガンは、気恥ずかしそうに汗を拭う。
調節が終わると、マルナは工房の中を見回し、窓の外を眺めては、言葉にならない声をこぼした。
「マルナよ、新しい眼鏡はよく見えるか?」
「ナユタナ様……とても……とても……」
マルナは涙ぐんで言葉を詰まらせた。
白く霞んでいた世界は色鮮やかに映え、狭かった視野も広がっていた。
「そんなに喜んでもらえると嬉しいね」
「金を払うだけで礼を言う奴なんざ滅多にないからな」
ドルガンの言葉に、マルナは慌てて頭を下げた。
その大きな動作にも眼鏡はずれず、枠の造りの確かさがうかがえた。
「あ、ありがとう……ございます!」
「おうおう。礼を言えって意味じゃねえよ。
あんたからは充分気持ちが伝わってるって話だ」
鍛冶族の夫婦は「いい仕事ができた」と微笑んだ。
「して、マルナよ。私の壁掛けは、できるのだな?」
ダランが尋ねると、マルナは頬を染めたまま緊張気味に頷く。
「はい、きっと良い物をお作りします……!」
「ならば、帰りに布屋へゆくぞ」
話を聞いていたヴァルダが、棚から木箱を出して、ダランとマルナに中を見せた。
「布の壁掛けを作るんなら、うちの針はどうです?
珍しい材料もありますよ」
「ほう、鍛冶族の針か」
木箱には針のほかに、鉄の釦、細かな硝子玉や糸が入っている。
ナユタナとコルベは、それを見て目を輝かせた。
ダランは針の購入を決め、顎を撫でながら素材を探る。
マルナは素材をひとつひとつ確かめ、どのように使えるかを思案した。
「この透明な糸の束は、金が混じっているのか?」
ダランが不思議な糸を手に取る。
「お目が高いね、旦那。
これは黄金絹蜘蛛の糸だよ。
染料に染まりやすくてね、何色にもできる。
ところどころに金が混じるから、豪華な飾りになるだろうね」
「ほう……」
ドルガンの店を出たナユタナたちは、布屋へ向かっていた。
コルベは修行のため、さっそく工房に残った。
ダランは上機嫌だ。
酒瓶と糸の詰まった籠を腕に抱え、足取りもどこか軽やかである。
壁掛けの竜の鱗に、金の粉を散らす図を思い描いていた。
「ところでダランよ。
この帯は、赤子を負ぶるためのものではないのか?」
「いえ、私めはナユタナ様のためにご用意しましたよ」
「……そうかもしれんが」
屋敷を出る際、ナユタナはダランの背に帯で括られたまま運ばれてきた。
ドルガンの店で一度解かれたが、今もまた背中に括られている。
道中、赤子を背負う人族を見かけ、帯の本来の用途が違うのではないかとナユタナは気になった。
何より、ドルガンが笑いを堪えていたのだ。
「ち、小さな方が使われるのです」
マルナは穏やかに笑った。
ナユタナがすぐどこかへ行ってしまうためだと察していた。
店の多い通りに入ると、ナユタナはきょろきょろと売り物を見回した。
「ダランよ、あそこの青い焼き物をもっと近くで見せてくれ」
「布屋が済んでからで」
ぴしゃりと言われて眉を寄せるが、再びナユタナは屋台の斑模様の玉に目を止めた。
「おお、あれは何だ? マルナよ、あれは?」
「あれはヤズラオの卵です。
荒野に住む生き物の、茹でた卵です」
「ほお……あれを見よ。
立派なホノが売っておる。夕餉にどうだろうか」
背に括られたナユタナは、そこから見える物へ逐一興味を示し、布を買い終えるまで、ダランの背から降ろされることはなかった。




