二十一(第二十八話)
スカルデンを北へ向けて走りながら、ユトロはマルヴェナの報告書を思い返していた。
『西ノ斜面ノ岩肌、
上面乾キタル如ク見ユレド、下層ニ水ヲ含ム。
雨後ハ崩落ノ虞アリト心得ヨ』
その場所に着いたユトロは、枯れ枝に布を巻きつけて目印を付けた。
マルヴェナの指示である。
地面に耳を当て、地中の音を探ると、確かに地がゆるんでいるのを感じた。
『北ノ尾根ヲ越エタル先ニ、霧ノ立チ籠ム谷間アリ。
午後、風向キ変ズレバ、視界ノ半バ失ハル』
続いて谷側に、等間隔で印を立てる。
谷底にはすでに霧が立ちこめており、太陽の位置から見ても、午後には風が変わると予測できた。
報告書の記述に、齟齬はなかった。
『スヴァン寄リノ沢筋ニ、青霧鳥ノ巣アリ。
近辺、獣ノ氣多シ』
そこは岩の多い山間で、沢沿いに低い林が続いていた。
帰りの手土産にちょうどよい狩場だと踏み、ユトロは沢に仕掛けを置く。
木の皮に爪痕のような傷を見つけ、辿ってゆくとシュローデの抜けた角を拾う。
獲物の目星をつけると、再び道を進めた。
『スヴァン—スカルデン間、雪馬ニテ半日ノ行程。
村手前ノ峠道ニ、風除ケノ二石並ビ立ツ丘アリ。
足ヲ休ムルニ適ス』
印の必要はない場所と感じたが、命令に従って低木の枝に布を結ぶ。
報告書の記述はここで終わっていた。
マルヴェナの記録に抜けはないかと考えながら、ユトロはスヴァンの村へ到った。
耳を澄まし、においを嗅ぐ。
村はまだ、夜の気配に包まれている。
微かな音を追って崖の陰へ向かうと、動く影を見つけ、ユトロは口元に僅かな笑みを刻んだ。
夜明け頃、スカルデンの北門に戻ると、そこにはマルヴェナが待っていた。
ユトロは印の布の残りを返す。
「お前の勝ちだ。明け方を過ぎてしまったな」
「いいや、余計なことをさせて悪かった。
……気が立っていたんだ」
ユトロを待つ間、マルヴェナは頭を冷やしていた。
ユトロの声色は故意ではないと、バルグロスに言われ、また、これが単なる腹癒せであると気付き、互いの時間を無駄にしたことを恥じた。
「マルヴェナの報告書は正確だった。
疲れていたお前を待たせたのだ。腹を立てるのは当然だろう」
息一つ乱れていないユトロを見て、マルヴェナは再び苛立ちを覚えた。
まるで全てを確かめてきたかのような男の態度に、彼女は内心、短く舌打ちした。
どうせ数か所だけ見て引き返したのだろう──
遠征隊の馬はすべてスカルデンのギルドへ預けられ、ここからはノルクという寒冷地の荷駄用騎獣を借りて荷車に繋ぐ。
ノルクは馬よりやや体高が低く、厚い毛皮を持つ獣である。
雨風に耐え、首は太く、幅のある蹄は雪に沈みにくい。
討伐の地に雪はまだないが、岩山の多い土地では脚の丈夫なノルクが重宝された。
「ユトロさん、昨日は遅くまでどちらへ行かれていたんです?」
弓使いのカイルスがユトロに並んで歩く。
カイルスは昨晩、バルグロスからユトロの行方を尋ねられていた。
「まさか、鳥を取ったりはしていませんよね?」
カイルスは小声で耳打ちした。
隊の中で鳥を食べていた者がいたらしく、僧侶に説教されていたという。
「何でも、卵はいいらしいのです。
雄の種を受けていないものであれば、“命”に含まないとか」
ユトロはフェノルのことだろうと思った。
白い外套の背に描かれた金の羽を、目を細めて眺める。
教会は鳥の事にやたら煩いと、カイルスはうんざりしていた。
雨の夜の魔法のせいか、フェノルの周りにはサリネを含めた魔法使いたちが集まっている。
フェノルは彼らの質問に、熱心に答えていた。
最初の目印を通過した。
バルグロスは山寄りを歩くよう、隊の列を細くした。
マルヴェナは、荷車の通過する様子を真剣に見守っていた。
「マルヴェナさんは、僕の恩師なんです」
「恩師……?」
ユトロの視線の先にマルヴェナがいたので、カイルスは彼女から弓を習ったことを話した。
「僕が冒険者を志すと決めると、父がギルドから弓の師を雇ってくれたのです。
その時に来てくださったのが、マルヴェナさんでした」
その頃のマルヴェナはまだ上級冒険者であったが、弓の腕は確かで、カイルスは良い師に出会えたことを喜んだ。
「マルヴェナさんは三本の矢を同時に飛ばし、三つの異なる場所へ正確に当てるのです。
しかも彼女の矢は、シュローデの首を飛ばせるほど強い。
僕には、とても届かぬ域の方です」
ユトロはカイルスの話から、マルヴェナは魔力を使っているのだと考える。
人族にとって武器は、体外魔素を集めるのに適した道具となる。
特級冒険者の多くは、人の域を超える力を持つと聞くが、それは魔力による強化と思えた。
魔法を使える者が少ないためか、人族は呪文が必須であると考えている。
だがユトロには、無意識に魔法を使っている者がいるように思えた。
二つ目の印に到着する前に、辺りは濃い霧に覆われていた。
そこでフェノルがまたも仰々しい詠唱を行い、魔法で前方の霧を払うと、周囲の者たちは再び男を称賛した。
簡単な風魔法であったが、威力の大きさに皆驚いている。
「手の込んだ印を付けてくれたのだな」
やって来たマルヴェナが、ユトロの仕事を褒めた。
「お前の命令に従ったまでだ」
ユトロがそう返すと、マルヴェナはため息を吐き、ようやく笑顔を見せる。
「悪かったよ。あんたはいい奴だ。カイルスの友だったのだな」
「ユトロさんは親切な人だって、僕はちゃんと言いましたよ」
マルヴェナに握手を求められたユトロは、握って返した。
ユトロの掌の感触に、マルヴェナは不思議なものを感じる。
「変わった手をしているな」
「そうか」
「……触り心地が、少しな」
失礼なことを言った気がして、マルヴェナは軽くユトロの背を叩いた。
それから彼女は再び隊列に目を向けた。
「フェノルという僧侶は、魔法使いより役に立っているのだな」
列に注意を注ぎながら、マルヴェナはカイルスへ尋ねる。
「嵐の時に、大きな結界で皆を守って下さいました」
「バルグロスも言っていた。
今まで見た魔法の中で、最も大きな結界だったと」
「詠唱がとにかく凄いのです。
僧侶という職を疑わしく思っていましたが、彼は本物なのでしょう」
鳥への執着がなければ、フェノルは今より称えられたかもしれない。
しかしフェノルの魔法は、ユトロの目には、特別なものには映らなかった。
沢沿いの道を進み、休憩に適した丘まで来る。
そこでマルヴェナは、低木に結ばれた印を見つけ、ユトロがここまで来たのだと知る。
男は岩の上で寝転び、すっかり眠り込んでいた。
「……カイルス」
「どうしたんです?」
湯を沸かしていたカイルスに、マルヴェナは困惑した顔で声をかけた。
「ユトロは足が速いと言っていたが──
ノルクで半日の距離を、一刻もかけずに走るなど、そんな馬鹿な話があるか……?」
スヴァンまでまだ少しかかるにしても、異常な速さではないかと、マルヴェナは顔を強張らせた。
スカルデンへ戻ったユトロは、息一つ乱していなかったのだ。
カイルスは王都で身をもって知ったユトロの速さを思い出し、首を傾げた。
カイルスにとって、マルヴェナの弓の腕は神業で、到底届かぬ域にある。
そして、ユトロの足の速さもまた、それと同じ領分のものだろうと思っている。
マルヴェナにはその感覚がわからぬようで、ただただ困惑していた。
カイルスはそんな彼女を珍しく思い、温かく笑った。




