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帝国が勝つほど死者の軍勢が完成するので、亡国の墓守王女は英雄たちの敗北を記録し続けます  作者: 平八
第1章 処刑場と最初の清算

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第7話 敗北記録ではなく、清算の手記

 夜になっても、反逆者区画の土は乾ききっていなかった。


 昼のうちに打ち直された杭。


 高さを正された番号札。


 深さを測り直された溝。


 石蓋の縁には、まだ湿った土が薄く残っている。


 風が吹くたび、鉄柵の影が細く揺れた。


 番号札は揺れない。


 杭も動かない。


 石蓋も沈黙している。


 帝国兵が見れば、正しく封じられた反逆者区画にしか見えないだろう。


 名はない。


 花もない。


 祈りもない。


 ただ、番号だけが並んでいる。


 それが帝国の望んだ墓地だった。


 死者が誰であったかを忘れさせる場所。


 死者が自分を思い出さないように、名と声と骨と血を離す場所。


 骨哭きの夜を二度と起こさないための、正しい封印。


 セレナは、反逆者区画の端に立っていた。


 測量紐は片付けられている。


 杭打ち槌も、鉄尺も、方位盤も、帝国の備品箱へ戻された。


 隊員たちはもういない。


 ヴォルフ班長も引き上げた。


 ただ、あの男の目だけは、まだ墓地のどこかに残っているようだった。


 声が薄い。


 燃え方が軽い。


 整いすぎている。


 ヴォルフは、違和感を捨てていない。


 油断はできなかった。


 それでも、今日、彼はセレナに命令書を残した。


 反逆者区画全列、帝国規格再測量。


 規格外の杭、番号札、溝、灰壺位置を修正すること。


 帝国管理墓地、反逆者区画墓守セレナに作業補助を命ずる。


 解体清掃部隊第三処理班長、エルンスト・ヴォルフ承認。


 帝国の印章つきで。


 それは監視だった。


 疑いだった。


 拘束でもあった。


 同時に、許可だった。


 セレナは、反逆者区画全列に触れられる。


 自由に動かす権限ではない。


 勝手に配置を変える権限でもない。


 帝国規格から一分も外せない。


 だからこそ、疑われない。


 帝国は、自分たちの規格だけは疑わない。


 セレナは外套の内側に手を入れた。


 誓約の手記がそこにある。


 今日一日で、その重さは少し変わっていた。


 紙が増えたわけではない。


 革表紙が厚くなったわけでもない。


 けれど、名を受けた手記は、死者が帰る場所を知るたびに重くなる。


 それは重荷ではなかった。


 預かったものの重さだった。


 セレナは、反逆者区画をゆっくり歩いた。


 第七。


 第九。


 第十一。


 第十二。


 第十三。


 番号札が並ぶ。


 間の番号にも、頁はある。


 まだ名を呼べるほど材料が揃っていないだけだ。


 名だけがある者。


 灰の場所だけが分からない者。


 声を奪われたままの者。


 骨が粉にされ、どの壺に混ぜられたのか定かでない者。


 帝国台帳には、番号だけがある。


 セレナの手記には、空欄がある。


 その空欄こそが、まだ返してもらうべきものだった。


 第七反逆壺。


 帝国台帳には、それだけ。


 セレナの手記には、こうある。


 白炎の魔導士、イリス・カレンディア。


 旧カレンディア城塞都市、最後の宮廷魔導士。


 処刑ではなく、包囲戦の三日目に焼かれた者。


 第九反逆壺。


 帝国台帳には、それだけ。


 セレナの手記には、こうある。


 黒槍のオルフェン・ラグ。


 西境砦、殿軍指揮官。


 退路を開くため、七十七名を逃がして討たれた者。


 第十一反逆壺。


 帝国台帳には、それだけ。


 セレナの手記には、こうある。


 盲目の軍師ザハル・レイム。


 地図を見ずに帝国補給路を三度断った者。


 目を潰されても、最後まで方角を間違えなかった者。


 第十二反逆壺。


 帝国台帳には、それだけ。


 セレナの手記には、こうある。


 銀盾のユアン・バルツァ。


 降伏文書を破り、捕虜二百名の処刑を一日遅らせた者。


 その一日で、子ども四十三名が山を越えた。


 そして、第十三。


 灰狼将軍ガルド・ヴァルガン。


 帝国は、彼らを番号に変えた。


 セレナは、その横に本当の名を書いた。


 ただ、それだけのことだった。


 ただ、それだけのことが、帝国には最も恐ろしい。


 名を呼ばれた死者は、自分を思い出す。


 声を返された死者は、誰が呼んだのかを知る。


 灰の場所を記された死者は、帰る方角を失わない。


 帝国が迷わせるために残した記録を、セレナは道として読んでいる。


 夜風が、番号札の間を通り抜けた。


 何も起きない。


 それでいい。


 まだ、起きる時ではない。


 セレナは墓守小屋へ戻った。


 小屋と呼ぶには、あまりに殺風景な場所だった。


 石の床。


 細い机。


 帝国台帳を納める棚。


 墓守用のランタン。


 水差し。


 それだけである。


 窓は小さい。


 外から中が見えにくい高さにある。


 中から外も、よくは見えない。


 帝国管理墓地の墓守に、広い視界は要らない。


 番号を読み、印を押し、死者を忘れる。


 それが仕事だからだ。


 セレナは扉の閂を下ろした。


 ランタンに火を入れる。


 炎は小さく、黄色く揺れた。


 彼女は机に座り、まず帝国台帳を開いた。


 今日の作業記録を確認する。


 第十三反逆壺、北列三番へ仮埋設。


 北杭、規格修正。


 南東杭、深度修正。


 南西杭、角度修正。


 番号札、高さ修正。


 反逆者区画全列、再測量命令受領。


 明朝より第一列確認開始。


 すべて帝国の文字で。


 すべて帝国のための記録として。


 どこにも、ガルド・ヴァルガンの名はない。


 どこにも、声の震えはない。


 どこにも、死者が帰る場所とは書かれていない。


 セレナは台帳を閉じた。


 次に、外套の内側から誓約の手記を取り出す。


 黒い革表紙の古い手記だった。


 表紙には装飾がない。


 家紋もない。


 王家の印もない。


 あるのは、指で何度もなぞられた跡だけだった。


 セレナは十三ページ目を開いた。


 白木の札が挟まれている。


 その札には、帝国が消した名がある。


 ガルド・ヴァルガン。


 薄い挟み紙には、声の震えが沈んでいる。


 文字の形をしていない。


 だが、指先で触れれば分かる。


 処刑台で放たれ、声留めの紙に閉じ込められ、炉へ渡る前に救い出した最後の息。


 セレナは銀筆を取った。


 手記には、飾った言葉を書かない。


 恨みも書かない。


 嘆きも書かない。


 死者が迷わないためのものだけを書く。


 第十三反逆壺、北列三番。


 北杭、北北東七度。


 石蓋深度、規格内。


 番号札、高さ修正済。


 灰、位置確定。


 名、受領済。


 声、炉に渡らず。


 セレナの筆が、そこで一度止まった。


 ランタンの火が、銀筆の先を細く照らしている。


 書かなければならないことは、まだあった。


 彼女は、次の行へ移る。


 骨、未回収。


 血、未回収。


 刃の名、未詳。


 たった三行。


 それでも、指先に重さが残った。


 ガルドは死んだ。


 首を斬られ、焼かれ、灰にされ、番号壺へ入れられた。


 帝国の処理は正しい。


 死者は戻れない。


 帝国はそう信じている。


 だが、手記の中には別の事実が残っている。


 名は戻った。


 声も戻った。


 灰の場所も定まった。


 墓地の角度も記された。


 完全な帰還には、まだ遠い。


 それでも、最初の清算は終わった。


 帝国は、彼をすべて奪ったつもりでいる。


 だが、すべてを奪うには、帝国は正確すぎた。


 セレナは十三ページ目に指を置いた。


 処刑場の血は、もう乾いている。


 炉の火も、もう落ちている。


 第十三の壺は、北列三番に沈んだ。


 帝国の目には、それで終わりだった。


 けれど手記の中では、終わったものから順に、帰る支度が始まっている。


 ランタンの火が、わずかに揺れた。


 十三ページ目の影が深くなる。


 呼び声ではない。


 まだ、死者は眠っている。


 起こしてはならない。


 けれど、名と声と灰壺の位置が同じ頁に並んだ時、紙の奥で何かが一度だけ息をした。


 セレナは、そっと目を伏せた。


「まだです、将軍」


 声は小さかった。


「まだ、あなたを戦場へ戻す時ではありません」


 返事はない。


 あってはならない。


 だが、沈黙の質だけが、昨夜とは違っていた。


 空っぽの沈黙ではない。


 眠っている者の沈黙だった。


 セレナは十三ページ目を閉じない。


 その下のページへ、指を滑らせる。


 イリス。


 オルフェン。


 ザハル。


 ユアン。


 それぞれの頁に、空欄がある。


 名だけある者。


 遺品だけある者。


 声だけ失われた者。


 灰壺の位置が不確かな者。


 殺した者の名がまだ届かない者。


 帝国は何年もかけて、彼らをばらばらにした。


 名は番号へ。


 骨は粉へ。


 血は別灰へ。


 声は炉へ。


 遺品は没収庫へ。


 死体の記録は中央へ。


 灰壺は反逆者区画へ。


 それは確かに、死者を迷わせるための仕組みだった。


 だが、ばらばらにしたものには、置いた場所がある。


 置いた場所には、番号がある。


 番号には、台帳がある。


 台帳には、印がある。


 印には、押した者の名がある。


 帝国は、奪ったものをすべて管理する。


 支配するために。


 忘れさせるために。


 そして、失くさないために。


 セレナは、その几帳面さを愛してはいない。


 感謝もしていない。


 ただ、利用する。


 帝国は死者を恐れている。


 だから、完璧に処理する。


 完璧に処理するから、記録が残る。


 記録が残るから、セレナは辿れる。


 これは復讐ではある。


 けれど、叫ぶための復讐ではない。


 取り乱すための復讐でもない。


 ひとつずつ、受け取る。


 ひとつずつ、戻す。


 ひとつずつ、帝国が埋めたものを返してもらう。


 セレナは手記の最後に近い空白ページを開いた。


 そこには、まだ題だけが書かれている。


 清算総記。


 その下に、帝国式の数字ではない文字で、細く名が並んでいた。


 白炎の魔導士。


 黒槍の殿軍。


 盲目の軍師。


 銀盾の守り手。


 灰狼将軍。


 その下にも、名は続く。


 帝国が滅ぼした国の数だけ。


 帝国が処理した反逆者の数だけ。


 帝国が番号を振った死者の数だけ。


 手記には空欄が多い。


 まだ足りないものが多すぎる。


 骨。


 血。


 声。


 遺品。


 殺した者の名。


 命令した者の名。


 処理した者の印。


 灰を入れた壺の位置。


 墓地の角度。


 番号札の裏。


 帰るために必要なものは、あまりに多い。


 セレナの魔力は少ない。


 彼女ひとりで、すべての死者を起こすことはできない。


 今すぐ英雄たちが立ち上がり、帝都を焼くこともない。


 そんな奇跡は起きない。


 起こしてはならない。


 契約のない死者は暴れる。


 戻り道のない死者は、名ではなく怒りだけを掴む。


 骨哭きの夜と同じになる。


 セレナが望んでいるのは、あれではない。


 死者を怒りの塊として使うことではない。


 彼らに、彼らの名で帰ってきてもらうことだった。


 だから、急がない。


 間違えない。


 帝国よりも正確に。


 解体清掃部隊よりも静かに。


 中央記録院よりも深く。


 死者の名を扱う。


 セレナは銀筆を置いた。


 机の上に、ランタンの光が落ちる。


 手記の頁が、かすかに揺れた。


 風は入っていない。


 窓も閉じている。


 それでも、紙が動いた。


 十三ページ目ではない。


 もっと前の頁。


 第七の頁。


 白炎の魔導士イリスの名がある頁だった。


 セレナは、ゆっくりとそちらを見る。


 頁はそれ以上動かない。


 ただ、紙の端が一度だけ震えた。


 まるで、遠くから誰かが爪先で扉を叩いたように。


 セレナは指を置いた。


「聞こえています」


 小さく言う。


「ですが、まだです」


 手記は静まった。


 静けさの中で、セレナは理解していた。


 第十三反逆壺を正したことで、線が一本繋がった。


 ガルドだけではない。


 反逆者区画全体の配置が正されれば、他の死者たちの頁にも影響が出る。


 墓地は、ひとつの壺だけでできているわけではない。


 番号札は列を作る。


 列は溝と交わる。


 溝は杭へ向かう。


 杭は石蓋を押さえる。


 石蓋の下には灰がある。


 灰の下には、帝国が消そうとした名が眠っている。


 ひとつを正せば、隣が呼ばれる。


 隣を正せば、その奥が震える。


 帝国規格墓地とは、そういうものだった。


 外で、足音がした。


 セレナは手記を閉じた。


 速すぎず。


 遅すぎず。


 墓守が台帳を閉じるのと同じ速度で。


 扉の向こうから声がかかる。


「墓守、まだ起きているか」


 若い隊員の声だった。


 ヴォルフの部下の一人。


 昼間、骨哭きの夜の話で顔を強張らせた男である。


 セレナは帝国台帳を手元に引き寄せた。


「はい。作業記録の整理中です」


「班長から伝言だ」


「伺います」


「明朝、第一列から再測量を開始する。班長も立ち会う。台帳をすべて出せ」


「承知しました」


「それと」


 扉の向こうで、若い隊員がわずかに言いよどんだ。


「反逆者の名が残っていないか、番号札の裏まで見るそうだ」


 セレナは、少しだけ目を伏せた。


 番号札の裏。


 帝国が名を消したと思っている場所。


 セレナが、もっとも早く名を隠してきた場所。


 ヴォルフは、そこへ近づいている。


 予想より早い。


 だが、遅すぎるよりはいい。


 警戒する敵は、より正確に動く。


 正確に動く敵は、より正確な記録を残す。


「承知しました」


 セレナは答えた。


「規定に従い、準備いたします」


「頼む」


 足音が遠ざかる。


 セレナはしばらく動かなかった。


 やがて、手記をもう一度開く。


 今度は十三ページ目ではない。


 番号札の裏に名を隠した者たちの頁を開く。


 そこに、今夜書き加えるべき一文があった。


 明朝、番号札裏面検査。


 エルンスト・ヴォルフ立ち会い。


 名の隠し場所、移し替え必要。


 銀筆が止まる。


 少し考えてから、最後の一文を書き直した。


 名は、隠すものではない。


 戻す場所を変えるだけ。


 セレナは手記を閉じた。


 机の上には、二冊の記録がある。


 帝国台帳。


 誓約の手記。


 一方は、名を消すためにある。


 もう一方は、消された名を拾うためにある。


 帝国台帳だけでは、死者は迷う。


 手記だけでは、死者は帰れない。


 だからセレナは、両方を読む。


 帝国が奪った順番を。


 帝国が隠した場所を。


 帝国が押した印を。


 そのすべてを、死者が帰る順番へ戻していく。


 セレナは、手記の表紙に指を置いた。


「これは敗北の記録ではありません」


 外では、番号札が夜に沈んでいる。


 第十三の石蓋は、まだ冷たい。


「清算の手記です」


 その言葉に応えるように、十三ページ目が一度だけ重くなった。


 ついで、第七。


 第九。


 第十一。


 第十二。


 まだ名を呼べない頁も、沈黙の奥で微かに震えた。


 セレナはランタンを消した。


 闇が小屋を満たす。


 闇の中で、手記だけが重かった。


 清算は、もう始まっている。

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