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学校に辿り着くと不安な気持ちが込み上げてきた。
この大きな建物の中にあの2人が居る。
それを考えると今すぐにここから逃げ出したくなった。
「逃げてもしゃーないよろ……」
校門の前で独り言のように呟く。
そう、逃げても何も解決はしない。むしろ逃避によって悪化する。
面倒な事は先に片付けなければと私は思った。
面倒ごとを放置すれば、後から何倍も面倒くさくなるのだから……。
教室のに入るとクラスメイト数人に心配された。
「大丈夫や! 風邪引いただけやから」
私はクラスメイトに軽く返すと自分の席に着いた。
後ろの席に健次の姿はない。
バスケ部の朝練がまだ終わっていないのだろうか?。
いつもなら汗をかいた健次に「おはよう」と声を掛けられるところだけど、今日はそれがなかった。
「なぁ? けんちゃん遅そうないかぁ?」
私は隣の席のクラスメイトに尋ねた。
「ああ、岸田は公欠やで! 練習試合で吉野行ったらしいで」
「あ、そうなん? 知らんかった」
健次が居ない。私は少しだけ気が楽になった。
どうやら神様は私の味方をしてくれているようだ……。
その日の授業はとても退屈だった。
世界史の授業を聞きながら今にも欠伸が出そうになる。
アケメネス朝ペルシャがどうなろうが私の知った事では無いし、ヒッタイトが台頭してきたところで私の生活に何の支障もない。
ただ、古代から中東は血なまぐさい歴史があると感じただけだ。
中東の歴史は権力者が取って代わって正義を主張するようなモノだった。
これに関しては中東どころか、日本国内も同じだと思うけれど……。
その歴史から学べる事は『力こそ正義』という事だけ。
本当にただそれだけだ――。
放課後。
私はクラリネットケースを肩から下げると音楽室へと向かった。
足取りは重く、出来る事なら行きたくはない……。
栞と会って、いったいどんな顔をすれば良いのだろうか?
彼女だって今、私には会いたくないと思う。
でも、逃げる訳にもいかない。いつまでも逃げ回っては居られない……。
音楽室の引き戸を開けると「お疲れ様です」といつものように挨拶した。
先輩たちに会釈をしながら自分の席へと向かう。
「お疲れ!」
「あ、おつかれさま……」
私の声を聞いた栞は一瞬固まってから挨拶を返した。
彼女は私と目を合わせないようにしながら口元を不器用に歪めて笑顔を取り繕った。
「あのね。月子ちゃん……。実はね……」
栞はおどおどしながら言いかける。
私はそれを遮るように「いやー! 昨日はごめんなー。風邪引いてもうたよー。最近、暑かったり寒かったり激しいからなぁ」とまくし立てるように言った。
「そ……。そうだよねー。身体おかしくなっちゃうよね」
「せやで! 栞はウチより身体弱いんやから気ぃつけやぁ」
私の勢いに気圧されたのか栞はそれ以上何も言わなかった。
久しぶりに吹くクラリネットはメンテナンスのお陰なのかとても調子が良い。
どうやら栞もメンテナンスしたらしく、いつもより音色が良いように感じた。
それから私たちは互いにあまり干渉せず演奏の練習をした。
横目で見る栞の指先はとても華奢で、ピアニストの指のように見えた。
このか細い指で健次の手を握っていると思うと気分が悪くなる。
「ふぁー、疲れたー。ひっさびさや。指がつりそうになるわ」
「そうだねー」
栞はそう呟くと大きく息を吸って私の方を向いた。
「月子ちゃん! 久しぶりに屋上で演奏しない? 冬は寒くてあんまり行かなかったけど、もう暖かくなったしさ!」
今度は私が気圧される番だ。
彼女は一気にそう言うと「ね?」と念を押すように言った。
「お、おう。ええで! したら先生に鍵借りよか?」
私たちの学校は普段は屋上を解放していなかった。
おそらく、自殺やイタズラを防止する目的だと思う。
しかし吹奏楽部員のみ、屋上での演奏が許可されていたのだ。
私は顧問の先生から鍵を借りると栞と2人で屋上へと向かった。
「ほんまに屋上ひさしぶりやなぁー」
「だねー。前もこうやって月子ちゃんと屋上行ったよね」
屋上の階段を昇ると簡易的にチェーンが掛けられていた。
南京錠などもなく、ただ端から端へロープのように掛かっているだけだ。
私はそのチェーンを外すと屋上入り口の扉まで一気に駆け上がる。
「この扉重たいからなー……」
私は鍵を開けると力一杯その扉を押し開けた――。
扉を開くとそこには茜色が広がっていた。
太陽が山へ沈み、これから夜がやってくる。
「気持ちええなぁ」
「うん……」
長い間、誰も立ち入らなかったのだろう。
屋上は老朽化で朽ちたペンキの破片と羽毛が散らばっている。
「ねえ月子ちゃん。一昨日だけどさ……」
「ああ、その話やろ? 栞が急に屋上ゆうからそうやと思ったで」
私は栞の目を見ること無く屋上の手すりへと向かって歩いた。
手すりの向こう側には校庭が広がっていた。
陸上部とサッカー部が部活動をしている様子が小さく見える。
「岸田君の事はちゃんと言わなきゃって思ってたんだよ……。でも、ごめん……。言いそびれちゃって……」
栞は申し訳なさそうに言うと深々と頭を下げた。
「かまへんて! つーた、頭下げんでええって! 栞が誰と付き合おうと自由やし!」
「でも月子ちゃん……。岸田君の事好きだったんでしょ?」
栞はそう言うと、小さな声で「ごめんね」と呟いた。
その瞬間――。
私の中で何かが崩れた。
考えてみれば当然なのだけれど、栞は私が健次に好意を寄せていると知っていたのだ。
気が付くと私の右手が栞の左頬を叩いていた。
ピタン! という気持ちの良いくらいはっきりとした音が屋上に響き渡る。
「わかっとるなら何でなん!? ウチがけんちゃん好いとるん知っとるくせになんで告白なんかしたん!? なんで栞はウチの大事なもんいっつもいっつも盗るの!?」
私は勢いに任せて彼女を責め立てた。
そこに理性の介在する余地は無い。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
栞はただ謝るだけで言い訳の一つも言わない。
「もうええ! もうええよ! けんちゃんとずぅーと一緒に居たらええ! もう栞なんか知らん!」
彼女を罵るだけ罵ると私は屋上から逃げ出した。
どうなるのが正解だったのだろう?
もし栞が健次以外と付き合ってくれてさえ居れば良かったのだろうか?
もし私が健次と付き合っていれば良かったのだろうか?
もし健次が栞を振ってくれさえすば良かったのではないだろうか?
そんな不毛な『IF』だけが私の頭を支配していた――。




