第二話
校舎へ駆け込みながら、絵里の胸はまだ落ち着かなかった。
遅刻しそうだから走っている。
――それだけじゃない。
さっき出会った男子生徒の顔が、頭から離れなかった。
優しそうな笑顔。
柔らかな声。
知らないはずなのに、なぜか気になってしまう。
(何考えてるんだろ、わたし……)
自分に言い聞かせるように小さく息を吐く。
けれど、一度意識してしまった心は簡単には戻らない。
階段を駆け上がり、二年A組の教室前まで辿り着いた時には、すでにホームルームが始まっていた。
扉の向こうから担任の低い声が聞こえてくる。
「伊藤……斉藤……」
出席確認。
完全に遅刻だ。
「うわぁ……最悪」
絵里は頭を抱えそうになった。
ほんの少しだけ扉を開け、中の様子を窺う。
担任は教卓で名簿を見ている。
今ならいけるかもしれない。
絵里はそっと後ろの扉を開け、できるだけ姿勢を低くしながら教室へ滑り込もうとした。
――その瞬間。
「春野ぉぉ~」
低い声が教室に響いた。
ビクリ、と肩が跳ねる。
恐る恐る顔を上げると、担任が呆れた顔でこちらを見ていた。
「また遅刻か?」
「す、すみません……!」
教室中の視線が一気に集まる。
顔が熱い。
穴があったら入りたい。
クラスのあちこちから小さな笑い声まで聞こえてきた。
「何回目だと思ってる?」
「……」
言い返せない。
担任は深いため息を吐くと、
「廊下に立ってろ」
と冷たく言った。
「は、はい……」
絵里は肩を落としながら自分の席へバッグを置き、そのまま教室を出ようとした。
その時だった。
ガラリ、と前方の扉が開く。
「失礼します」
現れたのは教頭だった。
教室の空気が少しだけ引き締まる。
教頭は担任へ近づくと、小声で何かを耳打ちした。
「……え? 本当ですか?」
担任の表情が変わる。
「はい。至急、職員室へ」
「わかりました」
担任は慌てたように教室を出ていった。
教室が一気にざわつく。
「何?」
「なんかあったの?」
そんな声が飛び交う中、絵里が立ち尽くしていると、隣の席から小声が飛んできた。
「絵里、今のうち」
親友の愛歌だった。
肩まで伸びた髪を揺らしながら、呆れ半分の笑みを浮かべている。
「早く座っちゃいなよ」
「え、でも……」
「今ならバレないって」
愛歌は小さく手招きした。
絵里は教室前方を確認する。
担任はいない。
教頭もいない。
クラスメイト達は好き勝手に騒ぎ始めている。
――今なら、本当に大丈夫かもしれない。
絵里はそっと席へ滑り込んだ。
「セーフ」
愛歌がクスクス笑う。
「もう、愛歌……」
絵里は小さく頬を膨らませた。
「ていうかさ」
愛歌がニヤリと笑う。
「さっき、誰?」
「え?」
「校門の前。一緒にいたイケメン」
「なっ……!」
一気に顔が熱くなる。
「ち、違うよ! ぶつかっただけ!」
「へぇ~?」
明らかに面白がっている。
絵里は慌ててスマホを机の中へ押し込んだ。
その時だった。
教室の前方が再びざわつく。
何気なく顔を上げた瞬間――絵里は息を止めた。
さっきの男子生徒が、教頭と一緒に教室へ入ってきたのだ。
「えっ……」
思わず声が漏れる。
男子生徒は教室を見回した後、絵里と目が合った。
そして、少しだけ笑った。
春の風みたいに、柔らかく。
その瞬間。
胸の奥が、また大きく鳴った。




