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第一話

決して、好きになってはいけない――。


 そんなこと、最初からわかっていたはずだった。


 それでも、人はどうして孤独に触れてくる優しさを拒めないのだろう。


 あの春の日。


 わたしはまだ、自分がどこへ向かって落ちていくのか、何も知らなかった。


     ◆


「やばっ……!」


 スマホの画面に表示された時刻を見た瞬間、絵里はベッドから飛び起きた。


 窓の外では柔らかな春の陽射しが街を照らしている。けれど、そんな穏やかな朝を味わう余裕など今の絵里にはなかった。


「遅刻、遅刻……!」


 制服に袖を通し、慌てて髪を整え、バッグを肩に引っ掛ける。


 一階からは何の物音も聞こえない。


 両親は共働きで、朝早くに家を出ることが多い。いつものように、今日も家には絵里ひとりだった。


 テーブルの上には『冷蔵庫にご飯あるから』とだけ書かれた母親のメモ。


 見慣れた文字。


 見慣れた静けさ。


 絵里はその紙から目を逸らすように玄関を飛び出した。


 春の風が頬を撫でる。


 坂道を駆け下りながら、絵里は再びスマホを確認した。


『八時二十七分』


「うそ……あと三分!?」


 思わず声が漏れる。


 桜ヶ丘高校までは、この坂を下って角を曲がればすぐだ。


 間に合う。


 そう思った瞬間だった。


 脇道から突然、人影が飛び出してきた。


「えっ――」


 避けきれない。


 次の瞬間、絵里の身体は相手とぶつかり、そのまま勢いよく地面へ倒れ込んだ。


「いたっ……!」


 アスファルトの冷たさが制服越しに伝わる。


 絵里は痛む腰を押さえながら顔を上げた。


 目の前には、自分と同じ制服を着た男子生徒が座り込んでいた。


「あ……ご、ごめんなさい!」


 慌てて立ち上がり、頭を下げる。


 男子生徒も少し驚いたように目を瞬かせた後、苦笑いを浮かべた。


「いや、僕こそ。前、ちゃんと見てなくて……」


 柔らかい声だった。


 春風みたいに穏やかな声。


 絵里は一瞬だけ、その顔に見惚れた。


 整った目元。


 少し長めの前髪。


 どこか中性的なのに、不思議と目を引く雰囲気。


 けれど次の瞬間、絵里は慌てて視線を逸らした。


(な、何見てるんだろ……わたし)


 胸の奥が少しだけ騒がしくなる。


 男子生徒は辺りを見回しながら、小さく息を吐いた。


「……あの、ちょっと聞いてもいい?」


「え?」


「桜ヶ丘高校って、どっちかわかる?」


「えっ?」


 絵里は思わず聞き返した。


「桜ヶ丘って……私の学校だけど」


「本当?」


 男子生徒の表情が少し明るくなる。


「助かった。スマホの地図見ても、いまいちわかんなくて」


 そう言ってスマホ画面を見せてくる。


 確かに、現在地の表示が少しズレていた。


 絵里は思わず苦笑した。


「方向音痴なんですか?」


「かも」


 男子生徒も小さく笑う。


 その笑顔を見た瞬間、また胸がざわついた。


 けれど。


 次の瞬間。


 絵里のスマホが震える。


『八時二十九分』


「やばっ!」


 顔色が変わる。


「ご、ごめん! 遅刻しそうなの!」


「あっ、ごめん!」


「学校まで案内するから、急いで!」


 そう言って絵里は駆け出した。


 後ろから慌てて追いかけてくる足音。


 春風が二人の間を吹き抜ける。


 坂を抜け、校門が見えた瞬間、絵里は立ち止まった。


「はぁ……着いた……」


 息が上がる。


 男子生徒も少し遅れて追いついた。


「ありがとう。助かった」


 優しく笑う。


 その笑顔に、また心臓が跳ねる。


 絵里は誤魔化すように視線を逸らした。


「べ、別に……」


 その時。


 校内に始業ベルが鳴り響いた。


「あっ!!」


 絵里は我に返る。


「いけない、本当に遅刻だ!」


 慌てて校舎へ走り出す。


 後ろから「ありがとう!」という声が聞こえた気がした。


 けれど、振り返る余裕はなかった。


 この時のわたしは、まだ知らなかった。


 あの出会いが。


 わたしの心を、人生を、ゆっくり壊していくことになるなんて。

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