上書きされた展示会
「保護者の方が誰も観覧にきていなくて、ちょうど手が空いているんです。よろしければご案内しますので、こちらでスリッパに履き替えてくださいね」
そう言って微笑む彼女の胸元には、手作りの可愛らしい名札が揺れていた。ピンク色のフェルトに、白抜きの文字で『ももの』と刺繍されている。
桃乃は柔らかな笑みを浮かべ、浮雲を教室へと促した。彼女が前を歩くたび、エプロンの裾が軽やかに揺れる。
浮雲は努めて視線を泳がせたが、廊下を渡る彼女の規則正しい足取りの端に、どうしても不規則に揺れる輪郭へ意識が吸い寄せられてしまう。
(……落ち着け。じろじろ見るのはよくない)
自分に言い聞かせ、浮雲は一度深く息を吐いた。
「こちらが展示室ですっ」
桃乃に連れられて足を踏み入れた瞬間、そこは原色のエネルギーに満ちていた。粘土をこねくり回した正体不明のクリーチャー、原色を叩きつけたような貼り絵、そして大胆なクレヨンの筆致……。
大人の常識を軽々と飛び越える「カオス」の群れに、浮雲は圧倒される。
「これは年長さんが作ったんですよ。お姫様のお城なんですって」
桃乃が浮雲の隣に寄り添うように立ち、一点一点の作品を解説し始めた。
彼女は説明のたびに深く腰を落とし、子供たちと同じ目線まで視線を下げる。
いつもこうやって子供たちと会話しているのだろう、その無意識の所作が、かえって彼女の肢体の曲線を否応なく際立たせていた。
ピンと張ったタイトなパンツの質感、屈むたびに強調されるヒップの丸み。彼女の言葉は鼓膜を通り過ぎるだけで、浮雲の脳内は視覚情報の上書きに追われていた。
(……話が、全然入ってこない)
「あ、これ! 私も一緒に作ったんです!」
桃乃が弾んだ声を出し、ひときわ目を引く大きな桃のオブジェを指差した。
新聞紙と和紙で作られた、丸みのある柔らかなフォルム。
「立派な桃ですね。……すごく、柔らかそうだ」
「ふふ、そうなんです。私の名前と同じ『桃』なので、つい気合が入っちゃって」
茶目っ気たっぷりに笑う彼女。そのシルエットは、目の前で微笑む彼女自身の瑞々しさと重なって見えた。
下心で凝り固まった浮雲の胸の奥が、その清廉さに少しずつ毒気を抜かれていく。
だが、その純粋さこそが、逆に彼女の無自覚な色気を際立たせてしまうのだ。
「先生、次はあっち!」
駆け寄ってきた園児に応じるため、彼女は再び深く前屈みになった。その瞬間、背中のシャツが引っ張られ、露わになったウエストのラインに浮雲の視線は釘付けになる。
手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。彼女が天然の美しさを振りまくたび、浮雲の理性という名の防波堤は、音を立てて削られていった。
「本日は、本当にありがとうございました」
見学を終え、園の門まで見送りに来た桃乃が、笑顔で軽く頭を下げた。
西日に照らされた彼女の顔には、外遊びで焼けた健康的な赤みが薄く残っている。
控えめなベースメイクを通り越して伝わってくる、若々しい肌の熱。
(……また、会えるだろうか)
喉まで出かかった言葉を、浮雲は辛うじて飲み込んだ。
別れを惜しむ間もなく、桃乃が思い出したように言葉をつなげる。
「本来は保護者向けなのですが、感想をいただけると励みになるので……。こちら、案内した方にお渡ししているんです。よろしければ」
差し出されたのは、幼稚園のパンフレットと、作品展のアンケート用QRコードが印字された小さなカード。
その隅には、案内係としての署名だろうか。名札と同じ『ももの』という丸みを帯びた文字が、あらかじめ丁寧に書き添えられていた。
「どうもありがとうございました、おもしろかったです。」
精一杯の紳士的な微笑みを返し、彼は後ろ髪を引かれる思いで門を後にした。
帰り道、浮雲の頭の中は「魅力的な幼稚園の先生」の残像で支配されていた。
作品の出来栄えなど、もはや記憶の彼方だ。
(明日からの仕事、少しは身が入るかな……。別の意味で気が散りそうだが)
帰宅し、カバンから園のパンフレットを取り出すと、帰りにもらったアンケート回答用の小さなカードが滑り落ちた。
『今日は遊びに来てくれてありがとうございました! またいつでも覗いてくださいね。 ももの』
角の取れた、丁寧な手書きの丸文字。
浮雲はそのカードをしばらく見つめ、そっとデスクの特等席に飾った。
しかし、現実は非情だ。
作品展は毎週あるわけではないし、独り身の彼には幼稚園との接点など本来あり得ない。
カードに自分だけに向けた連絡先が書いてあったらと妄想するが、そんなうまい話はない。
(……アンケートの自由記述欄に、自分の名前と連絡先を書いたら、読んでくれるだろうか)
そんな、できもしない妄想をして時間が過ぎる。
「次」がある保証などどこにもない。
それなのに、浮雲の心は、カードに残る微かなインクの香りに、いつまでも浮き足立っていた。




