クレヨンの記憶
クレヨンの記憶
どこにでもいるサラリーマン、浮雲律は、休日を迎えたばかりの静かな朝を迎えていた。
カーテンの隙間から差し込む春特有の、白く濁ったような光が、寝室のフローリングに細長い帯を作っている。目覚まし時計が鳴る数分前。習慣とは恐ろしいもので、仕事の日と同じ時間に脳が覚醒してしまった。
「……あと五分、いや、十分か」
一度そう呟いて目を閉じてみたものの、一度逃げ出した眠気は二度と戻ってこなかった。律は諦めて上体を起こし、軽く伸びをする。独身生活も大学に入ってからそろそろ10年目になろうかというところだ。朝の静寂は心地よさを通り越して、時折、耳が痛くなるほどの孤独として襲ってくる。
重い体を引きずるようにキッチンへ向かった。胃の腑を温める何かが欲しかったが、凝ったものを作る気力など微塵もない。
棚の奥から取り出したのは、いつ買ったかも定かではないインスタントコーヒーの瓶だ。乾いた音を立てて、茶色の粉末をマグカップに放り込む。
電気ケトルのスイッチを押そうとして、律は小さく溜息をついた。
中身は空だった。
昨夜、疲れ果てて帰宅した自分が、水を足すことすら忘れて寝てしまったのだ。蛇口を捻り、無機質な金属音を響かせながら水を注ぐ。スイッチを入れてから、お湯が沸騰するまでの数分間。そのわずかな待ち時間すら、今の律にはひどく無駄で、重苦しい儀式のように感じられた。
ポコポコと音を立てて沸いた熱湯を、無造作にカップへ注ぐ。
立ち上がるのは、豆の芳醇な香りとは程遠い、どこか焦げたような、ツンとした刺激臭。
スプーンで適当にかき混ぜ、一口啜る。苦味だけが尖ったその液体は、ただ「カフェインを摂取する」という目的のためだけの、色のない味がした。
「……味気ないな」
誰に聞かせるでもなく独り言を言って、律はマグカップを手に玄関へと向かった。
ドアの郵便受けには、昨日の夕方に回収し忘れた郵便物が溜まっている。公共料金の督促状に近い無機質な封筒、ピザの宅配広告、水道工事広告のマグネット、そして、
「……なんだ、これ」
束の中から、一枚のカラフルな紙が滑り落ちた。
それは、ありきたりな見飽きたチラシとは一線を画す、温かな色彩を放っていた。
『陽だまり幼稚園 作品展』
太いマジックで書かれたような手書き風の文字。その周りを、園児たちが描いたであろう拙い絵が埋め尽くしている。太陽は真っ赤な円からはみ出し、犬なのか猫なのか判別のつかない動物たちが、楽しそうに画用紙の上で跳ねていた。
「作品展、か」
律は冷めきったインスタントコーヒーを口に含みながら、ソファに腰を下ろしてそのチラシを眺めた。
特に予定もない土曜日だ。いつもなら、溜まった洗濯物を片付け、適当な惣菜で昼食を済ませ、午後はネット動画を眺めて一日が終わる。
だが、そのチラシに描かれた、ただ「描くこと」を全身で楽しんでいるような、跳ねるクレヨンの筆致が、なぜか律の目を離さなかった。
会社では、常に「過失のないこと」だけを求められる。一円の誤差もなく、ひとつの過不足も許されない予算資料。角を立てないように言葉を選び抜き、幾度も読み返してから送信するメール。上司の顔色を伺いながら、正解というよりは「正解に見える型」に嵌め込んでいくプレゼン資料。
一杯のコーヒーを丁寧に淹れる、そんな「自分のための数分間」を捻出する気力すら削り取られている律にとって、 画面いっぱいに広がる無邪気な色彩は、眩しさを通り越して、毒々しいほどの生命力に溢れて見えた。
「……少し、歩くか」
買い物のついでに散歩をするのも悪くない。子供たちの作品を見れば、すり減った心が少しは浄化されるかもしれない。
律は飲み残した黒い液体をキッチンに流し捨てると、クローゼットから一番無難なネイビーのチノパンと、生成りのシャツを取り出した。
外に出ると、空気はまだ少し冷たかったが、日差しの強さが確実に春の訪れを告げていた。
住宅街の細い路地を抜けていく。普段は駅までの最短ルートを急ぐばかりで気づかなかったが、よその家の庭先には沈丁花の香りが漂い、街路樹の蕾も今にも弾けそうに膨らんでいる。
幼稚園までの道のりは、徒歩で五分ほどだった。
近づくにつれ、どこか懐かしい音が聞こえてくる。
高い笑い声、親たちが子供を呼ぶ声、そして砂利を踏みしめる音。
独身男性が一人で幼稚園の門をくぐるのは、正直に言って少し勇気がいった。不審者に間違われないだろうか。そんな自意識過剰な不安が頭をもたげる。
しかし、門の前に立つと、そんな悩みは霧散した。
正門には、段ボールで作られた巨大なアーチが設置されていたのだ。そこには、色とりどりの折り紙で作られた花が、これでもかというほど無造作に、けれど愛情深く貼り付けられていた。
「いらっしゃいませ!」
若手の保育士らしき女性が、エプロン姿で元気に声をかけてくる。
「あの、、、チラシを見て、近所の者なんですが……」
「ありがとうございます! どなたでも大歓迎ですよ。どうぞ、奥のホールからご覧ください!」
屈託のない笑顔に背中を押され、律は一歩、足を踏み入れた。
校舎の廊下には、子供たちの靴箱が並んでいる。自分の靴よりも何倍も小さな、色とりどりの上履き。
廊下の壁一面には、ダイナミックな「自分たちの顔」の絵が貼られていた。
鼻が緑色だったり、目が顔からはみ出していたり。
それを見ているうちに、律の口角が自然と緩んでいく。
ホールの入り口まで来ると、そこにはさらに圧倒的な熱量が待ち構えていた。
部屋いっぱいに広がる、粘土の作品、牛乳パックやペットボトルで作られたロボット、あるいは色とりどりのダイナミックな絵画。
どれも大人から見れば「拙いもの」ばかりだが、それらはすべて、誰かに評価されるためではなく、ただ「作りたい」という純粋な衝動だけで形作られていた。
律の足が、ある一点で止まった。
それは、ホールの隅にある先生と園児の共同作品の展示コーナーだった。
色とりどりの画用紙が並ぶ中、一枚の絵に目が留まる。
描かれているのは、どこにでもある公園の風景のようだった。
青いクレヨンが、何度も、何度も、画用紙が破れんばかりの筆圧で重ね塗りされている。はみ出し、混ざり合い、ぐちゃぐちゃになりながらも、その青は驚くほど力強く、見る者の視界を塗りつぶすようなエネルギーを持っているかのようだ。
律はその、不器用極まりない筆圧で塗り込められた「青」をじっと眺め続けた。
正解も、整合性も、他人の評価を気にする様子もそこにはない。
ただ描きたいものを好きなように描いたその色彩は、今の律にとって、どんな名画よりも深く、胸の奥底へと染み込んできた。
ふと、背後から弾むような気配が近づいてきた。
「これ、私と園児たちで一生懸命つくったんですよっ♪」
静かなホールに響いたのは、驚くほど明るく、湿り気のない声だった。
律が驚いて振り返ると、そこには一人の女性が、満開の笑顔で立っていた。門のところで「いらっしゃいませ!」と元気に招き入れてくれた、あのエプロン姿の先生だ。
「あ……。あ、すみません。あまりに力強い絵だったので、つい見入ってしまって」
律が気圧されて一歩引くと、彼女は悪戯っぽく目を細め、律が見ていた「青い空」を誇らしげに指差した。
「わかります! この青、すごいですよね。もう、クレヨン三本くらい使い切っちゃう勢いで描いてて。私も一緒になって夢中で塗っちゃいました!」
彼女の言葉には、とても元気で愛らしかった。
仕事相手の顔色を伺い、一文字ずつ慎重に選ぶメールの文面とは、あまりにかけ離れていて、仕事を忘れられる。
「自由な青ですね。……好きです」
律の口から、自分でも驚くほど素直な言葉が漏れた。
「えっ!!」
彼女は一瞬、意外そうに目を丸くした。その拍子に、彼女の体からふわりと、石鹸のような、けれどどこか体温を感じさせる甘い香りが律の鼻をくすぐった。
「……あ、いえ、この絵のことです」
律が慌てて付け加えると、彼女はさらに深く、春の日差しのような笑みを浮かべた。
「あはは、びっくりしました! でも嬉しいです。はい! 最高に自由で、最高に格好いい青ですっ♪」
笑いながら彼女が律の顔を覗き込む。
至近距離で見つめる彼女の瞳は、春の陽光を反射してキラキラと輝いていた。
不意に、彼女の指先が律の袖口に軽く触れる。
「……あの、えーと?」
「は、はい、浮雲といいます。」
「わたしは桃乃といいます。よろしくお願いしますね」
桃乃。その響きが彼女の柔らかな雰囲気と重なり、浮雲の胸にすとんと落ちた。
「浮雲さんっ、そんなに熱心に見てくださるなら……よかったら、他にも案内しますのでみていってください!」
少しだけ首を傾げて上目遣いになる彼女の仕草に、律は言葉を失う。
朝の涼しさと日常で冷え切っていたはずの心臓が、少しだけ、うるさく跳ねた。




