011 造血所
「しっかしすげえ趣味だな」
「私じゃないよ。グイドの趣味」
「だろうなすげえもん」
カーペットに素足をつき、くるくると回る夕子を眺めながら、コンドルはまばらな拍手とともに笑いを含んだ声で呟いた。夕子は身体にピッタリと張り付いたスカートの裾を軽く引っ張り、まあね、と肩をすくめてみせる。ひとしきり他愛のない話をした後、もう待ちきれないとばかりにコンドルに急かされ、銀色のドレスをお披露目したところだった。
「それなに? 地底人?」
「宇宙人」
「いねえよ宇宙にもこんなひでえ奴」
うんうんと夕子は腕を組んで大きく頷く。こういう反応を待っていたのだ。どうせ恥を晒すなら、呆れるなり笑うなりしてくれたほうがまだ救われる。
「しかしよく着るよなそんなの」
「だからないんだって他に」
「あれは? 前着てたあれ……えーっと色気のないワンピース?」
「控えめと言って」
夕子はため息をつき、とぼとぼと歩いてベッドに戻った。怪訝そうに顔を上げたコンドルの隣に腰を下ろし、お手上げだと手のひらを振ってみせる。
「朝起きてたら消えてたよ。お気に入りだから靴箱に隠してたのに」
「朝? あーなるほど」
「なに?」
「いや?」
とぼけた感じでコンドルは首をすくめる。なんとなく嫌な感じだ。夕子が探るような目でじっと見つめていると、「気にすんな」と乱暴に頭を撫でられた。
「もう!」
大きな手で鷲掴みするように頭を揺らすので、頭蓋骨の中で脳みそがひっくり返りそうだ。
「久しぶりに会うとお前ますます乳臭く見えんな」
「はあ? さっきリンドウにも言われたけど……ベビーとかなんとか」
「はっ迷信だろ」
小バカにしたようにコンドルは鼻で笑う。
夕子はぐしゃぐしゃになった髪を撫でつけるのをやめて顔を上げる。
「アイツらはそうやって差別――おっと、区別すんの好きだからな。選民意識っての? アホらし」
「コンドルは……」
「当然ベビーだな。あーっと……五歳だったか」
「最近じゃん!」
「まあな。この屋敷でお前の次に乳臭いんじゃねーの? だからあてがわれたんだろ、最初の餌に」
自嘲めいた物言いだった。夕子の表情が曇る。気づかれたくなくて、夕子はそっと俯いた。
忘れていたわけではなかった――と思う。だけどもしかしたら忘れたかったのかもしれない。あの赤い背表紙のカタログに、幸いにもコンドルの写真は見当たらない。あそこは最下層だ。不運な者たちが行き着くこの世の地獄。コンドルはその上の最下層に最も近い下層で、こうしている今も踏ん張っている。ちょっとしたミスで、たった一言の過ちで、生き地獄に身を落とすかもしれない未来を予感しながら。
「そんな顔すんなって。みんなに比べたらずっとマシ。ていうか恵まれてんだろ。出世頭とか言われてんだぜ?」
「だれによ」
「さあな?」
コンドルはうしろに手をつき、上体をすこしだけ反らして天井を仰ぐと、口端に不器用な微笑みを浮かべた。
「知ってるか? この上等なスーツ新品だぜ。みすぼらしい格好すんなってここに来るたび新しいのくれんだ。けっこう待遇いいってわけ。やっぱしお嬢様の餌は特別なのかね?」
「餌ってそんな……」
「あーはいはいわかってるって。お前がそんなつもりないってことぐらい。最初だってオールホワイトが無理やり引き合わせたんだし……お前全然オレの血吸ってくれねえからあん時は焦ったな」
「オールホワイトってグイドのこと?」
「だってアイツ――グイド様は全身白だろ。白いコート脱いだら白いベストとフリフリのシャツが現れるんだぜ? どんだけ白くなりたいんだよ」
その光景を目撃したときのことを思い出したのか、コンドルはおかしそうに喉を鳴らした。それだけで夕子はほっとした。そんな自分に気づかないでほしいと願って、また顔を曇らせた。
夕子の望み通り、コンドルは気づかなかった。遠い目をして、閉ざされたドアのほうにぼんやりと顔を向け、呟いた。
「オレってラッキーだよな」
「どうして?」
「みんなには悪いけどさ、こうして少しでもあそこから離れられて内心喜んでんだぜ? お前が呼んでくれなきゃ一生あそこから出れないだろうしな」
「でもコンドルは……」
「まあな。例外的にお前の餌やってるけど、いちおう餌の世話係つーの? 使用人崩れだしな。それなりに自由はある。でもみんなはそうじゃないだろ?」
だから、とコンドルは言葉を切った。苦しそうに歪んだ横顔だ。そんな自分を誤魔化すかのように、くそっ、と苛立った声を上げて血のように赤い髪をぐちゃぐちゃに乱す。夕子の胸がズキンと痛んだ。みんな――とは、おそらく造血所の彼らのことだろう。
造血所。
この屋敷の広大な敷地の最辺境、生い茂った木々が鬱蒼とした森の中にひっそりと佇む地獄を、グイドたちはそう呼んだ。その実態は強制収容所だ。人間も吸血鬼も関係ない。ただ運の悪い者たちが怯えて暮らしている。
彼らは奪われる。ただひたすらに血を奪われ、血を造らされ、また奪われる。その繰り返しに意思などなく、自由などなく、希望などなく――生き死さえ選べない。安寧とはほど遠い。
「……オレらってなんだろな」
「なにって――」
「やっぱ呪われてんのかな。血に取り憑かれてんだよ。そんなオレら吸血鬼がさ、人間と共存するなんて無理に決まってるよな――」
吸血鬼は血を消費して生きる。だから自分で造る分だけでは到底足りず、他者の血を必要とする。造血所の吸血鬼とてそれは同じだ。血を奪われすぎた吸血鬼は奪われた分を補うため、人間の――一緒に生き抜こうと誓った友の首筋に、牙を立てずにはいられない。抑えられないのだ。その衝動を。欲求を。乾きを。
造血所の人間は奪われていく一方で、やがて血を造るのが間に合わなくなり、死に至る――ことがあればまだよかったのだろう。しかし現実はあまりに無慈悲だ。やっと解放されると安堵した次の瞬間、強制的に流し込まれる吸血鬼の血により鬼化し、新たな地獄が幕を開ける。今度は奪われ奪う側に回るのだ。
それは何度も再演され、その度に加速していくのだと、以前コンドルが話してくれた。運が悪ければ、人間が全滅し、すこし遅れて吸血鬼も全滅する。だけど運が良ければ、新たな人間がやってきて、ほんのわずかに生き延びる。まるでこの世界の――人間と吸血鬼の縮図のようだと。
「ごめんコンドル……また呼んで……」
「いいって。どっちにしろオレがみんなの血を奪うのは変わりないだろ」
夕子がコンドルの血を奪えば、コンドルは他の者の血を奪うほかない。いや、コンドルの言う通り、どちらにしろ奪うしかないのだ。吸血鬼は奪うことでしか命を繋ぐことができない。それを思うとコンドルが不憫でならない。造血所で不運な者たちの世話をする身でありながら、自身もまた彼らの首筋に牙を立てるしかないのだ。それならば――。
「ねえ造血所って他にないの?」
「他って?」
「せめて知らない人の血だったらコンドルも、その……楽、っていうか……」
「はっお優しいことで」
カァと夕子の顔が赤くなる。弾かれたように顔を上げ、だけど何も言えずに、ぐっと堪えて唇を噛む。
コンドルはまぶたを下ろし、静かに首を横に振った。
「造血所なんてどこにでもあるだろ。この屋敷はオールホワイトのもんだけど、別にアイツだけが偉いわけじゃない。他にも偉ぶってる奴らが自分の屋敷建てて、そこに造血所だって構えるだろうし、それに――」
「“それに”?」
「知ってんだろ。大型造血所」
「なにそれ?」
「なんだよ知らないふりか? 文字通りだよ。こんな屋敷にある小さい造血所と違って大規模のやつ。アイツら仲間意識強いしな。こういうお屋敷勤めじゃない奴も飢えないようにって吸血鬼なら誰でも利用できる造血所があんだよ。そこは人間オンリー」
その言葉でようやく夕子は思い出す。なぜ忘れていたのか不思議なくらいだ。大型造血所といえば、漫画『ひとおに』の中でも度々登場する重要な場所だ。むしろ、造血所が指すのは大型造血所のことで、こんな屋敷にもあって、それも吸血鬼でありながら人間と同じように虐げられている者がいるなんてここにくるまで知らなかった。漫画にはすこしも描かれていないのだ。
「そこは利用できないの?」
ひどいことを言っている自覚はあった。それでも夕子はコンドルを見上げ、わずかな希望に縋った。
「そこから血液分けてもらってコンドルが飲んだり――造血所の吸血鬼も、ううん私やグイド、リンドウも――」
「利用してんだよ。つーか基本がそっち。屋敷の造血所なんて予備だよ。なんかあった時のためのもん。毎日大型造血所から血液が届くから使用人ならもらえるぜ」
「だったらなんで――」
「鮮度は落ちる――って話だな。直接飲みたい奴とか人間の血は嫌だからって吸血鬼を選ぶ奴とか、まあ理由はいろいろあんだろ。別に禁止されてないし、腹減ったら造血所に足運ぶ奴なんか大勢いるぜ?」
「そんな……」
夕子は視線を落とした。そんなのあんまりだ。
それに、とコンドルは低い声で続ける。
「オレみたいに造血所で働く使用人はもらえないしな」
「えっ?」
「目の前に餌あんだから要らないだろってことらしいぜ。せっかくだから新鮮なの飲めって――まあ表向きの理由だよな」
「……表向きじゃないのは?」
「簡単な話」
コンドルは、はっと吐き出すように笑った。これまでよりもずっとずっと自嘲的な笑みだった。
「餌に情を感じたら困るだろ」