019 名前1
「事故だったの」
「もう聞いた」
「不慮の事故だよ」
「そうだね」
「ただの事故なのに……」
「そういうのって人間のあいだでは過失致死って言うんでしょ」
心底どうでもいいといった口ぶりでアリスが言う。可愛らしい人形のような顔は見るからに不機嫌で、ツンと尖ったバラ色の唇から今にも不満が飛び出しそうだ。つまらない、と顔にはっきり書いてある。
夕子は出かけたため息をなんとか飲み込み、軽く顎を引いて相槌を打った。それから口元につけたティーカップの陰でこっそり息を吐いた。つまらないのはこっちだって同じだ。しかしそれを言葉にするのはためらわれた。
憎らしいほど晴れ渡った空に歓迎された二度目のお茶会は、もうじき二時間が経とうとしているにもかかわらず、未だ盛り上がりを見せようとはしなかった。それでも、昨日のような殺伐とした空気はない。かといって、穏やかとも言いがたい。ちょうど一日前と同じように広い中庭の大きなパラソルの下で、ガーデンテーブルを挟んで向かい合ったアリスは基本的に夕子に無関心だったし、そんなアリスの一挙一動に夕子は身体をこわばらせた。そのため、ずいぶん長いあいだ紅茶を啜る音とカップを置く音だけが聞こえていた。重く長い沈黙は一時間にも及んだ。
それを打ち破ったのは、意外にもアリスだった。
「君と飲むアフタヌーンティーはひどい味がするよ」
「それは……そうなんだ」
「退屈なんだよ君の話」
当然だろう、というのが素直な感想だった。もちろん、そんなことは口が裂けても目の前の相手に言えるはずがない。夕子は意味がわからないという顔をして軽く首を傾げてみせた。
「でも――訊いてきたのアリスだよね?」
元はといえばアリスのせいなのだ。なぜなら、「最近なんかあった?」というよくある友達の会話みたいなノリで、よくはない問いをぶっ込んできたのはほかならぬアリス自身なのだ。夕子からしたら納得がいかない。
アリスは紅茶をかき混ぜながら、こちらを見ることもなく答えた。
「『最近死にたくなるほど辛いことあった?』」
「そうそれ。だから私は英雄のことを――」
「バカだね君」
間髪を入れずピシャリと言う。
「『最近死にたくなった?』だとおかしいってわからないの?」
「え、なんで?」
「考えてみなよ。『なんで死んでないの? 死にたくなったならさっさと死ねばいいのに』ってなるよ」
「あの……言ってる意味がちょっと……」
「どうせ勘違いしたんでしょ。僕が君の悩みを聞いて愚痴を聞いて言い訳を聞いて――慰めてあげるって? バカだね君って。ほんと大馬鹿者。僕は退屈だから嗤いたかっただけなのに」
「嗤う?――あ、なるほど……」
つまり平常運転というわけか。夕子が辛い目に合った話を聞いて紅茶の肴にでもするつもりだったのだ。
アリスはふんと小さな鼻で嗤って右手を頬に当てた。
「だいたいさ、君ほんとに後悔してるの?」
「英雄のこと? そんなの当たり前――」
「へえ、そう」
何が言いたいのだろう。
アリスはテーブルのクッキーやケーキには一切手を付けず、何度目かになる紅茶のおかわりを上品に啜り、挑発的な視線を夕子に投げかけた。
「とてもそんな風には見えないけどね。君の言葉はどうしてか薄っぺらい。紅茶に見せかけたお湯のようにね」
「意味わかんないよ。だいたいアリスにはわからないんだよ」
「ふうん君にはなんでもわかるって?」
「そんなこと一言も言って、ない……のに……」
いきり立った声はしだいにぼそぼそと小さくなり、最後はほとんどため息混じりになって聞き取れなくなった。
どっと疲れが押し寄せてくる。知らず知らずのうちに背中が丸まっていく。気づいたら白い椅子の上で膝を折っていた。途端に、正面から乱暴にカップを置く音が聞こえ、飛び跳ねるようにして夕子は黒いエナメル靴のスナップボタンを外した。それからもう一度、おそるおそる白いタイツの足先を座に下ろす。今度は何も聞こえなかった。
やっぱりアリスと会うのは苦行だ。取引なんてのるんじゃなかった。――そんなことを思っているのをやたら鋭い勘で察したのか、「忘れたの?」とアリスは低く脅すような声を出した。
「その服、普通だね」
「えーっと……脅してるの?」
「褒めてるように聞こえる?」
梅干しを食べたときのような顔になる。そのまま夕子は自分の胸元から足元までゆっくり視線を動かした。黒いワンピースに白いタイツ。ウエストはリボンできつく絞られ、多少のくびれがある。昨日よりもやや外行き感があるものの、やはり控えめなごく普通の服だ。まだ朝の早いうちにアリスから贈られたものだった。
あっ、と夕子はふと閃いて少し笑った。
「死にたくなるほどじゃないけど――辛いことならあったよ。今朝起きたらクローゼットの中身がサーカスの衣装になってたの。赤っ鼻のピエロのマスクとかもあって本格的だったなぁ」
「ユニークな試みだね。――笑ってあげたの?」
「笑う――なんで? むしろ怒ってもいいぐらいでしょ。勝手に人のクローゼット漁って服を処分するんだもの。いくら偉いからってそんなの横暴だよ。そろそろグイドに文句でも言おうかと思って――」
「死にたいの?」
夕子の肩がぴくりと動く。おそるおそる前に目線を上げる。アリスは手元の白いティーカップを覗いていた。長いまつげが伏せられている。ドレスとお揃いの、水色の指先。
夕子は耳たぶをかきながら、ちらちらとアリスを見て、迷っていた。
「……不愉快なんだけど」
「あ、あのさっ! アリスってグイドのこと好きだったりするの?」
なんだその訊き方は――とおもわず自分に突っ込みを入れる。しかし内心では小さくガッツポーズをしていた。当然アリスは喜々として――はなくとも、多少色めき立って身を乗り出すと思っていた。女という生き物は総じて恋の話が好きなのだ。国が違えど吸血鬼だろうと、仮にアリスの中身が百歳か二百歳のおばあちゃんでも、それは同じだろう。
だから夕子は少なからず面食らった。
アリスから返ってきたのはため息だった。冷たい視線が「バカじゃないの」と静かに物語っている。慌てて夕子は質問を変えた。
「ねえグイドのどこがいいの?」
アリスは答えない。
「いつから? 告白はしたの? まさか付き合ってるとか?」
やはりアリスは答えない。くすりともしない。
目の色を変えて、テーブルに身を乗り出したのは夕子のほうだった。
「恋人なの? だからずっとこの屋敷にいるの? ねえそうなの? そうなんでしょ?」
大きなため息が返ってきた。もう一押しだろうか。
夕子はなるべくおちゃらけた感じでほとんど囃し立てるように言った。
「ねえ正解? 正解なんでしょ? それともあれですか? ラブじゃなくてライクってオチ――」
「名前をくれたの」
カチャリと音を立ててカップがアリスの手から離れた。何かを思い出しているように、青い瞳がじっとカップの底を見つめている。
夕子は電池の切れた人形のように無言なり、どさっと椅子に腰を落とした。すこし考える。
「……孤児だったの?」
「とんだ職務怠慢だね。君の教育係はクビにした方がいい」
「リンドウのこと?」
「鬼化について教わってないの?」




