時、来たる
竹内のゴールにスタジアムの観衆、その9割方が落胆のため息をあげたが、すぐに安堵と歓喜に変わった。
「えぇっ?オフサイド?」
線審が真っ直ぐフラッグをピッチに伸ばしているのを見て、竹内は思わず抗議の声を上げる。チョン、マルコスの両ベテランも主審に確認しにいくが、当然判定は覆らない。勝利の女神はもう少し試合をいじりたいらしい。
しかし竹内は、今のゴールよりも一発で橋本を振り切れたことに手応えを感じていた。
(よし。この人だいぶ疲れてる。もう少し、もう少しの圧力で開けるぞ)
「あぶねえ…。微妙だったけどな」
「PK2回も失敗したけど、まだ俺達にツキあるな」
「まだあきらめんなぁっ!最後まで攻めろっ」
尾道のベンチでは、オフサイドの判定に選手たちが胸を撫で下ろし、ピッチの仲間にゲキを飛ばした。だが、首脳陣たち、特に水沢監督は頭を痛めていた。
(完璧なまでに橋本が振り切られた。オフサイドになったのは運が良かっただけだ。…しかし、橋本を下げれば高さがなくなる。誰で行くべきか…)
竹内のワンプレーが、守備の破綻の予兆であると直感した。しかし、終盤のパワープレーを仕掛けられた場合、橋本を下げてしまうと対抗できる選手がいなくなる。前半で既に切った交代カードも最後の一枚だ。どう転ぶか分からない以上、できるかぎり慎重に使いたい。指揮官は板挟みになっていた。「監督」
悩む水沢監督に、ビブスを脱いで臨戦態勢をとっていた山田が声をかけてきた。
「オレを使ってください。橋本の代わりにオレが竹内を抑えます」
「山田…。気持ちはありがたいが、お前はクロッサーだ。同点の今は使うべきじゃない」
「でも、今ウチは流れを失ってます。PKを失敗してオフサイドに助けられた。今のままじゃやられてしまいます。それに…」
一つ息を吐いてから、山田は顔を引き締めて言った。
「監督が5年間注いだのと同じ、いやそれ以上にオレはこの尾道に情熱を注いでいます。その尾道をJ1に上げる。その弾みをつけるために、今日は勝ちたいんです!お願いします」
JFL時代を知るただ一人の生え抜きの直訴。水沢監督は、最古参の情熱を無視するほど冷徹な勝負師ではなかった。むしろ、その情熱に賭けようと思った。
「…わかった。その前に伝えたいことがある。しっかり覚えて、ピッチに出たら選手に伝達してくれ」
ボールがピッチに出て尾道の交代が認められた。
山田は御野に代わって投入され、さらに布陣か大きく変わった。右サイドバックの小原が一列前に上がり、桂城がトップ下にスライド。最終ラインはモンテーロ、山田、橋本の3バックに変更。中盤を厚くした3−5−2に変更した。
「3バック。ディフェンスの枚数削って、向こうも攻めてくるんですか」
松本コーチの疑問に、バドマン監督は答えた。
「それは違うな。むしろ、センターバックの負担を考慮して守備を高めてきたのだ」
「しかし、4バックから3バックに変わりましたけど」
「イデと小原がウイングバックの位置取りで、守勢ではこの二人も加わった5バックになるのだ。剣崎たちにサイドからボールを入れさせないためにね」
「…なるほど。確かに、さっきの竹内のオフサイド、あれは橋本が限界にきている証拠だと言えますからね」
「仮に剣崎が反応したとしても、オフサイドかどうかはわからんが、ゴールネットは揺らしていたはずだ。…ここが、正念場だ。私もカードを切るとしよう」
バドマン監督も、尾道の交代に対抗して手を打った。佐久間に代えて王を投入。そのまま右サイドに入り、枚数の減ったサイドに圧力をかけた。ちなみに尾道サポーターの拍手はちらほら。今はかつての戦友を懐かしむ余裕はなかった。
それでも王自身は、久方ぶりの備後のピッチで躍動した。というかはしゃいだ。
(またここでサッカーできるなんて…、テンション上がるなあ)
対峙するマルコス・イデを有り余るスナミナとスピードで翻弄し、右サイドからチャンスを作る。今の尾道の布陣では、イデを抜いてしまえば、あとはスペースを走るだけだ。
王は右サイドを一気に駆け上がると、ゴール前を見る。かつての仲間と今のチームメートが競り合っている、奇妙な光景がそこにあった。しかし、すぐにその感情を打ち消した。
(感傷に浸ってる場合じゃないっ!今の俺は安泰じゃないんだっ!)
意を決してクロスを打ち上げる。強く蹴り飛ばしすぎだせいでボールは逆サイドに流れるが、関原がカバーに入りダイレクトで折り返した。
ボールはゴールに背を向けて、モンテーロと競り合う剣崎の足元に転がってきた。
(来たっ!やっと来やがったっ!)
視界に入った瞬間、剣崎は左足で地面を踏ん張り、身体を回転させていた。
「いけぇっ!!」
その回転は鋭かった。剣崎が右足を振りぬくと同時に、モンテーロが弾き飛ばされていたのが、剣崎の生み出した遠心力を物語る。強烈な一撃がゴールに突き刺さるまで、スタジアムは一瞬静かになった。
沈黙を破ったのは、剣崎の雄叫びだった。
「よっしゃあぁっ!!」
すぐさまアウェーゴール裏は、50人前後の和歌山サポーターが精一杯の歓声を上げていた。




